和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『感謝の語り草』を語り継ぐ。

2024-06-11 | 安房
「語り継ぐ」ということで、思い浮かぶのは、
中島みゆき作詞作曲の「ヘッドライト・テールライト」。

   語り継ぐ人もなく
   吹きすさぶ風の中へ
   紛れ散らばる星の名は
   忘れられても

はい。このようにはじまっておりました。

昭和46年(1971)発行の『館山市史』のなかに
「関東大震災と館山」と題した箇所があり、そこにこうありました。

『 ・・当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
  郡役所職員、各町村首脳部が打って一丸となって、
  県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
  今でも感謝の語り草となっている。 』( p565~566 )

ところで、関東大震災は、大正12年(1923)9月1日。
この「館山市史」発行は、昭和46年(1971)7月1日。
まだ、関東大震災から50年に満たない頃の市史です。

倉地克直著「江戸の災害史」(中公新書・2016年)に

『  60~70年以上を超えると、口頭による伝承は
        不確かなものとならざるをえない。  』(p72)

とあります。そして昨年、関東大震災から百年がたちました。


さて、今年の一年一時間の講座を、どのようにまとめたらよいか?
どのように始めたらよいのか? と思う時に、まずここからにします。


「 『 感謝の語り草 』とは何だったのか?
   安房郡長大橋高四郎氏とは、いったいどういう方だったのか?
  『 県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力 』
   とは具体的にはどのよなものだったのか?
   どうでしょう。あらためて『 安房震災誌 』をたどる試み。 」

はい。今のところ講習録は、このような感じで始めようと思うのでした。


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安房郡の震後の復興

2024-06-10 | 安房
「 震後の復興は官民の双肩にかかる大なる事業である。
  眼前の応急対策を講ずると共に、
  亘久の復興を策せねばならない。

  それには有力なる郡全体を一つにした
  大団体を起す必要がある。殊に当時にあっては、

  県と安房郡震災地との意思の疎通融合を図る上に於ても、
  斯うした官民一致の団体は欠くべからざるの必要があった。

  先づ郡長大橋氏は此處に着眼して
  之れを郡内の重もなる有志に謀った。
  すると有志も亦た之を郡長と相謀り互に議を重ねて、
  次に掲ぐる『 設立趣旨 』によって、
  先づ9月21日にその発起人会を・・開催した。 」

 このあとに、『 安房郡震災復興会設立趣旨 』が載っております。

 ここには、趣旨書前半をカットして、後半以下を引用してゆきます。

『 ・・・・雖然非常なる時に際し単に
  官憲の力にのみ倚頼し拱手傍観するは

  本郡の為め甚だ憂慮に堪へざる所なり
  宜しく此際官民戮力以て本郡の復興を図り

  将来郡民生活の基礎を培ふは目下焦眉の急務にして
  亦以て郡民の一大義務たらずんばあらず

  若し夫れ一時を糊塗し他日噬臍の悔を招き徒に
  無辜の民をして路傍に泣號せしむることあらんか
  本郡の不幸之より大なるはなし茲に於てか

  吾人等捐埃の至誠を捧げ安房郡震災復興会を設立し
  郡民の嚮ふ所を定め官憲の莫大なる援助と
  郡民諸士の熱烈なる翼賛とを得て其の目的の貫徹を力め
  本郡永遠の利益を樹立せんとする所以なり

 此の日の出席者は

  萬里小路通房 檜垣直右 大橋高四郎 小原金治 吉田敬三
  長谷川三郎  川名博夫 島田栄治  笹子慶太 武津為世

 の諸氏であった。
 それから9月27日、郡長大橋氏は
 被害激甚地の町村長を招集して、各町村復興会から代表者1名ずつ、
 安房郡復興会の会員として選定すべき事を議定した。
 そして、29日に安房郡震災復興会の総会を・・開会した。 

