和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茨木のり子と感受性。

2022-08-14 | 詩歌
現代詩文庫20「茨木のり子詩集」(思潮社)を、
はじめてひらいた時、気がかりだった詩があります。
『汲む』でした。うん。まるまる引用しちゃえ。

       汲む   —― Y・Yに ――

  大人になるというのは
  すれっからしになることだと
  思い込んでいた少女の頃
  立居振舞の美しい
  発音の正確な
  素敵な女のひとと会いました
  そのひとは私の背のびを見すかしたように
  なにげない話に言いました

  初々しさが大切なの
  人に対しても世の中に対しても
  人を人とも思わなくなったとき
  堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
  隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

  私はどきんとし
  そして深く悟りました

  大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
  ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
  失語症 なめらかでないしぐさ
  子供の悪態にさえ傷ついてしまう
  頼りない生牡蠣のような感受性
  それを鍛える必要は少しもなかったのだな
  年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
  外にむかってひらかれるのこそ難しい
  あらゆる仕事
  すべてのいい仕事の核には
  震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・
  わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
  たちかえり
  今もときどきその意味を
  ひっそり汲むことがあるのです


うん。この詩に『感受性』という言葉があったのでした。
詩『汲む』は詩集『鎮魂歌』(1965年)よりとあります。
そして、詩集『自分の感受性くらい』は1977年に出ます。

うん。『汲む』とならべて読みたくなります。

    自分の感受性くらい

  ぱさぱさに乾いてゆく心を
  ひとのせいにはするな
  みずから水やりを怠っておいて

  気難かしくなってきたのを
  友人のせいにはするな
  しなやかさを失ったのはどちらなのか
  苛立つのを
  近親のせいにはするな
  なにもかも下手だったのはわたくし

  初心消えかかるのを
  暮しのせいにはするな
  そもそも ひよわな志にすぎなかった

  駄目なことの一切を
  時代のせいにはするな
  わずかに光る尊厳の放棄

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ



花神ブックス1『茨木のり子』(花神社・1985年)を読むと、Y・Yの当人、
山本安英さんの文や、のり子さんの旦那さんのことなどの理解が深まります。



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2 コメント

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どきん! (kei)
2022-08-14 22:44:21
こんばんは。

「自分の感受性くらい」
この詩を読むたびに、それこそ「私はどきんとし」、言葉を失います。
そして自分はどうだろうと、顧みることになります。
返信する
つづけることに。 (和田浦海岸)
2022-08-15 11:19:27
おはようございます。keiさん。
コメントありがとうございます。

「汲む」には、こんな言葉もありました。
『 わたしもかつてのあの人と
  同じくらいの年になりました 』

うん。コメントつながりで、
もうすこしこのブログでは、
茨木のり子を続けることにしてみます。
返信する

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