行きもしないのに、親しいイメージのある京都・仁和寺。
はい。徒然草と方丈記の両方に、仁和寺は登場しております。
それで、身近さが感じられる。直接出かけたこともないのに(笑)。
淡交社「古寺巡礼京都⑪」は仁和寺(昭和52年)。
古本をひらくと、仁和寺の入場券1枚と、入場の際のパンフレットが
はさんでありました。古本の前の持ち主は、仁和寺へ行ったようです。
さてっと、11頁の文を載せているのは山本健吉氏。
ちなみに、山本健吉氏は明治40年長崎市生まれ。
そのはじまりを楽しく読みました。
こうはじまります。
「私が仁和寺の名を始めて知ったのは、中学生の時分、
国語の教科書によってである。徒然草の仁和寺の法師の
滑稽な話が載っていたからだ。
その次には、やはり中学生の時分、方丈記を読んだ。
そこには大飢餓の時に見せた仁和寺の隆暁法印の
きわだった行為が書かれていた。
上方に生まれ、毎年春には御室の桜を見に行った人
なら知らず、大方の日本人は、私と同じく仁和寺の名を
兼好と長明とによって知ったのではないか。
私の中にある仁和寺のイメージが、まずこの最も人に知られた
二冊の古典にもとづいているのは、はたして偶然であったかどうか、
そこに語られた話は、一方は剽軽(ひょうげ)た人間の失敗譚であり、
他方は厳しい決断を伴う人間行為である。そして、その雙方がどちらも
仁和寺に関連して語られているのは、仁和寺の持つ二つの面を
見せているのではないかと私には思われた。」
はい。こうして、徒然草と方丈記の記述を丁寧に紹介して、
おもむろに、御室桜の時期に訪ねた話につながります。
「仁和寺が京洛の人たちに親しまれるのは、それが花見の名所
だからである。境内には、中門をはいってすぐの左手に、
二百株ばかりも桜の木が植えられていて、お室桜と言って、
京の花見の最後とされていた。そこに茶店が座敷をしつらえていて、
私たちも・・・招ばれて、酒盛に加わった。丈の低い八重桜で、
灌木状に根元から枝は八方にひろがり、花はぼってりとした牡丹桜である。
師が私たちに配られた手拭に、唄が染めてあった。
『はながひくても人が好く』。だからお多福桜という俗名もあるそうだ。
・・・・・」
これから山本健吉氏の紹介は本題へとはいってゆきます。
はい。わたしはここまでで、もう満足。
中学か高校の教科書で読んだと思います。
まだ 海外の観光客が殺到しない頃に
仁和寺には 何度か訪れたことがあります。
ここの桜は 背も低く 花もコロリンと
していて 全体的に可愛らしい感じがします。
駅からの道も 昔のままのようで
のんびりしていました。
私の好きなお寺の一つです。
仁和寺へと行かれたことがあるのですね。
うらやましい(笑)。
はい、負け惜しみを言うなら。
うん。行きたくても行けない。
歴史への旅を、古本で楽しんでおります。