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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

二分の一になり。

2013-08-17 | 短文紹介
平川祐弘と竹山道雄の本をひらいていると楽しい。
それがどのような楽しさなのかを、
ちょっと説明したくなりました(笑)。

たとえば、宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)に

「サブカルチャーというのはさらにサブカルチャーを生むんです。そして二次的なものを生むときに、二分の一になり、さらに四分の一、八分の一になり、どんどん薄まっていく。それが今です。そう思います。」(p131)

という箇所があり、印象に残っております。
二次的なものを生む、そのまえの本物をさがそうとすると、
これがいかに、困難で分かりづらいか?

うん。平川祐弘・竹山道雄の本をひらいていると、
その本物を読んでいる気分になる私がおります。

この本物にさかのぼることについて、
思い浮かぶことを以下書いてみます。

板坂元著「極めつきの文章読本」(ワニ文庫)に

「たとえどんな小さな問題でも、すでに学界の定説となっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名を記する必要がある。米国の論文などで、几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか、『某氏の手紙による』といったふうに丁寧にフットノートをつける人もいるが、それほど学問の世界は厳しい。そういうクセを若いときから身につけておくことは、非常に大切なことだ。」(p8)

同じ板坂元氏の
「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)には、
こんな箇所がありました。

「学者というものは、自分の知らないことをはっきりと知らないと言えるようになったとき、はじめて一人前になったと言われるものだ。自信がなければ、知らないことは言いにくい。・・・その点からでも、註をたくさん入れて自他・公私を区別することは、まず、あらゆる方面での、はじめでありおわりである。・・・・ついでながら、註をふんだんにつけながら、いちばん肝心のネタ本だけをかくすという変な習慣も、今もって後をたたない。どうでもよい引用書目だけをにぎやかに書きたてて、もっともよく利用した本を、ひたかくしにかくすため、読者はすばらしく学のある人だと信じこむ。・・・この種の手のこんだインチキは普通の人には見つけにくいものだ。・・・」(p202~203)


さてっと、
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋)に
「イソップ物語・比較倫理の試み」がはいっております。
その本のあとがきに、こんな箇所がある。

「・・筆者のこの『イソップ物語・比較倫理の試み』がきっかけとなって、その後同学の小堀桂一郎氏の研究『イソップ寓話』が中公新書から出た。学者の相互刺激というのは愉快なもので、統計数理研究所の林知己夫氏もその後イソップ物語のさまざまな版を求められたと仄聞する。実はそのイソップについての研究をまとめた後に、私はアメリカへ二十ヵ月、ついでまたフランスへ八ヵ月、出張する身となった。・・・」(p349)

ここまで読んで、本棚に読まずにあった
中公新書の小堀桂一郎著「イソップ寓話」をひらいて、参考文献一覧を見ても、平川祐弘氏は登場していない。
本文に、ひょっとして登場するのかどうか?

思い浮かぶのは、平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)の「原本あとがき」のこの箇所なのでした。

「・・ここで筆者が読者から再三問い合わせを受けたある小さな一点について説明を加えておきたい。林健太郎氏は『文藝春秋』(1982年10月号)に『鈴木貫太郎とトーマス・マン』という随筆を寄せ、その両者の関係をはじめて取りあげた論文は小堀桂一郎氏の『宰相鈴木貫太郎』(「諸君」1981年11月号、後に文藝春秋より単行本)であるかのように述べられたが、実は小堀氏に二人の関係を教えたのは『新潮』1978年11月号の拙稿である。林氏が誤解したのも、国際関係論の専門家諸氏が不審の念を持たれたのも、小堀氏がしかるべき説明や脚注を付けなかったために起ったことである。・・」(p336)

こうして「講談社学術文庫版へのあとがき」を引用すると、

「・・絶版となっていた拙著『平和の海と戦いの海』がこのたび講談社学術文庫にはいることとなった。林健太郎氏が昨1992年名著『昭和史と私』の中で、2・26事件と昭和天皇の決断にふれ、アメリカ側で第二次世界大戦末期、グルー国務次官が米国世論に抗して天皇制存続の意見を唱えたのは2・26事件がグルー大使に強烈な印象を与えたからであるとし、その経緯にふれた拙著を『綿密な研究』と認めてくださったことが文庫入りの一つのきっかけである。感謝にたえない。・・・」(p348)


こういう「ある小さな一点」をたどる喜びが、
平川祐弘・竹山道雄の本には
たしかにあるのでした。
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セミと蜘蛛。