 開会に先て郡長大橋氏は、座長に小原金治氏を推挙せんことを諮った。
 満場異議なく之に決した。座長小原氏は、会則を議せんことを提議した。
 すると満場一致で原案を可決した。
 会長、副会長その他の役員は郡長大橋氏の推挙に一任するに決し・・

 ・・・・・

 斯うした順序で、安房震災復興会は、その目的とする
 復興の為めの根本組織が出来上ったのである。

 そして小原金治、門郡書記、光田鹿太郎の3氏は、
 先づ住宅用亜鉛板購入に関して、県に出頭して、
 知事に交渉するところがあった。その結果、

 県は農工銀行、川崎銀行の両行から、低利で
 金15萬円を安房銀行に貸出し、安房銀行は同一利率で
 郡長指揮の団体に之を貸付け、住宅復興の資に供することとした。
 ・・・・・        」
               ( p326~330 「安房震災誌」 )

もどって、日付を確認してゆくと、
光田鹿太郎氏が、『トタン』等を懇願しに大阪へと出発したのが
9月11日で、その物資をのせて館山湾に入港したのが9月28日でした。
この光田鹿太郎氏の記述の箇所をもう一度ふりかえってみます。

「斯くて第1回の屋根材料は、陸揚と同時に直ちに配給したのであるが、
 町村長会議を招集して、各町村の所要を聞くに、『トタン』板30余萬枚
 及び釘、鎹等之れに付属する物料を要すとのことであった。

 ところが、第2回目には、現金がなければ此等の諸材料を
 取寄せることが出来ないのであった。然るに素より斯うした
 大枚の金が郡当局の手にあるべき筈もないので、
 県の保証を得て、一時の窮状を救ふの外なかった。

 そこで、安房銀行頭取小原金次氏に謀り、
( ちなみに、「安房震災誌」のp269には名前が『 金次 』とあり、
  p328等には、小原『 金治 』とあります。次は治の誤植みたいです )

 光田鹿太郎氏と同行上県して知事に懇請することにした。
 そして門郡書記を同行せしめた。ところが、知事は
 
 本件については一切責任を負ふこと能わずとて、
 その懇請するところを容れなかった。
 然し安房銀行にして責任を負ふならば、
 農工銀行、川崎銀行の2行より金15萬円貸出の
 斡旋をすることだけは辞せぬ。といふことであった。

 そこで、小原氏は直ちに2銀行の代表者に会見し・・・・  」

               ( ~p269 「安房震災誌」 )

このあとに、「安房震災誌」の編者である白鳥健氏は
こうまとめておりました。あらためて引用しておきます。

「 要するに小屋掛材料の配給は、可なり複雑な経緯の下に・・・
  配給し得たのは郡長が英断の結果である。

  勿論その英断は、県から見れば独断専行であるが、
  それは常規から見た場合のことで、地震が描いた
  事実必然の要求は、実際常規で律することが不可能であった。

  今回の地震は詔書のいはゆる『 前古無比 』である。
  眼前に起った必然の要求は何よりも強力であった。  」(p270)


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職員たちを引っ張る求心力。

2024-06-09 | 産経新聞
産経新聞6月9日(日曜日)の読書欄
「花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング」は
「蓮舫氏が名乗りを上げた都知事選。」とはじまっておりました。
そこに週刊文春からの引用がありましたので、その孫引き。

「 立憲議員の蓮舫評。
『 都合が悪くなると、周りのせいにしてしまう。責任転嫁の名人(中略)
  自分から周囲に気を遣ったり、妥協する協調力がゼロ。   』

  政治部デスク。
『 知事には約3万人の職員たちを引っ張る求心力も、
  議会との調整力も欠かせません。いずれも
  蓮舫氏が最も不得手としてきたところ。・・・  』   」


