和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昭和20年と、東山文化。

2020-03-11 | 京都
芳賀幸四郎著「東山文化の研究」(河出書房)。
その古本が届く。
その序は、本人が書いています。昭和19年とある。
初版は昭和20年12月10日印刷、12月15日発行。
本文857頁。本の厚さ5.5センチ。
はい。わたしは、これだけで満腹(笑)。

ちなみに、追悼文集の略年譜をひらき、

昭和20年(1945)の箇所を引用

「37歳。 
前年来より空襲下で『東山文化の研究』の校正に専念する。
3月 家族を山形県の夫人の実家と宮城県鳴子に疎開・・
7月 召集を受け山形連隊に一等兵として入隊、
  舟形小学校(新庄)に分駐、終戦を迎える。
9月 復員し10月に上京・・・家庭を持ち、大学にもどる。」

うん。年譜の少し前も引用してみる

昭和5年(1930)22歳
東京高等師範学校3年3月28日藤田洋子と結婚。
・・「資本論」をはじめマルキシズムの文献を・・・読破。

昭和6年23歳
2月26日港区芝園橋で検挙される。
築地警察署などの転々と留置された後、
不起訴に決定、釈放された。しかし高等師範の方針により、
同年の学期末試験を受けてから退学を命ぜられ、山形に帰る。
5月9日長男(芳賀)徹誕生。
定職なく、山形高等学校入学の上の再出発を期し、
受験勉強を始める。特高・憲兵の監視がきびしい。

昭和7年24歳
3月山形高等学校受験。成績は抜群ながらも、
前年の事件を理由に不合格となる。
10月長屋喜一先生より誘引を受け、
国民精神文化研究所研究生となる。下落合に下宿。
その後、国民精神文化研究所内の寮に移る。
研究所ではマルクス経済学批判をテーマとし、
アダム・スミス、リカードを読み、歴史学に興味をもつ。
 ・・・・・

昭和9年26歳
1月高等師範学校復学。
3月・・・禅に傾倒。
8月・・・「洞然」の道号を授けられる。

昭和10年27歳
3月高等師範学校卒業。
4月鶴岡中学校に奉職。
一家をあげて鶴岡市家中新町に移り、
夫人は、鶴岡第四小学校ついて高等小学校に勤める。
 ・・・・・・

昭和12年29歳
6月鶴岡中学校でストライキがおこり、その矢面に立つ。
東京文理科大学受験を決心。

昭和13年30歳
4月東京文理科大学史学科国史専攻入学。
松本彦次郎先生、村岡典嗣先生、肥後和男先生
に指導を受ける。
  ・・・・・・・・

昭和16年33歳
1月卒業論文「東山文化の性格とその成立・・」提出。
3月東京文理科大学卒業
  ・・・・・・

昭和19年36歳
2月講師昇進の議がおこったが、
思想的経歴がわざわいして認められなかった。

はい。このあとが昭和20年の年譜となります。
そして、本が出来てからは
小西甚一氏の文からの引用。

「能勢朝次先生から、芳賀幸四郎著『東山文化の研究』
という巨冊を送っていただいた。それに添えて懇切な
お手紙・・・・・なるほど、先生のおっしゃるとおり、
感服のほかはない偉業だ。これだけの業績をまとめるまで、
どれだけ細密周到な調べが集積されたことか、
その辛苦がありありと追体験できる。」(p23)

以上、この小西甚一氏の文と年譜とは「一山行盡」
(芳賀幸四郎追悼文集刊行委員会)から引用。


さてっと、ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)
の序章を、あらためて、ここに引用しておきます。

「誰であれ東山時代について書こうとすれば、
芳賀幸四郎の非凡な作品の前では色あせて
しまうことを覚悟しなければならない。

この時代の文化に関する芳賀の研究を読んで、
この上さらに何を付けくわえることが
できるだろうかと思う時がある。・・・・」(p19)


うん。その「東山文化の研究」を手元において、
いまだ読めないでいます。






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