2013-08-16 | 短文紹介
「さあ、セミさん、遠慮なく食べてください」
という言い方に対して、正面切って反撃を加えることは
だんだん難しくなりつつある。
そこに今日、上に立つ人の苦心があるといえるだろう。
しかし『イソップ物語』のこの日本的変容は、
西洋人の耳には『本当か』と思えるらしい。
『蝉と蟻』が日本の子供向けには蟻の慈善で終っている、
と聞かされて、『馬鹿な』と呆れ顔をする西洋人は多い。
『子供を甘やかしてなんになるか』
『子供を保育器の中に入れて育てる式の無菌状態で育てるのが、理想的な教育でもあるまい』
そのような批判が口々に出たが、
その時、アイルランドの一婦人がにっこり笑って、
『いや私も餓えた虫に御馳走する話を子供の時に習いました』
とおよそ次のような寓話を聞かせてくれた。

 虫は夏中、歌い続けたものだから、
 北風が吹くと素寒貧になった。
 お腹が空いてある家に行くと、
 『どうぞ、どうぞ、おはいりください。
  御馳走しましょう。パンもあります。
  バターもあります』
 『有難うございます。
  これが私のお茶ですね、これが私の蜜ですね』
 と虫が手をのばした途端、
 さっと網がかかって体は
 がんじがらめに縛られた。
 当家の主人は蜘蛛だった。

私たちもあまり結構な、薔薇色ずくめの
話には乗らない方が良いらしい。



以上は、平川祐弘氏の「イソップ物語・比較倫理の試み」に出てきます。
この平川氏の文は、読めば、幅広い厚みをじかに味わえる。よろこび。
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そんな寒さのなかで。

2013-08-15 | 短文紹介
心頭滅却もできず。
怪談話もイヤ。
とすると、暑い夏は、
雪の話かなあ。

「越前の雪の深さ厳しさは、その地に棲んだ者でなくては分らないという。あまりにきびしい雪との闘いのため、とうてい、詩歌や文章のテーマにならないくらいだ。じじつ、同じ雪深い越後の人良寛さんの詩歌を読んでいても、雨についての詩は多いのに、雪についてはきわめて少ない。とうてい詩歌にならないのだ。そんな寒さのなかで、道元はほぼ十年、坐禅にうちこみ体をこわして、京へ養生に還った旅先で五十四歳の短い生涯を終っている。」(p36・栗田勇著「道元一遍良寛」春秋社)
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語らざれば。

2013-08-14 | 詩歌
栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)に
こんな箇所がありました。

「良寛は辞世の句として自然そのものと化した風景をうたっている。
 形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉
形見として残すものは何もない。ただ、春夏秋冬の天然自然が、われなきあとも生きている。・・・
この歌も、じつは道元が、『最明寺道祟禅門の請によりて』悟りの境地を詠んだ和歌『本来面目』に依っていることは明らかであろう。
 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
道元には冬の雪の冷たさを、真実の姿としてあえて歌っているが、良寛には冬の雪はない。・・・」(p68~69)

この本の良寛の章に、
「良寛が好んでしばしば書いている」という詩句への言及がありました。
そこを引用。

「・・双幅二行の詩句であった。

  君看双眼色
  不語似無憂

   君看(み)よや 双眼の色
   語らざれば 憂いなきに似たり

この句は良寛が好んでしばしば書いている。じつに淡々としていながら大胆でのびやかに書かれているが、それゆえに、いっそう暖かく、寂しさがむしろ明るくひろがっている。この眼の色を看てくれ、語らないからといって心に愁いがないわけではない。むしろ愁いがないようにみえるだけ愁いは深い。しかし、誰にでもわかるものではない。愁いを知る者だけがそれをわかってくれるのだ。」(p152)

「良寛も、一遍上人と同じように、書と詩歌と手紙の他には著述らしきもの、説教や解釈のたぐいはいっさい残そうとはしなかった。私たちは結局、その断簡から彼の心を自分なりにつくりあげ納得するほかはないのである。」(p153)
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読売歌壇の夏。

2013-08-13 | 詩歌
今日・8月13日の読売新聞。
一面には「高知・四万十41.0度」。
観測日2013年8月12日四万十市41.0℃。
国内観測史上最高の気温とあります。
その下の編集手帳は、こうはじまっておりました。

「何年か前、『読売歌壇』で読んだ歌がある。
『見も知らぬ人の寄りきて夏真昼35度を超えしと告げる』(平山健)。交差点か、駅のホームか。『猛暑の生んだ連帯感が伝わってくる』と選者の歌人、栗木京子さんの評にある。地震や水害で被災した方には大仰な物言いをして恐縮だが、きのう今日は道ゆく人々が炎暑の『被災者』仲間に感じられなくもない。・・・」