はい。私はといえば、『安房郡の関東大震災』をテーマに、
安房郡長大橋高四郎に焦点をあてているのですが、

次回は、関東大震災に際しての
安房郡長と吏員とのつながりを具体的に名前をあげ、
その他の方々の名前もとりあえず列挙してみたいと思います。

ちょっと、その前に、後藤新平に登場していただきます。

渡辺利夫氏は『 後藤新平は「危機の指導者」である。 』として
明治29年(1896)に初めて台湾の地を踏んでから指摘のなかに

「・・諸事情のための人材抜擢、
   抜擢された人間への全幅の信頼、
   信頼に応える技術者、官僚の後藤への献身が
   台湾統治成功の物語を彩っている。・・ 」

      ( 当ブログの、2024年1月26日に関連記載あり )
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「時に君とんだ事になったね」②

2024-06-08 | 安房
ふっと、思うのですが、
私がいざ、未曾有の大震災に直面したなら
どのような態度をとるのか?

たとえば、安房農学校の塚越赳夫教諭が
とっさに、どうしていたのか。その様子が思い浮かびます。

「 理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯では無いか。
 『 火事だ火事だ 』と呼ぼうとしたが自分の喉からは声がでなかった。」

「・・自分は血の気を失って仕舞った。・・・
 こうしてはゐられない。早く救ひ出さなければならぬ。
 しかし自分の体は思ふ様に働けなかった。
 焦りに焦って唯うろうろしてゐるのみであった。 」

   ( 以上は、p22~24「安房拓心創立百周年記念誌」より )

私が、大震災の罹災の当事者となった場合に、
まず、自分がするだろう姿は、このようなものだろうなあと思い浮かべます。

さて、そう我が身の姿を思うにつけて
思い浮かぶのは、船形町長正木清一郎氏でした。

船形尋常高等小学校報に掲載された文を読むと、
( これを書いたのは、小学校長のような気がします )。
その文に、震災当日の夜のことが書かれてありました。

「其の夜は翁(正木清一郎)と共に・・・
 町の火災の模様を眺め徹夜した。

 翁曰く、時に君とんだ事になったね。
 町に大部分は倒潰したその上にあの大火災、
 純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
 ・・・如何にしようかとの御相談・・・

 又曰く、ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
 明朝夜の明くるを待て学校の運動場に行き 
 町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。

 夜の明くるを待って・・本町在米の調査を到せしに
 漸く一日を支へるに足るか否かの米、
 程なく直ちに役場吏員を派して、被害僅少といはれる
 瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
 為に他の被害地よりも早く米の供給を得、
 町民も安堵の色見えたのであった。・・・  」
    ( p912  「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


この未曾有の大震災大火災を前にして
『 時に君とんだ事になったね 』と語られる正木清一郎氏とは
いったい、どのような人なのかという疑問が、つぎに浮かびます。

そこで、手にした古本は2冊。
 「 千葉のなかの朝鮮 」(明石書店・2001年)
 石垣幸子著「 朝鮮の千葉村物語 」(崙書房ふるさと文庫・2010年)

ここには、2冊目から引用させてもらいます。

「明治37年(1904)7月、千葉県水産組合連合会は臨時総会を開き、
 九十九里の不漁対策として、韓国への漁業移民について討議した。
 そして、韓海漁業視察員の派遣を決め、
 安房水産組合副会長正木清一郎他4名が朝鮮へ赴いた。」(p25)

明治37年(1904)といえば、その2月に日露戦争が始まております。
明治38年(1905)9月に、日露講和条約が調印されて
その年の12月、韓国統監府開設、初代統監伊藤博文。

千葉県から漁業移民として『千葉村』が出来ることになります。
明治39年(1906)11月、韓国統監伊藤博文千葉村を視察。


明治41年(1908)5月には、太海(ふとみ)村長であった鈴木松五郎が、
『千葉村』の監督として韓国へと渡っておりました。
明治42年(1909)9月に、鈴木松五郎監督が暗殺されております。
そして、明治42年10月ハルピンで伊藤博文暗殺。

