平川祐弘と竹山道雄の本をひらいていると楽しい。
それがどのような楽しさなのかを、
ちょっと説明したくなりました(笑)。
たとえば、宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)に
「サブカルチャーというのはさらにサブカルチャーを生むんです。そして二次的なものを生むときに、二分の一になり、さらに四分の一、八分の一になり、どんどん薄まっていく。それが今です。そう思います。」(p131)
という箇所があり、印象に残っております。
二次的なものを生む、そのまえの本物をさがそうとすると、
これがいかに、困難で分かりづらいか?
うん。平川祐弘・竹山道雄の本をひらいていると、
その本物を読んでいる気分になる私がおります。
この本物にさかのぼることについて、
思い浮かぶことを以下書いてみます。
板坂元著「極めつきの文章読本」(ワニ文庫)に
「たとえどんな小さな問題でも、すでに学界の定説となっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名を記する必要がある。米国の論文などで、几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか、『某氏の手紙による』といったふうに丁寧にフットノートをつける人もいるが、それほど学問の世界は厳しい。そういうクセを若いときから身につけておくことは、非常に大切なことだ。」(p8)
同じ板坂元氏の
「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)には、
こんな箇所がありました。
「学者というものは、自分の知らないことをはっきりと知らないと言えるようになったとき、はじめて一人前になったと言われるものだ。自信がなければ、知らないことは言いにくい。・・・その点からでも、註をたくさん入れて自他・公私を区別することは、まず、あらゆる方面での、はじめでありおわりである。・・・・ついでながら、註をふんだんにつけながら、いちばん肝心のネタ本だけをかくすという変な習慣も、今もって後をたたない。どうでもよい引用書目だけをにぎやかに書きたてて、もっともよく利用した本を、ひたかくしにかくすため、読者はすばらしく学のある人だと信じこむ。・・・この種の手のこんだインチキは普通の人には見つけにくいものだ。・・・」(p202~203)
さてっと、
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋)に
「イソップ物語・比較倫理の試み」がはいっております。
その本のあとがきに、こんな箇所がある。
「・・筆者のこの『イソップ物語・比較倫理の試み』がきっかけとなって、その後同学の小堀桂一郎氏の研究『イソップ寓話』が中公新書から出た。学者の相互刺激というのは愉快なもので、統計数理研究所の林知己夫氏もその後イソップ物語のさまざまな版を求められたと仄聞する。実はそのイソップについての研究をまとめた後に、私はアメリカへ二十ヵ月、ついでまたフランスへ八ヵ月、出張する身となった。・・・」(p349)
ここまで読んで、本棚に読まずにあった
中公新書の小堀桂一郎著「イソップ寓話」をひらいて、参考文献一覧を見ても、平川祐弘氏は登場していない。
本文に、ひょっとして登場するのかどうか?
思い浮かぶのは、平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)の「原本あとがき」のこの箇所なのでした。
「・・ここで筆者が読者から再三問い合わせを受けたある小さな一点について説明を加えておきたい。林健太郎氏は『文藝春秋』(1982年10月号)に『鈴木貫太郎とトーマス・マン』という随筆を寄せ、その両者の関係をはじめて取りあげた論文は小堀桂一郎氏の『宰相鈴木貫太郎』(「諸君」1981年11月号、後に文藝春秋より単行本)であるかのように述べられたが、実は小堀氏に二人の関係を教えたのは『新潮』1978年11月号の拙稿である。林氏が誤解したのも、国際関係論の専門家諸氏が不審の念を持たれたのも、小堀氏がしかるべき説明や脚注を付けなかったために起ったことである。・・」(p336)
こうして「講談社学術文庫版へのあとがき」を引用すると、
「・・絶版となっていた拙著『平和の海と戦いの海』がこのたび講談社学術文庫にはいることとなった。林健太郎氏が昨1992年名著『昭和史と私』の中で、2・26事件と昭和天皇の決断にふれ、アメリカ側で第二次世界大戦末期、グルー国務次官が米国世論に抗して天皇制存続の意見を唱えたのは2・26事件がグルー大使に強烈な印象を与えたからであるとし、その経緯にふれた拙著を『綿密な研究』と認めてくださったことが文庫入りの一つのきっかけである。感謝にたえない。・・・」(p348)
こういう「ある小さな一点」をたどる喜びが、
平川祐弘・竹山道雄の本には
たしかにあるのでした。
それがどのような楽しさなのかを、
ちょっと説明したくなりました(笑)。
たとえば、宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)に
「サブカルチャーというのはさらにサブカルチャーを生むんです。そして二次的なものを生むときに、二分の一になり、さらに四分の一、八分の一になり、どんどん薄まっていく。それが今です。そう思います。」(p131)
という箇所があり、印象に残っております。
二次的なものを生む、そのまえの本物をさがそうとすると、
これがいかに、困難で分かりづらいか?