うん。ちょうど月曜日で8月13日読売新聞には
読売歌壇・読売俳壇が載っております。
その小池光選のはじめの歌。

『このバカめ夏は暑いに決ってる』母に叱られたることありぬ
     香取市 関沼男
選評】こういうお母さんも少なくなった。とにかくたくましい。噴き出る汗もなんのその家事を次々こなす。何十年か過ぎてくっきり叱られた言葉がよみがえる。


うん。「くっきり叱られた」が、何とも夏の日差しの明暗みたいに感じられてきます。

ついでに今日の読売俳壇。
矢島渚男選の4句目。

  みんみんの祝詞のごとくうたひ出し
       東京都 山口照男
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一遍聖絵と空也。

2013-08-13 | 短文紹介
「今は忘れられているが、驚くべきことに、この鎌倉時代から室町へかけてもっとも流行して、一世を風靡したのは一遍上人のひらいた踊り念仏、時衆の人々であった。・・・
その猖獗(しょうけつ)をきわめた流行は、国宝の『一遍聖絵』歓喜光寺本にいくつか描かれている。京都へ入ったときの大盛会のさまは、まるで神楽か歌舞伎の舞台のような櫓を組んで、数千人が鉦を叩きながら速いテンポで念仏、和讃をとなえながら乱舞する。まるで今日の踊る宗教とかロックかディスコのように、時には、風俗となって、上は貴族から下はにいたるまで、ほとんど大流行となるのである。」(p73)

これは栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)にあるのでした。
ここは、たいへん興味深い箇所なので、
その京都での様子を、すこし本文から追ってゆき、空也と一遍の関連をたどってみます。

「弘安4年(1281)には、6月6日に蒙古が再び来襲した。これも突然ではなく、すでに文永11年(1274)以来、外交使節は来るし、幕府は全国の武士に号令して、九州に石垣を築くなど、東国にまで防人をつのる騒ぎがつたわっていた。
そのことも河野の出身である一遍を刺激したのであろうか。彼は武蔵をへて、いまの相模原市の当麻寺から南下して、鎌倉はこぶくろ坂から入ろうとする。
ここで武士の制止にあうが、なぜか一遍はこの鎌倉入りの布教に事の成否をかけるほどの決意であった。やはり鎌倉と京における布教は、身分の上下を問わず大きな意味をもっていた。
ここで鎌倉入りを果せなかったが、片瀬の堂で念仏踊りを催し、貴賎雲霞のごとく押しかけて、いまや一遍の踊り念仏はひろく人々に受け容れられはじめていた。
ここから、西の京へ向かい、伊豆の三島神社をへて、尾張の甚目寺を訪れ、美濃をとおり、近江の国の草津をへて関寺を通過して京へ入ろうとするが、園城寺の邪魔がはいって、京を前にしてほぼ一年をすごす。いうまでもなく、天台宗の根拠、延暦寺と園城寺の検閲にあい、その了解を得なければならなかった。この一年は重要である。
すでに先師、証空と同門の専修念仏の人々は、弾圧追放されたという歴史があったからである。またちかくは、日蓮も追放されていた。思えば、よくぞ一遍は入京し布教することができたといわねばならない。京へはあたかも凱旋将軍のような騒ぎで迎えられた。ようやく京へ入ったのは弘安7年(1284)、48歳の春であった。」

さて、ここから六波羅密寺へとつながります。

「京では、四条京極、因幡堂とへめぐり、三条の悲田院で一夜をすごし、空也ゆかりの六波羅蜜寺を訪れ、空也の史跡といわれる市屋(いちや)の道場で踊り念仏を行うなど、二十余日の布教と熱狂的な歓迎がつづいた。・・・悲田院というのは、もと孤児院であった。
『貴賎上下、群をなして人ばかり見ることあたはず、車はめぐらすことをえざりき』といった熱狂と雑踏のなかで櫓を組み、屋台をつくって鉦をたたき踊りくるった。『一遍聖絵』は、この京洛の群集と市屋の道場をあますところなく描いている。
・・一遍は道場としての仮小屋を建てただけで、遊行聖としての生き方を変えようとはしなかった。彼自身、市の聖として終始した平安末期の念仏者・空也上人を先達とあおいでいたからである。上下へだてなく、とくに無智な下層の民衆のなかにあってこそ、念仏往生は可能だと考えていた。」(p131~133)

