平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)の
第一部を読む。読めてよかった。
「『鈴木貫太郎自伝』は戦時中には活字とならず、鈴木の死後、昭和24年になって桜菊書院から初めて出版された。もしこの本が戦時中に出版されていたら、鈴木貫太郎首相は帝国議会などで右翼系議員からこの自伝の内容を材料に悪し様に攻撃されたに相違ない。慶応三年生まれの鈴木貫太郎は、夏目漱石とは同年の人、海軍兵学校では広瀬武夫の一期先輩に当る。『坂の上の雲』を見つめながら、日本国家の興隆とともに成人した世代の一人として、秋山真之とも親しかった鈴木はいかにもおおらかな心の持主であった。私たちは『鈴木貫太郎自伝』によって、鈴木が大正時代にも、昭和十年代にも、そして昭和二十年の春から夏にかけても、信念として、平和のことを考えていたことを知るのである。」(p93)
「『鈴木貫太郎自伝』は話題に取りあげられることの少い書物だが、私は『福翁自伝』以来の、この方面の名著ではないかと考えている。」(p88)
うん。つぎの読書はこれかなあ。
竹山道雄へ、もどれますように。
ちなみに、文庫の「原本あとがき」には、
竹山道雄著「昭和の精神史」に引用されている20数冊の著書の大半を買い求めて片端から読んだ。と書かれたあとに、
「島田謹二教授は昭和35年、明治の海軍軍人の外国体験に研究の照準を合わせた。先生にすすめられて私が古本で『鈴木貫太郎自伝』を買い求めたのは世間が安保騒動で騒然としていた時であった。・・私は日露戦に参加した広瀬、秋山、鈴木といった世代の人々が立派であるのに反して、その後の世代が、同じく海軍兵学校出身といいながら、別人のごとく品下ることを言うと、島田教授も同意された。・・・」(p341)
第一部を読む。読めてよかった。
「『鈴木貫太郎自伝』は戦時中には活字とならず、鈴木の死後、昭和24年になって桜菊書院から初めて出版された。もしこの本が戦時中に出版されていたら、鈴木貫太郎首相は帝国議会などで右翼系議員からこの自伝の内容を材料に悪し様に攻撃されたに相違ない。慶応三年生まれの鈴木貫太郎は、夏目漱石とは同年の人、海軍兵学校では広瀬武夫の一期先輩に当る。『坂の上の雲』を見つめながら、日本国家の興隆とともに成人した世代の一人として、秋山真之とも親しかった鈴木はいかにもおおらかな心の持主であった。私たちは『鈴木貫太郎自伝』によって、鈴木が大正時代にも、昭和十年代にも、そして昭和二十年の春から夏にかけても、信念として、平和のことを考えていたことを知るのである。」(p93)
「『鈴木貫太郎自伝』は話題に取りあげられることの少い書物だが、私は『福翁自伝』以来の、この方面の名著ではないかと考えている。」(p88)
うん。つぎの読書はこれかなあ。
竹山道雄へ、もどれますように。
ちなみに、文庫の「原本あとがき」には、
竹山道雄著「昭和の精神史」に引用されている20数冊の著書の大半を買い求めて片端から読んだ。と書かれたあとに、
「島田謹二教授は昭和35年、明治の海軍軍人の外国体験に研究の照準を合わせた。先生にすすめられて私が古本で『鈴木貫太郎自伝』を買い求めたのは世間が安保騒動で騒然としていた時であった。・・私は日露戦に参加した広瀬、秋山、鈴木といった世代の人々が立派であるのに反して、その後の世代が、同じく海軍兵学校出身といいながら、別人のごとく品下ることを言うと、島田教授も同意された。・・・」(p341)