うん。平川祐弘・竹山道雄の本をひらいていると、
その本物を読んでいる気分になる私がおります。
この本物にさかのぼることについて、
思い浮かぶことを以下書いてみます。
板坂元著「極めつきの文章読本」(ワニ文庫)に
「たとえどんな小さな問題でも、すでに学界の定説となっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名を記する必要がある。米国の論文などで、几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか、『某氏の手紙による』といったふうに丁寧にフットノートをつける人もいるが、それほど学問の世界は厳しい。そういうクセを若いときから身につけておくことは、非常に大切なことだ。」(p8)
同じ板坂元氏の
「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)には、
こんな箇所がありました。
「学者というものは、自分の知らないことをはっきりと知らないと言えるようになったとき、はじめて一人前になったと言われるものだ。自信がなければ、知らないことは言いにくい。・・・その点からでも、註をたくさん入れて自他・公私を区別することは、まず、あらゆる方面での、はじめでありおわりである。・・・・ついでながら、註をふんだんにつけながら、いちばん肝心のネタ本だけをかくすという変な習慣も、今もって後をたたない。どうでもよい引用書目だけをにぎやかに書きたてて、もっともよく利用した本を、ひたかくしにかくすため、読者はすばらしく学のある人だと信じこむ。・・・この種の手のこんだインチキは普通の人には見つけにくいものだ。・・・」(p202~203)
さてっと、
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋)に
「イソップ物語・比較倫理の試み」がはいっております。
その本のあとがきに、こんな箇所がある。
「・・筆者のこの『イソップ物語・比較倫理の試み』がきっかけとなって、その後同学の小堀桂一郎氏の研究『イソップ寓話』が中公新書から出た。学者の相互刺激というのは愉快なもので、統計数理研究所の林知己夫氏もその後イソップ物語のさまざまな版を求められたと仄聞する。実はそのイソップについての研究をまとめた後に、私はアメリカへ二十ヵ月、ついでまたフランスへ八ヵ月、出張する身となった。・・・」(p349)
ここまで読んで、本棚に読まずにあった
中公新書の小堀桂一郎著「イソップ寓話」をひらいて、参考文献一覧を見ても、平川祐弘氏は登場していない。
本文に、ひょっとして登場するのかどうか?
思い浮かぶのは、平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)の「原本あとがき」のこの箇所なのでした。
「・・ここで筆者が読者から再三問い合わせを受けたある小さな一点について説明を加えておきたい。林健太郎氏は『文藝春秋』(1982年10月号)に『鈴木貫太郎とトーマス・マン』という随筆を寄せ、その両者の関係をはじめて取りあげた論文は小堀桂一郎氏の『宰相鈴木貫太郎』(「諸君」1981年11月号、後に文藝春秋より単行本)であるかのように述べられたが、実は小堀氏に二人の関係を教えたのは『新潮』1978年11月号の拙稿である。林氏が誤解したのも、国際関係論の専門家諸氏が不審の念を持たれたのも、小堀氏がしかるべき説明や脚注を付けなかったために起ったことである。・・」(p336)
こうして「講談社学術文庫版へのあとがき」を引用すると、
「・・絶版となっていた拙著『平和の海と戦いの海』がこのたび講談社学術文庫にはいることとなった。林健太郎氏が昨1992年名著『昭和史と私』の中で、2・26事件と昭和天皇の決断にふれ、アメリカ側で第二次世界大戦末期、グルー国務次官が米国世論に抗して天皇制存続の意見を唱えたのは2・26事件がグルー大使に強烈な印象を与えたからであるとし、その経緯にふれた拙著を『綿密な研究』と認めてくださったことが文庫入りの一つのきっかけである。感謝にたえない。・・・」(p348)
こういう「ある小さな一点」をたどる喜びが、
平川祐弘・竹山道雄の本には
たしかにあるのでした。