千葉県の漁業の歴史的経緯には、このようなことがありました。
もどって、正木清一郎(1855~1934)は、代々船形村の名主でした。
大正12年の関東大震災の時には、68歳となっております。

『 純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ 』
という言葉とともに、
『 時に君とんだ事になったね 』
『 ああ咄嗟の場合よい考も出ないが 』

こうした語り口を思い浮かべるにつけ、
未曾有の大震災大火災に直面した際の、沈着な
代々の名主としての自覚がうかがえる箇所だと、
そうあらためて思ったりするのでした。


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大震災3日目の安房郡

2024-06-06 | 安房
「安房震災誌」から、関東大震災発生3日目の安房での出来事を取り上げてみます。
震災当日の安房郡長大橋高四郎の指揮については、以前に紹介しました。

それでは、9月3日の安房郡の様子はどうだったのか?
ケーキをカットするように、3日の出来事を断片的に並べてみます。


館山にある県の水産試験場の船の発航を依頼・・・
2日の夜半漸く出帆準備が出来、燈台は大小何れも全滅しており、
3日未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。
鏡丸には門郡書記が乗船して救護品に就ての一切の処理に任じた。(p257)

そして此等汽船の活動は、9月3日の未明から殆んど毎日のことで、
その航海日記を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。(p276)



3日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。
斯くては迚ても郡の外部の応援は望むべくもない、・・・
郡の外部に屬することは迚ても不可能である、
絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。

そこで、『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばならぬ 』
といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・  (p277)



青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。
ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に全力を盡して
も尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。・・・・
そこで、吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた
天幕を取り出して形ばかりの仮事務所を造った。 (p239)



光田鹿太郎氏に関してもこうありました。

「3日余震尚ほ甚だし此の時に当り震災の現況を撮影し置くは
 永久の紀念たるのみならず教育上、歴史上、科学上有効の
 材料たるべき旨を建策し写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む

 此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに
 何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる其の他
 地震学者等多数本郡視察者に於て複製して参考に供せらる。」(p341)

ちなみに、4日に開かれた緊急町村会議のあとには
『 震災状況調査 』への記述がありました。

「 被害の状況が明白に調査されなければ、救助計画も出来ない
  順序であるから、被害調査は、第一着に手をつけたが、
  調査の中枢機関たる町村役場が、何れも全潰又は半潰の
  悲惨な状態であるのと、道路も、交通機関も杜絶し、
  その上町村吏員も亦た均しく罹災者であるので、
  その調査には大なる困難を感じた。

  ・・・・時を移さず被害の状況をそれぞれ報告されたのである。
  郡当局は、それを基調として対応策を決定することが出来た。

  だが一度調査したものを更らに精査したり、
  又町村の応急施設指導の為めには、郡吏員は、
  屢々各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、
  調査の進捗を図ったのである。
  本書の第一編第一章の終りに掲ぐる
  『 震災状況調査表 』(大正12年9月19日調 安房郡)は、
  即ちそれである。   (p278~279)


すこし日付が先にゆきました。
もどって最後に、ここも引用しておきます。


9月3日の晩であった、
北條の彼方此方で警鐘が乱打された、聞けば
船形から食料掠奪に来るといふ話である。
田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
那古方面へ向て出発したが、
掠奪隊の来るべき様子もなかった。

思ふに是れは心が不安に襲はれて、神経過敏に陥った為めに、
何かの聞き誤りが基となったのであらう。すると、郡長は

『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』

といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
此の掲示が多大に効果があったのである。
果して掠奪さわぎはそれで阻止された。 (p220~221)




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今でも感謝の語り草となって②

2024-06-05 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。

「 ・・・当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
  郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって、
  県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
  今でも感謝の語り草となっている。・・・・       」(p565)

「安房震災誌」の中から、「感謝」に関係しそうな箇所を引用。まずは
「郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって」と関連しそうな箇所。

