和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

塩みたいなもの。

2023-04-29 | 他生の縁
司馬遼太郎の追悼文では、多田道太郎氏の
「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」が印象に残っていました。

そこに、わかったようなわからない箇所がありました。

「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させてもらったら、
 こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で風景も覚えているんですが、

 『 司馬さん、このたびはおめでとう 』と言ったら
 『 いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・ 』。

 その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、

 『 この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。
   これがなくなったときは・・・あるいは芸術家として、しまいや 』

 と、その自覚のある人でした。   」
 ( p158~159 三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」講談社・1996年 )

この『塩みたいなもの』というのが印象的なのですが、
なんだか、モヤモヤしていてわからなかった。

今思うのですが、それって、豆腐を固めるニガリのことじゃないのか?

いまだに、言葉にならずに、モヤモヤして空気に漂っている、
それをどのようにして固めて言葉にして出せるのか?

それを凝固させるニガリのことを『 塩みたいなもの 』と
言ったんじゃないか?

たとえばです。今めくっているバーバラ・ルーシュさんの中世でいえば、

『わたくしの考えでは、日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
 いちばんはっきりとした形で現れていると思われる。・・』(p105~106)


こう指摘する『国民性』について、バーバラさんは語ります。

「・・日本の中世小説をアメリカの大学院の学生に読ませたときの
 反応を披露したいと思う。彼らは、物語が終わりに近づくまで、
 ときには深く感動し、結構楽しみながら読む。

 しかし、物語が終わりに近づくにつれて態度が急に変化し、
 読み終わるや否や怒り出すのである。

 なぜ、この主人公はああしなかったのか、
 あんなに苦しんで努力したのに、なぜ最後に運命に身を委ねたのか、

 なぜ最後まで自分に忠実であろうとしなかったのか、
 というような質問を発し、物語の終わり方に納得しようとしない。

 こうした反応を目の当りにするたびに、
 わたしはいつも国民性の違い・・を痛感する。・・ 」(p105)


それでは、この場合のニガリは、どこにあるのか?
うん。よくわからないけれど、たとえば、こんな箇所が思い浮かぶ。

「 結局のところ、中世文学の中心的な原動力は
  運命であり、野心ではなかった。

  つまり、室町文学の神髄は
  時代にふさわしい秩序の回復であり、
  下剋上ではなかった。        」 (p148)

( 以上は、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」思文閣出版より )

 








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