うん。栗田氏の、この文を脇に、
「一遍聖絵」をひらきたくなるのでした。

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空也像。

2013-08-12 | 短文紹介
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社)に

「日本では彫刻は宗教彫刻だったから、宗教感情が弱まるとともに彫刻も終った。」(p38)
とあり、ハッとさせられます。

さてっと、この本に「六波羅蜜寺」が登場します。
そこで空也像が竹山道雄によって語られております。

「さらにここに驚くべき彫刻がある。それは空也上人の肖像である。粗末な短い衣を着、撞木をもって鉦をたたきながら、庶民のあいだに信心をひろめる、草鞋ばきの行脚僧の姿が躍如としている。手にしている鹿の角の杖は、自分が愛していた鹿が猟師に殺されたので、その角をもらって一生放さなかったのだそうである。顎をつき出した顔にはほとんどファナティックは法悦がうかんで、ひたむきに仏に呼びかけて、全身が動いている。素朴で飄逸であるが、胸をうつパセティックなものがあり、思わず襟を正さしめる。」(p128~129)

「この像は垢じみた衣を着て辻で踊って民衆に法を説いた、一心不乱な姿を、じつにいきいきとあらわしている。・・われわれの感情を揺りうごかす。・・・こちらは救いをひろめる人で、顔の表情、足つき、変化のある全身の姿勢、杖や鉦などが、純一な感情が渦巻いていることを物語っている。口から出て空にならんで浮いている六つの小さな仏は、西洋の中世の絵にもこれに似たものがあったと思うが、いかにもナイーヴにしかも効果的に念仏という行を示している。
この精神の写実をかくまでも的確になしとげた康勝は運慶の四男だが、ただこの一作のみでも不朽の作者だと思う。他のいくつかの作品は、一門との共作が多い。」(p130~131)


うん。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に
こんな箇所があったのでした。

「1983(昭和58)年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。竹山としては見納めのつもりであったろう。東寺からはじめて三十三間堂、養源院、清水寺、鳥辺野、六波羅蜜寺などを丁寧に見てまわった。あれから三十年近く経ったいま妻に『あの時どこがいちばん印象に残った?』とたずねたら『六波羅蜜寺』と依子は答えた。私もそうだと思ったが、よくきいてみると依子は鬘掛(かずらかけ)地蔵から、私は空也上人像から感銘を受けたのだった。・・」(p417)

「空也上人は胸に金鼓、右手に撞木を持ち、一心不乱に誓願を称えている。すると口の中から小さな仏が次々に並んで出て空に浮かぶ。あの信仰とあの構図は、シモーネ・マルティーニの『受胎告知』で、天使の口からAVEMARIA『幸あれマリア、恵みに満てる』の金文字が燦然と出てくる構図に似通っているように思えた。
空也には宗教的信念がそのまま三十一文字(みそひともじ)と化した歌がある。
 ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし  」(p420)
コメント (2)
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一遍像の焼失?

2013-08-11 | 短文紹介
今日8月11日の産経新聞社会面に
10日午後2時ごろ、松山市道後湯月町の宝厳寺の本堂などが全焼。
「木造一遍上人立像」の所在が不明となった。焼失した可能性がある。
という記事。
「市教育委員会によると木造は高さ約1㍍で、室町時代の作品。時宗の開祖一遍が合掌しながら立つ姿を表現。明治34年に重文に指定。宝厳寺のある場所は一遍誕生の地とされる。長岡住職(80)は取材に『黒い煙が渦巻き、息ができないほどだった。像は運び出せなかった』と話した。」

ちょうど、手元にある
栗田勇著「道元・一遍・良寛」(春秋社)をひらくと

「一遍の父通広(みちひろ)は、頭をまるめて如仏(にょぶつ)と称し、道後の宝厳寺に身を置いた。今も賑わう松山の道後温泉街のつきあたりにある宝厳寺には、等身大よりやや小ぶりの木像の上人像が残されている。宗教家といえば温厚柔和な風貌を思い描くものだが、一遍の姿はまったく違う。大柄で骨太く、がっしりとした身体つき。顔は秀で、頬骨は高く、眼窩は凹み、意志の強そうな顎、ほとんど息苦しく、険悪な相にみえる。
私はそれでよいと思う。それが本当だと思う。乱世の末に33歳で再出家して、旅で死ぬのが51歳。わずかに18年の激しく短い一生を燃えつきるにふさわしいお姿である。
国中を歩きつづけた足だけは太く逞しく、今にも一歩踏み出そうとしている。身にまとうのは麻衣とも馬衣ともいうあら織りのそまつな布切れで、両手は合掌し、目だけは眩しく鋭く光っている。それが光線のかげんで、生きているように、さまざまな表情にみえるのである。絵巻に描かれた相貌もそっくりで、おそらく生前のお姿をあますところなく伝えているのだろう。
まさしく、彼の残した和讃『百利口語(ひゃくりくご)』にうたわれた、『独り生まれて独り死す』という、孤独と死を見つめつづけて一生を歩き通した人の気配がひしひしと迫ってくるのである。」(p87)

