曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月)から
「義援金の配り方」の箇所を引用。
「・・第二の点は、義援金を正しく公平に分けるということである。
・・公平に平等にという例の思想のために、分配の機能が著しく
阻害されることである。
私は改めて言うが、それを悪いと言っているのではない。・・・
できるだけ公平に平等にすべきだ。
しかし超法規しか力を持ちえないような非常時には、
公平や平等を期すことは不可能に近い。
通信も交通も破壊されている。情報も偏っている。
だからそういう時にもなお公平と平等を追求したりすると、
公平に平等に何も配らないでいる他はない。
しかしこれはあまりにも愚かなことであろう。 」(p140)
この曽野さんの言葉から、思い浮かぶ『安房震災誌』の箇所を引用。
それは、トタンを大阪から送ってもらい、次にもう一度大阪に注文する
箇所にありました。具体的な箇所はあとにして、その最後にこうあります。
「・・『トタン』とその付属物料を罹災民の急に応じて
配給し得たのは郡長が英断の結果である。
勿論その英断は、県から見れば独断専行であるが、
それは常規から見た場合のことで、地震が描いた事実必然の要求は、
実際常規で律することが不可能であった。
今回の地震は詔書のいはゆる『 前古無比 』である。
眼前に起った必然の要求は何よりも強力であった。 」(p270)
では、二回目の『トタン』の取り寄せの経緯を記した場面を引用することに。
「斯くて第一回の屋根材料は、陸揚と同時に直ちに配給したのであるが、
町村長会議を招集して、各町村の所要を聞くに、
『トタン』板30余萬枚及び釘、鎹(かすがい)等之れに付属する
物料を要するとのことであった。
ところが、第二回目には、現金がなければ此等の諸材料を
取寄せることが出来ないのであった。
然るに素より斯うした大枚の金が郡当局の手にあるべき筈もないので、
県の保証を得て、一時の窮状を救ふの外なかった。
そこで、安房銀行頭取小原金次氏に謀り、
光田鹿太郎氏と同行上県して知事に懇請することにした。
そして門郡書記を同行せしめた。
ところが、知事は本件については一切責任を負ふこと能はずとて、
その懇請するところを容れなかった。
然し安房銀行にして責任を負ふならば、
農工銀行、川崎銀行の2行より金15萬円貸出の斡旋をする
ことだけは辞せぬ。といふことであった。
そこで小原氏は直ちに2銀行の代表者に会見して、
安房銀行に於て、15万円を借入れ、之れを以て
第二回の屋根材料を再び大坂に於て購入するに決した。
而して、第二回の大阪行きも矢張り光田氏を煩すことにした。
光田氏の外に安房銀行2名が正金を携へて、
日本銀行に至り之を手形に振替へて、
宇都宮郡書記が同行下阪することにした。
そして再び大阪府庁の斡旋で、『トタン』板5萬枚、
大小釘1200樽、外に『マッチ』『ローソク』若干を購入した。
ところが、輸送船に差閊へたので、
折原兵庫県知事の盡力で汽船豊富丸の提供を得て、
輸送せしめたのであった。豊富丸が、館山に入港したのは、
10月17日であった。
要するに小屋掛材料の配給は、可なり
複雑な経緯の下に郡長は多大な苦痛を嘗めたのであった。
が、然し・・・・・ 」(p269~270)
最後には、曽野さんの本へともどり、また引用することに。
「お金は集めるより配るほうが難しい。
正確に、目的に叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。」(p143)
「 日本赤十字も赤い羽根共同基金も、
集めたお金を被災者が最も必要とする時期に、
今回も配ることをしなかった。
既にこの問題は、阪神淡路大震災の時にも問題になっていたことである。
あれから16年、・・私たちは天災が再び起こることを予測しなければ
ならなかったと思う。
しかし今回もまた寄付金や義援金が最も威力を発揮する時に
人々の手に渡らなかったのは、16年間に関係者が本気で
素早い分配の方法を、真剣に考えて来なかったからである。」(p136)
現在の安房には、市と町はあっても、それを束ねる安房郡長はおられない。
館山市も鴨川市も南房総市も鋸南町も、まずは、大橋高四郎がいたことを、
知ることから、はじめるべきではないのだろうか。
さてっと、今年一日だけで、一時間ほどの講座。
こんな話を、いったい私にできるのかどうか(笑)。