和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おけら詣り。

2019-12-14 | 京都
京都千年②「寺と社」(講談社)は古本で300円。
さてっと、八坂神社の箇所をひらいてみる。

「御霊信仰の社」と題する大久保郁子の文。
そこから引用。

「賀茂社の創立に遅れること約200年、
京都市民の生活に大きな影響を与えることになる
神社が誕生した。祇園社がそれである。

貞観18年(876)平安京の町に疫病が猛威をふるった。
そこで播磨国飾磨郡の白幣山から牛頭天王を都に勧進し、
疫神を制御させようということになった。・・・・・・」

うん。こうはじまっているのですが、
詳しいことは、飛ばして(笑)

「四条通の東のつきあたりに、
東山を背に切妻瓦葺の屋根の勾配も緩やかに、
八坂神社の西楼門が建っている。京都の人々から
祇園さんと呼ばれ親しまれてきたこの神社がなかったら、
随分京の街も変っていたことだろう。

四条通の賑いもなく、祇園祭もなく、
おけら詣りもないので、一年の始まりの
雑煮をおけら火で焚く風習も生まれなかったわけだ。」

はい。引用はここまででいいのですが、
せっかくなので、引用をかさねます(笑)。

「・・時の摂政藤原基経が邸宅を寄進して
壮麗な社殿を造営させたのだが、
海の向うで須達長者が釈迦のため祇園精舎を
建立させた故事を意識してのことかもしれない。
かの地の祇園精舎も牛頭天王を守護神として
いたからである。祇園の社と呼ばれ、

疫病よけの神として、戦乱や悪疫による疲弊から、
京の町をよみがえらせる力ともなった。

明治の初期まで仏殿や多宝塔、僧坊が建ち並び、
寺名を感神院といったが、神仏分離令により
感神院は廃され、八坂神社と社名を改めた。・・」
(p154~P155)

ところで、
『京のおばんざい』(光村推古書院)のはじまりは、
「おぞうに」という2頁の文(秋山十三子)からです。
そこに、『おけらまいり』がありました。

「おおみそかの夜は、
いてつくような冷気のなかを、
八坂神社へ必ずおけらまいりに行く。

人波にもまれながら、長い長い
縄に神前の火をうつし、
クルクルまわしながら帰ってくる。
除夜の鐘の音が、
あちこちからひびいてきた。
 ・・・・・・・・
元日の朝は若水をくみ、
四方を拝し、つつしんで
神さまの火でおぞうにを炊く。
戦前までこの風習は固く守られ、
それは男の役目であった。」

うん。せっかくなので(笑)、
秋山さんの文のはじまりを引用。

「京都のおぞうには白みそ仕立て。
神仏にお供えするのに、
なまぐさをつつしんで、
おこぶだけでだしを取る。
なかに入れる具は、まるいあも(小もち)、
おかしら、ぞうに大根、こいも。
今年一年、まるう、人さまと争わず、
出世してかしらになるようにと、すべては丸い。
 ・・・・・・・
お正月の朝三日分を、暮れの三十日か、
おおみそかのうちに、むすか、ゆがくかして用意し、
まっさらのいかきに入れて、
まっさらのふきんを掛けて戸棚へ。
・・・」

はい。わたしに印象に残ったのは、
『疫病よけの神として、戦乱や悪疫による疲弊から、
京の町をよみがえらせる力ともなった。』
という箇所でした。
それに連なる、おけら詣り。






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