さてっと、栗田勇氏のこの本での一遍の最後の箇所を引用。

「一遍は死にあたってみずから所持していた書籍をことごとく焼きすてて、こういった。
 一代の聖教皆尽きて 南無阿弥陀になりはてぬ
もはやみ仏の教えもない。ただ六字の名号の世界がひろがっているばかりである。
『わが亡骸は野に捨て獣にほどこすべし』と遺言した一遍は・・ここには時衆の祖・一遍ではなく無名の念仏の行者、彼の思慕した教信と同じ妙好人の生き方がある。それを証空上人は白木の念仏といった。・・・」(p143~144)
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ビルマと三十三間堂。

2013-08-10 | 短文紹介
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社)を読み始めたところです。

平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の竹山道雄年譜をひらくと、1963(昭和38)年60歳に「『芸術新潮』3月号から『京都の一級品』の連載を21回にわたって行ない毎月一回の東山遍歴を楽しんだ。」とあります。

二番目に三十三間堂を取り上げておりました。竹山氏の心の動きが味わえるようで、楽しめます。
そこで、気になる箇所を引用。

「・・・・後白河法皇は、壇の浦で全滅した平家の一門のために、また保元以来の内乱に戦死した者たちのために、法会を行った。武将もこれをした。頼朝は建久元年の盂蘭盆に、鎌倉の長寿院で、敵の平家一家の亡魂を弔った。また、彼が滅ぼした藤原泰衡や義経の怨霊を慰め、この戦いで死んだ兵をとむらうために、鎌倉に永福寺をたてた。弘安の役に元の軍にしたがって死んだ高麗の兵数万のために、筑前に高麗寺がたてられた。時頼も敵味方の溺没者のために、円覚寺に千体の地蔵尊を安置した。元寇以来の戦乱に、兵士ばかりではなく、山野の動物にいたるまでその災厄を蒙り、神社仏閣も壊され焼かれたが、足利尊氏兄弟はこれをふかくみずから愧じ、その罪を悔い謝せんがために、日本国中に一州ごとに一寺一塔をたてて、これを弔った。そして、一切経書写の願を発して、それを成就した。その奥書にその趣意を記して、尊氏みずから署名したが、その文の意味は、この功徳によって後醍醐天皇の菩提を弔い、ならびに元寇以来の戦死者の亡魂が一切の怨親を越えて、弥陀の慈悲に浴せんことを請うたのだった。時が下って、朝鮮の役の後でも、島原の乱の後でも、敵の死者のために供養が行なわれた。
このような気持は、日清・日露のころにはまだ残っていた。ロシア兵戦死者を弔う碑が高野山にあるのを見て、外国人が感動して『これこそ真の騎士道である』と書いているのを読んだことがある。・・・」(p34)

こういうことを中国人に理解してもらおうとするから難しくなる。
それよりも、まずは現在の日本人に理解してもらう。
こちらの方が、何倍もやさしそうだなあ。
その糸口となりますように。と引用。

さてっと、三十三間堂について語った竹山道雄氏は

「堂内の拝観がすんだら、ぜひ外を一(ひと)まわりすべきである。」
「裏の廊下の扉をあけて廊下に出ると、その見事なのに胸がすくような気がする。木造の大建築の立派さである。唐様風の装飾はなく、すべてただ構造だけで美しさをつくりだしている。和様建築の優作である。・・いまここの美しさに心をうたれている人は少ないようだ。」(p42~43)

最後のほうに「ビルマ」という言葉が出てくる。
その箇所も引用しておきたい。
そう、「ビルマの竪琴」を戦後すぐに書いた竹山氏。
それだからこその、気になる箇所。

「・・・ここには多くの美術が集められ、遊楽の地でもあり、その祭りには洛中の貴賎の者が見物した。九条兼実はその奢侈を憂えて『余ひとり見ず』と記している。高野や熊野などの霊地には上下をあげての参詣がしきりだった。後になって儒教の知的な世界観や道徳が宗教に代るまでは、日本もじつにさかんな宗教国で、ちょうどいまのビルマやタイのようなものだったろう。」
「三十三間堂はその後幾度の火災や内乱にも奇跡的に助かった。応仁の乱では京中の神社仏閣全部が焼失して、ただ一面の焼野原になったのに、三十三間堂と八坂塔だけが残った。・・ここはもともとは皇室所属の寺院だったが、ひさしい応仁の乱の困難をきりぬけようとしているうちに、しらずしらずに貴族色をすてて庶民に親しまれるところとなった。」(p45)
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ただそれだけが。