「 ・・素より不規律でやっていくのであるが、
   その不規律の中に一道の規律があった。

  それは郡長が統率者となり一身を以て
  総般の指揮に任じたことであった。殊に吏員は、

『 此際吏員は一身を捧げて罹災者の為めに大に努力すべし 』

  といふ郡長訓示の下に身を捧げて働いたのである。
  紙の上で画一的に定めた分担などよりも・・・・
  罹災者を満足せしめた一層の出来栄えがあった。  」(p280)

「安房震災誌」の第八章「震後の感想」に安房郡長の
 言葉としてでてくる箇所に『感謝』の言葉がありました。

「 それで、一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
  此の前古未曽有の大震災の中で、大部分の人が 
  或は死に、或は傷いてゐる中に、

『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が、
  既に『 感謝 』すべき大なる事実ではないか。 』

  自分はどうして一命が助かったか。
  と、ふりかへって熟々と自己を省みると
 『 感謝 』の涙は思はず襟を潤ほすのである。
  実に不思議千萬な事柄である。
  不思議な生存である。
  ありがたい仕合せである。

     生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
     一身を犠牲にして萬斛の同情を以て罹災者を救護せよ


  と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
  救護に当る唯一のモットーとしたのも
  此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。・・・」
                   ( p313~314 )

その直前の箇所にはこうあるのでした。最後にそこを引用しておきます。

「 ・・・氏(郡長)はいふ、此の大震災に就て、
  自分が身を以て体験したところを一言にして掩ふならば、
  『 感謝 』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
 
  ・・・実感を本当にいひ現はすには、
  自分の知り得るだけの言葉では、総てに向って
 『 感謝 』するといふ外はない。・・・・

  ・・・それは大震災当時の事実に当てはめて見ると
  文字通りの『 感謝 』では、物足らぬような感じがするのである。

  それは第一今回の大震災に就て、
  皇室の有難き御思召を思ふとき、
  正にそう感ぜずには居られない。

  次には郡の内外の切なる同情である。

  それと又郡民と郡吏員の真面目な、
  そして何処までも忠実な活動振りである。

  どちらから考へても『 感謝 』であって、
  そして、『 感謝 』の内包をもう少しく深めたくなるのである。 」
                   ( p312∼313 )
 

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今でも感謝の語り草となって

2024-06-04 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。

「・・・・9月6日戒厳令が施行せられ、
 安房郡内にも軍隊が派遣せられた。陸軍歩兵学校教導隊より
 一ヶ中隊、佐倉歩兵五七連隊、県警察部よりの派遣巡査等
 続々来援し、館山海岸ホテルを本部として治安維持に当ったので、
 間もなく自警団は解散した。

 一方、救護については、当時の記録を見ると(北条警察署報 安房震災誌)
 北条病院と長須賀納涼博覧会場を救護所に当て、県派遣の医師14名の応援と、
 千葉医大医師3名、看護婦4名、他に薬剤師1名を加えて医師45名にて
 救護に全力を尽くしたとあり、

 当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、郡役所職員、各町村主脳部が
 打って一丸となって、県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした
 努力は、今でも感謝の語り草となっている。・・ 」(p565)

はい。この引用の最後にある『 今でも感謝の語り草となっている 』
というこの箇所があるのでした。

大橋高四郎氏の行動の断片をとりあげると、当節のあら探しのような
表面的をなぞるだけならば、まずもって『怒鳴る』場面が浮かびます。

「・・俺(大橋)はいつも損害をかこつ人に・・
  ・・と怒鳴るのが常であった。   」
     ( p822  「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

「 ・・昼のうちは勿論、夜半になっても郡役所の仮事務所の
 中央の薄暗いところに、棒立になって顔の見さかへも付かぬまでに、
 汗とほこりにまみれて、白服の黒ろずんだのを着て、
 
