和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ペスト避病院の中では。

2020-05-06 | 古典
5月4日の安倍首相による緊急事態宣言のなかに


「・・・医師、看護師、看護助手、病院スタッフは
感染リスクと背中合わせの厳しい環境の下で強い使命感を持って、
今のこの瞬間も頑張ってくださっている。すべては私たちの命を救う
ためだ。医療従事者やその家族への・・・・敬意や感謝、他の人たちへの
支え合いの気持ち、思いやりの気持ち、人と人との絆の力があれば、
・・・恐怖や不安な気持ちに必ずや打ち勝つことができると信じている。」

という箇所がありました。
健康で家に籠っていると、そういう想像力を忘れておりました。

さて。平川祐弘訳「いいなづけ」(河出書房新社)の
17世紀ペストの詳細は31章と32章で取り上げられております。

ここには、調べられた、ペストの避病院の中の様子を
引用してゆきます。

「避病院の中では、人々は毎日・・・死んでいったが、
それでもそこの人数は毎日増え続けた。
そこでの厄介な仕事は収容された人々をきちんと統制下に置き、
かつその人たちの生活の面倒を見るということだった。
規定通りに人々を分離し、そこに衛生局から命令された通りの
秩序を維持する、というか確立することだった。それというのも、
当初からそこではすべてが混乱錯雑の状態にあったのである。

閉じこめられた人々の大半は半狂乱の体であるし、そこで
働く使用人はろくに人の世話は焼かずたいがいの事は
ほっぱらかしにしていたからである。衛生局も市参事会も
一体誰を相手に話をつけてよいかわからず、カプチン会の
神父たちの手を借りることとした。

管区長その人はつい先日死去していたので、
管区を取りしきる管区長代理の神父に頼んで
物の役に立つ人物を寄越してもらって
この避病院という荒廃した王国を治めようとしたのである。
管区長代理はまずはじめにフェリーチ・カザーティという
神父を寄越した。・・・その同僚というか助手として
ミケーレ・ポッツォボネㇽリ・・が付けられた。・・・

衛生局の局長は二人が現場をよく掌握するよう
二人を案内して避病院を一巡すると、下働きの者を
位の上下を問わず中庭に呼び集め、全員を前にして、
これから・・・神父に全権を与える、と宣言した。

やがてこのみじめな場所にみじめな人々が次第に集り、
その人数がふえるにつれて、他のカプチン会修道士たちも
そこへ助けに馳せ参じ、その場所の監督者となり、
聴罪司祭となり、管理者となり、はては看護夫、料理人となった。
それどころか下着置場の始末から、洗濯物の後始末、
要するに必要とあれば下の世話まで引受けたのである。

フェリーチェ神父は・・・ある時は身に粗末な馬巣(ばす)織りの
衣をまとっただけで視察してまわった。その場で問題を解決し、
人々を激励し、騒ぎが起ればそれを鎮め、喧嘩が起れば
理非曲直を明らかにし、あるいは脅し、あるいは罰し、
叱るかと思えば、一方では慰めるべき人を慰め、
悲しめる人々の涙をぬぐってやるかと思えば、また自ら涙を流した。

避病院にはいった当初、神父自身ペストに罹ったが、幸い治った。
それからまた新たなる力を傾けて人々の世話をし面倒に励んだ。
カプチン会修道士の多くはここで命を落としたが・・・・

たしかにこうした特定の個人に全権が委ねられるということは
非常処置として異常である。しかし災害そのものも異常であったし、
時世そのものも異常だった。・・・・・・

なにしろこれだけ大切な管理の職に当たる人が、
もはやどうしようもなくなって、管理を他人まかせにしてしまったのだ。
しかも人まかせにするにしても、職業柄、本来はそんな仕事に
一番縁遠い人に頼むよりほか仕方がなかったのである。

だがそれは同時に、いかなる時世であれ、いかなる事態であれ、
慈愛の情がいかなる能力を人に与え得るかということの一例証
としてみるなら、決して不名誉なことではない。それほど
カプチン会の人々はそうした責務を敢然と果たしたのである。

それにそうした責務を引き受けたということ自体がまことに立派であった。
なにしろほかに引受け手がいないからという理由だけで、
また奉仕するという目的だけで引受けたのである。・・・・

あの修道士たちが果した仕事と勇気とは賞讃と感涙とをもって
回顧されるに値する。人が人に対してした大きな親切に対しては、
われわれは人間としての連帯感から、あのなんともいえぬ
感謝の念を禁じ得ないのである。とくにあの人たちはそのような
感謝を受けることなど念頭におよそ浮べもしなかったのであるから。

『もしこうした神父たちが当地にいなかったならば』
とタディーノは書いている。

『間違いなく市は全面的に壊滅したことであろう。
神父たちがこうした短い期間に公共の利益のために
これだけの事をなし遂げたということは真に驚くべきことである。
神父たちは市当局からほとんど何等の助けも受けなかった。
神父たちはそれでも自分たちの努力、自分たちの配慮でもって
避病院に収容された悲惨な数千数万の人々の面倒を見たのであった』

フォリーチェ神父がその管理に当った7カ月の間に
その避病院と呼ばれた隔離所に収容された人数は、
リパモンティによれば、およそ5万名にのぼったという。
リパモンティはまたもし一都市の歴史についてその悲惨な面を
叙す代りにその栄光の面を語るのが至当であるとすれば、
こうした人物についてこそ語るべきであろう、
という正論をも述べている。」(単行本p648~650)


『いいなづけ』の著者アレッサンドロ・マンゾーニは
この31章・32章を書くはじめに、こう記しておられます。

「筆者は、なにはともあれ・・・・そして将来、
他に誰か人が出てもっと見事にやりおおせるまで、
あのペストという大災害について、さしあたり簡略ではあるが、
虚偽の混らない、首尾一貫した報告を世に提出しようと試みた次第である。」
(p638)と記しておりました。









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