栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)に
こんな箇所がありました。
「良寛は辞世の句として自然そのものと化した風景をうたっている。
形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉
形見として残すものは何もない。ただ、春夏秋冬の天然自然が、われなきあとも生きている。・・・
この歌も、じつは道元が、『最明寺道祟禅門の請によりて』悟りの境地を詠んだ和歌『本来面目』に依っていることは明らかであろう。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
道元には冬の雪の冷たさを、真実の姿としてあえて歌っているが、良寛には冬の雪はない。・・・」(p68~69)
この本の良寛の章に、
「良寛が好んでしばしば書いている」という詩句への言及がありました。
そこを引用。
「・・双幅二行の詩句であった。
君看双眼色
不語似無憂
君看(み)よや 双眼の色
語らざれば 憂いなきに似たり
この句は良寛が好んでしばしば書いている。じつに淡々としていながら大胆でのびやかに書かれているが、それゆえに、いっそう暖かく、寂しさがむしろ明るくひろがっている。この眼の色を看てくれ、語らないからといって心に愁いがないわけではない。むしろ愁いがないようにみえるだけ愁いは深い。しかし、誰にでもわかるものではない。愁いを知る者だけがそれをわかってくれるのだ。」(p152)
「良寛も、一遍上人と同じように、書と詩歌と手紙の他には著述らしきもの、説教や解釈のたぐいはいっさい残そうとはしなかった。私たちは結局、その断簡から彼の心を自分なりにつくりあげ納得するほかはないのである。」(p153)
こんな箇所がありました。
「良寛は辞世の句として自然そのものと化した風景をうたっている。
形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉
形見として残すものは何もない。ただ、春夏秋冬の天然自然が、われなきあとも生きている。・・・
この歌も、じつは道元が、『最明寺道祟禅門の請によりて』悟りの境地を詠んだ和歌『本来面目』に依っていることは明らかであろう。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
道元には冬の雪の冷たさを、真実の姿としてあえて歌っているが、良寛には冬の雪はない。・・・」(p68~69)
この本の良寛の章に、
「良寛が好んでしばしば書いている」という詩句への言及がありました。
そこを引用。
「・・双幅二行の詩句であった。
君看双眼色
不語似無憂
君看(み)よや 双眼の色
語らざれば 憂いなきに似たり
この句は良寛が好んでしばしば書いている。じつに淡々としていながら大胆でのびやかに書かれているが、それゆえに、いっそう暖かく、寂しさがむしろ明るくひろがっている。この眼の色を看てくれ、語らないからといって心に愁いがないわけではない。むしろ愁いがないようにみえるだけ愁いは深い。しかし、誰にでもわかるものではない。愁いを知る者だけがそれをわかってくれるのだ。」(p152)
「良寛も、一遍上人と同じように、書と詩歌と手紙の他には著述らしきもの、説教や解釈のたぐいはいっさい残そうとはしなかった。私たちは結局、その断簡から彼の心を自分なりにつくりあげ納得するほかはないのである。」(p153)