 丁度叱るような、罵るやうな大声を挙げて、
 一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。

 『 あれは誰れだらう。 』と一般の通行人には可なり
 問題となってゐたのであったが、聞いて見ると、
 あれは大橋郡長であったのだ。

 といふ噂が、其處にも此處にも広がったさうである。・・ 」

                 ( p317~318 「安房震災誌」 )

ここだけでも、短く断片を切り取れば、
『 俺は・・・と怒鳴ることが常だった。 』となり、
『 叱るような、罵るような大声を挙げて 』いるのを
 一般の通行人が問題にしていた。ということになるのでした。

ここから、『今でも感謝の語り草・・』となるまでを
どのように言葉にしてゆけばよいのかと思っていると、

山本五十六が語っていた、という言葉が浮かんできました。

   やってみせ 言って聞かせて させてみて
         ほめてやらねば 人は動かじ。

   話し合い 耳を傾け 承認し
         任せてやらねば 人は育たず。

   やっている 姿を感謝で見守って  
           信頼せねば 人は実らず。


この山本五十六の『やってみせ』からはじまる短い言葉は
最後の方に『感謝』という言葉がでてくるのでした。
安房郡長大橋高四郎への
『 今でも感謝の語り草となっている 』へと

次回はつなげたいと思います。
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でも、まあとにかく。

2024-06-03 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」に、「関東大震災と館山」という
10ページほどの箇所があります。記録箇所は「安房震災誌」から
とられており、「大正大震災の回顧と其の復興」からの引用もあります。

そんな中に、ほかでは読めない箇所もありました。
ここには、嶋田石蔵氏の回想談「富崎の津波」を引用してみます。
これは、なかなかに聞けない談話なので、全文を引用することに。

「私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
 9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷を許されて、
 仲間数人と線路づたいに房州へ向かった。

 途中曲りくねった線路の上を、余震におびえながらとぼとぼと歩いた。
 五井駅付近に来た時、道往く人に、大島が海の中に沈んで、
 房州も陥没して海びたりになってしまったと聞かされた。

 でも、まあとに角 家に帰ろうと勇気をふるい起こして歩きつづけた。
 上総湊付近まで来た時、房州は大地震だったが、
 海には沈んでいない事が分かった。途端に腹がへってきて、
 物売りの婆さんから卵を買って食べた。
 それが大変うまかったので、いくつも食べた。
 さて、かんじょうになったら一個30銭と言われびっくりした。
 他に大人もいたので婆さんに『暴利も甚だしい』と、かけ合って、
 たしか10銭にしてもらったことをおぼえている。
 ( 幾日か後、暴利取締令が出された )

 上総と房州の境の鋸山トンネルを通り抜ける時は、
 膽を冷やした。入口で売っている、ろうそくともして
 長い長いトンネルを歩いていくと、中程に大きな石塊が
 ごろごろしていて、気味が悪かった。
 どうやら30分位かかって通り抜けることができた。

 ようやく房州に入って、疲れた身体を富崎の自宅まで運んだ。
 千葉を出てから丁度3日間かかった。でも家に着いて見ると
 家族全員無事で主家も流されていなかった。

 しかし津波の被害は惨たんたるものであった。
 ( 津波流失家屋70戸 )
 納戸の窓に船の『みおせ』がのぞいているし、
 石垣下の物置は跡かたなく波にもっていかれて、
 大切な家財は一物も残っていない。
 陸地のそちこちには、船がおき忘れられてあるし、
 家屋のがらくたが、そこの丘、こちらの山蔭に散らばっている。
 平砂浦の浜辺には、家屋のこわされた姿が惨めな形で打ち上げられている。
 津波の如何に大きかったかということを物語っていた。

 後で家人に聞いた処によると

『 大地震のあと、沖へ沖へと海がひいて、
  野島という陸地から300メートルもある島も陸つづきとなるし、
  海岸一帯は2メートルも隆起する。人々は『津波がくるぞ』と
  相浜の人々は大鑑院へ、布良の人々は布良崎神社の方へと逃げた。
  やがて洲崎方面から大きなうねりがやってきて、
  見る見る平砂浦の砂浜を洗い、相浜に向かっておしよせてきた。
  そのうねりは相浜部落をひとのみにしてしまった。
  一瞬多くの家屋や船も沖へさらっていってしまった。
  海の上には、草屋根だけがぷかりぷかりと浮いていた。 』

