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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一遍像の焼失?

2013-08-11 | 短文紹介
今日8月11日の産経新聞社会面に
10日午後2時ごろ、松山市道後湯月町の宝厳寺の本堂などが全焼。
「木造一遍上人立像」の所在が不明となった。焼失した可能性がある。
という記事。
「市教育委員会によると木造は高さ約1㍍で、室町時代の作品。時宗の開祖一遍が合掌しながら立つ姿を表現。明治34年に重文に指定。宝厳寺のある場所は一遍誕生の地とされる。長岡住職(80)は取材に『黒い煙が渦巻き、息ができないほどだった。像は運び出せなかった』と話した。」

ちょうど、手元にある
栗田勇著「道元・一遍・良寛」(春秋社)をひらくと

「一遍の父通広(みちひろ)は、頭をまるめて如仏(にょぶつ)と称し、道後の宝厳寺に身を置いた。今も賑わう松山の道後温泉街のつきあたりにある宝厳寺には、等身大よりやや小ぶりの木像の上人像が残されている。宗教家といえば温厚柔和な風貌を思い描くものだが、一遍の姿はまったく違う。大柄で骨太く、がっしりとした身体つき。顔は秀で、頬骨は高く、眼窩は凹み、意志の強そうな顎、ほとんど息苦しく、険悪な相にみえる。
私はそれでよいと思う。それが本当だと思う。乱世の末に33歳で再出家して、旅で死ぬのが51歳。わずかに18年の激しく短い一生を燃えつきるにふさわしいお姿である。
国中を歩きつづけた足だけは太く逞しく、今にも一歩踏み出そうとしている。身にまとうのは麻衣とも馬衣ともいうあら織りのそまつな布切れで、両手は合掌し、目だけは眩しく鋭く光っている。それが光線のかげんで、生きているように、さまざまな表情にみえるのである。絵巻に描かれた相貌もそっくりで、おそらく生前のお姿をあますところなく伝えているのだろう。
まさしく、彼の残した和讃『百利口語(ひゃくりくご)』にうたわれた、『独り生まれて独り死す』という、孤独と死を見つめつづけて一生を歩き通した人の気配がひしひしと迫ってくるのである。」(p87)

さてっと、栗田勇氏のこの本での一遍の最後の箇所を引用。

「一遍は死にあたってみずから所持していた書籍をことごとく焼きすてて、こういった。
 一代の聖教皆尽きて 南無阿弥陀になりはてぬ
もはやみ仏の教えもない。ただ六字の名号の世界がひろがっているばかりである。
『わが亡骸は野に捨て獣にほどこすべし』と遺言した一遍は・・ここには時衆の祖・一遍ではなく無名の念仏の行者、彼の思慕した教信と同じ妙好人の生き方がある。それを証空上人は白木の念仏といった。・・・」(p143~144)
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