2013-08-09 | 短文紹介
気になったので、
田中菊雄著「現代読書法」(講談社学術文庫)をひらく。
黄色い線がひいてあるので、読んだはずなのですが、
すっかり忘れてしまっている。
きっと、そそくさとめくっていたのだろうなあ(笑)。

文庫解説は紀田順一郎。
解説のはじまりは
「田中菊雄という名に記憶のない読者でも、昭和11年(1936)以来いまだに版を重ねている『岩波英和辞典』の編者の一人といえば思い出す人も多かろう。
実質的には彼が独力で編纂したようであるから、代表的な業績といえばその辞典ということになるのだろうが、辞書は情報にすぎないから、背後にある人間性まで語ってはくれない。・・・・」

今回。
田中菊雄著『現代読書法』の最後の『結び』が気になりました。

「・・・良き地とは何か?
貧しき心、求むる心、飢え渇く心に外ならない。
多年胸中を去来していた問題にやっと今私は形を与え得た安堵を感ずる。題して『現代読書法』と言いながら私は何一つ自分の方法を創案したものでもない。ただ先覚者の示された方法の二、三を紹介したに過ぎない。私の書物が引用のあまりに多いことを咎めないで頂きたい。ただそれだけが私の身上なのだから。
ただ一つの慰めは、後進の人々に幾冊かの良書を紹介するの機会を与えられたことである。これらの書は必ずや諸君を正しき、良き、読書人にはぐくみ育ててくれるであろうと思う。私の挙げた数は少い。極めて少い。しかし聡明な諸君は私の気持を理解して下さることと思う。さらば親愛なる友よ、よき読書の道に、そしてよき人生の道に進まれんことを。」(p242)
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一遍と道元。

2013-08-08 | 短文紹介
古本購入。
栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)
ふるほん 上海ラヂオ(京都市北区衣笠北荒見町)
200円+送料80円=280円
一遍への興味から購入。

いとうせいこう著「想像ラジオ」(河出書房新社)の
最後にある参考文献は2冊。
そのうちに1冊が
 大橋俊雄・校注『一遍上人語録』(岩波文庫)。
ということで、気になっておりました。

平成23年3月31日号「週刊文春」の
文春図書館は「苦難を乗り越える一冊」という特別編。
そこで瀬戸内寂聴さんが選んでしたのが
『一遍上人語録』でした。
瀬戸内さんはこう書いております。
「私は心萎えた時、道を失ったかと迷う時、つい引き寄せているのが『一遍上人語録』です。時宗の開祖で、空也上人を心の師と仰いだ一遍は、師の『捨ててこそ』の思想を実践して、捨聖(すてひじり)と呼ばれています。踊念仏という派手なパフォーマンスで全国を遊行し、南無阿弥陀仏の六字名号を弘めていきました。一遍の法語、和歌、消息文などが集められたこの書は、どこを開いてもはっと心を打つ言葉がひそんでいます。・・・」(p126)

ということで、
栗田勇氏のこの本をパラリとひらけば、

「私は、もう十年ほど以前から一遍の念仏を追って日々を暮らしていた。」(p6)
「この一遍の念仏の心得は、おどろくほど、道元の先の坐禅についての言葉に似ている。」(p7)

「一遍は法然におくれること約百年の念仏聖であるが、一遍の師、大宰府の聖達(しょうたつ)は、法然の弟子であった浄土宗西山(せいざん)派の祖である証空(しょうくう)の弟子である。そして、この西山証空は、じつは久我通親(くがみちちか)の猶子(ゆうし)、つまり養子であり、通親はまた道元の父であるから、証空と道元は義理の兄弟というえにしで結ばれているのである。・・・」(p10~11)

うん。たのしい。道元と一遍は、栗田氏のこの本では、ひょっとしてむすびつくような気がしてくる。
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読書論の栄えぬ季節。

2013-08-07 | 短文紹介
知り合いの接骨院へ、
アキレス腱断裂が再断裂したのじゃないかと、
心配になり今日になって見てもらいに行く。
腱はつながっており大丈夫とのこと。ホッとする。
痛みはあるけれど、
これは、まあ、それなりの痛みなのだろうなあ。

さてっと、
遠藤隆吉著「読書法」を以前に買ってあって、
読まずに本棚にありました。

請求書がはさまっているので紹介。
文生書院(東京都文京区本郷)
1470円+送料290円=1760円
平成18年に古本で購入してあって、そのままになっておりました。

