和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

文章日本語の陣中見舞。

2012-02-21 | 他生の縁
岩波新書「南極越冬記」についてです。
それにまつわる話で、3冊の本に登場してもらいます。
なんだか、3冊が微妙に異なる。
ちょっと、その味わいを噛みしめてみたいと思うのでした。

○桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)
 この中の司馬さんとの対談。司馬遼太郎対談集にもあります。
○司馬遼太郎が語る日本 未公開講演愛蔵版Ⅱ(週刊朝日増刊)
 これは、司馬遼太郎全講演1964-1983(朝日新聞社)にもあり
 のちに文庫にもなっているはず。
○西堀栄三郎選集別巻「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」(悠々社)
 そこにある、梅棹忠夫氏による追悼文。

西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)にまつわる、
上記3冊を並べてみたいと、思ったわけです。
最初は、桑原武夫・司馬遼太郎対談「『人工日本語』の功罪について」。
そこに、ちらりと、こんな箇所があったのでした。

司馬】 ところで、先生は以前どっかへゆく車のなかで、『ちかごろ週刊誌の文章と小説の文章と似てきた。これは由々しきことだ』ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。この現象は・・・やはり日本語としてはめでたきことです。
桑原】 ええ。・・・一例をあげると、私の知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むにたえないので、ぼくは『きみのネタはすばらしい。しかしこんな文章ではぜったい売り物にはならへん』といったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
司馬】 なるほど。型に参加できたわけですな。
桑原】 別に科学者として偉くなったわけではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。


う~ん。はたして、ここでいうところの「ある若い科学者」とは、どなたなのでしょう。
つぎにいきます。
司馬遼太郎講演に「週刊誌と日本語」(1975年11月21日)というのがありました。
その講演に、西堀栄三郎氏が登場しておりました。
「・・西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ』
『文章に理系も文系もあるか』
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
  ・・・・・・
それから西堀さんは一年間で、文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。(笑い)」


私は、桑原武夫・司馬遼太郎の対談を思い出すたび、
この司馬さんの講演を思い浮かべるのでした。
どちらも昭和30年代の週刊誌ということに眼目をおいております。


さてっと、ここに、ちょっと毛色の変わったエピソードがつけ加わりました。
西堀栄三郎選集別巻にある梅棹忠夫氏の文がそれでした。
その追悼文に、「南極越冬記」という箇所があるのでした。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊にして出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、いったい編集するだけの材料があるのだろうか。ゴーストライターとして、全部を代筆するなどということは、わたしにはとてもできない。
ところが、材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。200字づめ原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、文章をなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、どうやらできあがった。この別荘に1週間以上もとまりこんだように記憶している。途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、『わしのかわりに本をつくるなんて、とてもできないとおもっていたが、なんとかなっているやないか』と、うれしそうな顔でいわれた。
岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。たいへん好評で、うれゆきは爆発的だったようである。」(p15~16)

う~ん。この「材料の山」「原稿の山」を踏み固めながら「とてもできないとおもっていた」登頂を果たしたときの達成感が、言外に伝わってくるようであります。

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