和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

退屈。

2008-01-26 | Weblog
杉山平一の詩が、はじめて視野にはいったのは、石垣りん著「詩の中の風景」(婦人之友社)でした。そこでは杉山平一の詩「退屈」が引用され、その詩についての解説が書かれておりました。へ~。こういう詩があるんだ。とその時に思ったわけです。その詩を引用する前に、ちょいと寄り道。

村上春樹著「走ることについて語るときに僕の語ること」(文芸春秋)の最初の方に、こんな箇所がありました。まず村上さんは書いております。「走るときにはだいたいはロック・ミュージックを聴いている。たまにジャズを聴くこともある。しかし走るリズムにあわせることを考えると、伴走音楽としてはロックがいちばん好ましいような気がする」(p28)
そしてこう書いておりました。
「僕は今、五十代の後半にいる。・・自分が冗談抜きで五十代を迎えることになるなんて、若いときにはまず考えられなかった。・・若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、『死後の世界を具体的に想像してみろ』と言われたのと同じくらい困難なことだった。ミック・ジャガーは若いときに『四十五歳になって【サティスファクション】をまだ歌っているくらいなら、死んだ方がましだ』と豪語した。しかし実際には彼は六十歳を過ぎた今でも【サティスファクション】を歌い続けている。そのことを笑う人々もいる。しかし僕には笑えない。若き日のミック・ジャガーには四十五歳になった自分の姿を想像することができなかったのだ。若き日の僕にもそんなことは想像できなかった。僕にミック・ジャガーを笑えるだろうか?笑えない。」(p33)

こうして、寄り道したあとに、詩「退屈」を。


    退屈   杉山平一

 十年前、バスを降りて
 橋のたもとの坂をのぼり
 教会の角を右に曲つて
 赤いポストを左に折れて三軒目
 その格子戸をあけると
 長谷川君がいた

 きょう、バスを降りて
 橋のたもとの坂をのぼり
 教会の角を右に曲つて
 赤いポストを左に折れて三軒目
 その格子戸をあけると
 やつぱり長谷川君がいた


こう書いた詩人・杉山平一氏のことが、最近興味があるのでした。

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