 と語ってくれた。
 しかし津波にさらわれた人は一人もいなく、
 地震も潰れた家は全潰15戸で、半潰が20戸前後であった。
 死んだ人も極くわずかでたった1人であった。
 津波で家を失った人たちは、学校や寺院に収容し、救護の手を待った。」

     ( p573~574 「館山市史」館山市史編纂委員会・昭和46年 )
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これはあまりにも愚かなこと

2024-06-02 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月)から
「義援金の配り方」の箇所を引用。

「・・第二の点は、義援金を正しく公平に分けるということである。
 ・・公平に平等にという例の思想のために、分配の機能が著しく
 阻害されることである。

 私は改めて言うが、それを悪いと言っているのではない。・・・
 できるだけ公平に平等にすべきだ。

 しかし超法規しか力を持ちえないような非常時には、
 公平や平等を期すことは不可能に近い。
 通信も交通も破壊されている。情報も偏っている。

 だからそういう時にもなお公平と平等を追求したりすると、
 公平に平等に何も配らないでいる他はない。
 しかしこれはあまりにも愚かなことであろう。  」(p140)


この曽野さんの言葉から、思い浮かぶ『安房震災誌』の箇所を引用。
それは、トタンを大阪から送ってもらい、次にもう一度大阪に注文する
箇所にありました。具体的な箇所はあとにして、その最後にこうあります。

「・・『トタン』とその付属物料を罹災民の急に応じて
 配給し得たのは郡長が英断の結果である。

 勿論その英断は、県から見れば独断専行であるが、
 それは常規から見た場合のことで、地震が描いた事実必然の要求は、
 実際常規で律することが不可能であった。
 今回の地震は詔書のいはゆる『 前古無比 』である。
 眼前に起った必然の要求は何よりも強力であった。  」(p270)


では、二回目の『トタン』の取り寄せの経緯を記した場面を引用することに。

「斯くて第一回の屋根材料は、陸揚と同時に直ちに配給したのであるが、
 町村長会議を招集して、各町村の所要を聞くに、
 『トタン』板30余萬枚及び釘、鎹(かすがい)等之れに付属する
 物料を要するとのことであった。

 ところが、第二回目には、現金がなければ此等の諸材料を
 取寄せることが出来ないのであった。
 然るに素より斯うした大枚の金が郡当局の手にあるべき筈もないので、
 県の保証を得て、一時の窮状を救ふの外なかった。

 そこで、安房銀行頭取小原金次氏に謀り、
 光田鹿太郎氏と同行上県して知事に懇請することにした。
 そして門郡書記を同行せしめた。

 ところが、知事は本件については一切責任を負ふこと能はずとて、
 その懇請するところを容れなかった。

 然し安房銀行にして責任を負ふならば、
 農工銀行、川崎銀行の2行より金15萬円貸出の斡旋をする
 ことだけは辞せぬ。といふことであった。

 そこで小原氏は直ちに2銀行の代表者に会見して、
 安房銀行に於て、15万円を借入れ、之れを以て
 第二回の屋根材料を再び大坂に於て購入するに決した。

 而して、第二回の大阪行きも矢張り光田氏を煩すことにした。
 光田氏の外に安房銀行2名が正金を携へて、
 日本銀行に至り之を手形に振替へて、
 宇都宮郡書記が同行下阪することにした。

 そして再び大阪府庁の斡旋で、『トタン』板5萬枚、
 大小釘1200樽、外に『マッチ』『ローソク』若干を購入した。

 ところが、輸送船に差閊へたので、
 折原兵庫県知事の盡力で汽船豊富丸の提供を得て、
 輸送せしめたのであった。豊富丸が、館山に入港したのは、
 10月17日であった。