これは非売品となっております。
昭和58年に巣鴨学園創立73周年記念事業として復刻されたもの。
こういう非売品が買えるのが古本のよろこび。

そう。田中菊雄著「現代読書法」(講談社学術文庫)の
読書参考文献抄にこうあります。

 読書法 遠藤隆吉著
  大正4年6月 巣園学会出版部 188頁
「著者独特の卓見に満ちた名著である。
一々体験から述べておられるので、
一言一句急所を突かれる思いがする。
私がこれまで読んだ『読書法』に関する書物のうちで、
この本ほど迫力に富み実践に役立った本を
他に知らぬほどである。・・・」(p246)

この本に「夏の勉強法」という箇所があるのでした。
そこから、すこし引用。
「夏期の簡易生活。
夏期は簡易生活に適する時節である。
衣服の末に拘泥する必要はない。・・
蚊の出る時に當り蚊と闘いつつ勉強するも
亦一興である。
昼間十分に勉強すれば、夜は疲れるから
蚊と闘いつつやっても却って効果がある。
冬期に當り火鉢を擁し布団を擁して
書物を読む様では迚(とて)も充分には読めない。
其等の事に暇を費やす丈でも読書の時間が殺がれることになる。
夏期は簡易生活の出来る時であるから最も読書に適するのである。
・ ・・・・
夏期休暇中には旅行する人もあるし、
又は海岸に避暑するといふ人もある。
けれども此等は特別なる人のすることで
一般青年学生の為すべきことではない。
青年学生は勿論避暑避寒の必要はない。
病人であればやむを得ぬが
普通の人であれば全然其必要は無い。
・ ・・・」

うん。うん。
こうしてアキレス腱を切ったものとしては
傾聴に値する痛快さ。


ところで、
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋)に
遠藤隆吉の名前が登場するのは一箇所。
その文の題は「情報洪水に処して自己を見失わぬ読書法」。
最後に、そこを引用。

「田中菊雄の『現代読書法』は暗い谷間の不幸な時代に方向を模索している知的芽生えを温かく保護育成した名著。新版(三笠書院)の巻末に稲村徹元が50頁近い詳密な『読者参考文献抄』を編纂しているが、世に読書論は多くとも読者の胸に食い入る名著は稀少、特に戦後は読書論の栄えぬ季節だ。田中菊雄が『これまで読んだ読書法に関する書物のうちで、この本程迫力に富み実践に役立つ本を他に知らぬ』と推奨した遠藤隆吉『読書法』(大正4年)の・・・・」(p564)

この文にはひきつづき、谷沢氏は
渡部昇一著「知的生活の方法」
梅棹忠夫著「知的生産の技術」
伊藤整著「氾濫」
をとりあげているのでした。



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書庫の整理。

2013-08-06 | 短文紹介
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に

「ドイツ文学者と呼ばれた竹山の書庫を整理していて英文冊子・・を発見した時は意外な感がした。」という箇所がありますので、以下それを引用していきます。うん。この文は、いままでに活字化されていない文らしいのでした。

それは「1955(昭和30)年2月、戦後初めての海外出張であるビルマで文化自由会議・・によって招集された会合で行なった英語講演が一冊子になっていた。それが竹山の日本語文章と同様、才智と示唆に富んで、読んですこぶる面白いのである。・・・もっとも竹山もこの『共産主義と日本の知識人』は第一回目の海外英語講演であったからとくに念入りに文章を練ったのかもしれない。・・・」(p345)

ということで、せっかくですから、この英語講演の引用箇所からすこしとりあげてみます。

「いまや日本には言論の自由がありますから、
反米主義は吹きまくっています。
アンチ・アメリカニズムを
唱えることはまったく安全なのですよ。
なんとかいってもアメリカは罰しはしないから。
それに権威に反抗することはすこぶる恰好がいい。
ヒロイズムにはもってこいですね。
しかし共産主義反対を唱えるのはリスクがあります。
共産主義者が天下をとれば
処刑されるかもしれませんから。
それに反共を唱えれば反動のレッテルが貼られます。
これはインテリにとっては是非とも避けたい言葉です。
というわけで反米主義は完全に自由ですが、
反共主義はそうはいかない。
それだから人々が『ヒロイック』な
時流に迎合するコースに乗るとしても
別に驚くにはあたりません。
これは絶対安全なのですから。
そしてそれが正しい道だと
本人も信じこむようになるのですから。」

こう講演冊子を引用した平川氏は、
つぎに、こう指摘しております。

「ここでアメリカ人は『That’s hard for us to understand.』と答える会話になっているが、私たち日本人には竹山が言及した日本知識人の心理状態はたやすく了解される。竹山は、万一の場合、全体主義に反対する一方の旗頭と目されている自分に待ち構えている運命がなにであるかを承知している。それを承知しながらも、それでも文筆活動を続けたのは、『ビルマの竪琴』を書いて教え子の霊を弔った者としての、知識人の責務を自覚していたからだろう。」(p347)


ろくに「竹山道雄著作集」を読んでもいないのに、
そこにも、掲載されていない言葉を読めるのは、
何よりも、理解の助けになり、ありがたいなあ。
それにしても、書庫の整理をして、
そこでの発見を伝えていただけるありがたさ。
ということで、
「竹山道雄と昭和の時代」は
絶好の水先案内人を得たよろこびを味わる一冊。
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昭和20年12月。

2013-08-05 | 短文紹介
平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)の
第二部を読み終える。うん。読んでみれば、
第二部の方が細部に分け入って、糸を解きほぐしてゆくような光明が伝わるのでした。
そういえば、
堤堯著「昭和の三傑」が最近文庫にはいったようなのですが、
これの単行本初版は2004年となっており、
平川祐弘著「平和の海と戦いの海」の原本あとがきは1982年となっております。
どちらも、鈴木貫太郎が登場するので興味深いのですが、「昭和の三傑」の主要参考文献一覧に「平和の海と戦いの海」は見あたりませんでした。
読後感としたは、平川祐弘氏の本がすぐれているように私は思います。

さて「平和の海と戦いの海」の
第二部「『人間宣言』の内と外」から、
ここを引用。

「日米対決の決着はまだこれからである。天皇制の将来は、日本国民の大多数の支持があるとはいえ、連合軍総司令部の一存にかかっていた、皇族梨本宮守正が戦争犯罪容疑者として指名逮捕されたのは昭和20年12月2日である。山本奉文に死刑が宣告されたのは同7日、近衛文麿が服毒自殺したのは12月16日である。アメリカ側の報復意図は明らかだ。天皇陛下が戦争犯罪人として処刑されるという可能性さえなくはないのだ。しかも連合軍がそれを強行すれば、日本の大新聞の中には必ずやその処置を良しとする『邦人記者』が次々と出るだろう。・・・」(p265~266)

「ワシントン時間の1945年8月9日、日本政府がポツダム宣言受諾の条件として『天皇ノ統治大権』を通知して来た時、バーンズ国務長官の周辺には条件無視を主張した人もいた。しかしその条件をつけてきた日本国民の『騎士道』に心打たれたアメリカ人もいたのだということを忘れてはならない。敗戦国は普通、領土の保全を願うものである。賠償の軽減を申出るものである。そしてそのためには責を君主におしつけることをいとわぬものである。第一次世界大戦の終結に際し、ドイツにおける君主制の廃止は、いわばその条件そのものとなった。ところが日本国民は領土・賠償など物質的条件については一言もいわず、君主の保全をこの期(ご)においてもなおもっぱら問題としている・・・・実際、敗戦後の日本において、君が臣を庇(かば)い、臣が君を庇った事実は特筆に値いする。・・・」(p279)

うん。読めてよかった。
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受けがよい。

2013-08-04 | 前書・後書。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の「はじめに」を読むと、この本を書くにあたって「やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った」というキッカケになった本があるのでした。
気になる箇所です。
そこを引用。

「竹山道雄は『文藝春秋』のみならず『新潮』にもしばしば執筆した。文学者として昭和文学全集に収められる人であるが、文壇人ではなかった。というより、狭い文壇論壇以外の人も種々竹山の思い出を語っているところに特色がある。
志村五郎は敗戦直後の1946年に一高に入学し、いちはやく日本の最高の数学者と呼ばれた人物だが、後半生はアメリカで生きた。自伝も日英両語で書いているが、その日本語版『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008)にプリンストンで手術を受けた時のエピソードをこう伝えている。麻酔医が『ビルマの竪琴』の英訳を読んで感動したと話した。『その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた』。その志村にいわせると、1950年、朝鮮戦争勃発当時、日本の政治学者や評論家には『ソ連信仰』が根強く、『進歩的知識人』は反共より反米の方が論壇で受けがよいことを知っており、その世界の中の功利的保身術に基いて発言していた。それとは違って、と志村は言う、『竹山道雄は共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時はほとんどただひとりの人であった。彼はまた東京裁判の不当性と非論理性を言った、竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ』。志村にそう指摘されたとき、私は身内の者であるけれども、やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った。」(p14~15)


うん。この夏。
竹山道雄を読もう。
と遅々として読みすすめられない、
自分ではありますが、
日々新たに、思うのであります。

昨日は、補助器具の具合がいいので、
調子に乗って歩き廻っていたら、
出入り口のマットの端に、足をひっかけてしまい。
アキレス腱に沿って電気がはしるような痛み。
あれ、また振り出しにもどったかもしれない。
今日は、松葉杖を離さずにおります。

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