 要するに小屋掛材料の配給は、可なり
 複雑な経緯の下に郡長は多大な苦痛を嘗めたのであった。
 が、然し・・・・・         」(p269~270)


最後には、曽野さんの本へともどり、また引用することに。

「お金は集めるより配るほうが難しい。
 正確に、目的に叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。」(p143)

「 日本赤十字も赤い羽根共同基金も、
  集めたお金を被災者が最も必要とする時期に、
  今回も配ることをしなかった。

  既にこの問題は、阪神淡路大震災の時にも問題になっていたことである。
  あれから16年、・・私たちは天災が再び起こることを予測しなければ
  ならなかったと思う。

  しかし今回もまた寄付金や義援金が最も威力を発揮する時に
  人々の手に渡らなかったのは、16年間に関係者が本気で
  素早い分配の方法を、真剣に考えて来なかったからである。」(p136)


現在の安房には、市と町はあっても、それを束ねる安房郡長はおられない。
館山市も鴨川市も南房総市も鋸南町も、まずは、大橋高四郎がいたことを、
知ることから、はじめるべきではないのだろうか。

さてっと、今年一日だけで、一時間ほどの講座。
こんな話を、いったい私にできるのかどうか(笑)。
 
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臨機応変へのレッスン。

2024-06-01 | 安房
東日本大震災の頃に各雑誌へと掲載した文をまとめた一冊
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)を、
このところ、身近に置いております。

その本の目次をめくると、そこに
「 初めて日本が崩壊するのを見た70歳以下の人々 」
なんて小見出しがあるので、そのページをひらいてみる。

「 ・・今度初めて70歳以下の人々は、
  3月11日以前の日本社会が崩壊したのを見た。
  彼らはそのような日本の姿が崩壊する日が
  あろうとは思わなかったようだった。・・・ 」(p71)

この本が出版されたのが、2011年9月10日。
ということは、当時70歳の方は、現在はもう
80歳を過ぎていることになるなあ、とそんなことを思うのでした。

この世代については、こうもありました。

「 常にあらゆるものに規則があり、それを守ることが
  役所としても学校としても個人としても
  最も大切なことだと教えられて育った世代は、
  その規則が適応できない事態になると
  全くどうしていいかわからない
  パニックに陥るか、思考停止になる。・・・
  臨機応変という才能は実に大切だ。
  なぜなら災害時には、状態が刻一刻と変わる。・・  」(p191)


はい。以上を前置きとして、
「安房震災誌」にある、後日談のエピソードをひとつ引用してみます。
これが、臨機応変へのレッスンとなるのかどうか?

「 ・・震後或る日の未明であった。
  郡長は何時ものやうに、中学校の裏門通りを郡役所に急いだ。

  途に一人の老爺が、郡長を見かけて
『 誰れの仕事か知れませんが、毎晩来てうちの芋畑を
  すっかり荒して了ひました。どうかなりませんでせうか? 』

  すると、郡長は
『 折角の作物を盗まれるのは、洵に気の毒だが、
  ぢいさんよく考へてお呉れ。

  お前は とられる方で とられる物を持っているのだが、  
  とらなければ、今日此の頃、生きて行けぬ方の身にもなって
  御覧なさい、どんなに苦しいか分からない。

  殊にお前は、世間の多数が死んだり負傷したりした
  大震災の中に、無事なやうだ。

  並み大抵の時とは違ふから、
  辛棒して大目に見てやって呉れ! 』

  と頼むやうに諭してやったそうである。
  郡長の話を傾聴してゐた老爺は、郡長の言下に
『 ああ分りました、分りました。どうも済みませんでした。
  よろしうございます 』
  と幾たびか低頭して、其處を去った。・・・・・・

  人心が動もすれば悪化せんとしてゐる最中である。
   ・・・・                   」(p315)



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