和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「人間素描」

2020-07-17 | 京都
本の面白さの指南役、としての鶴見俊輔。
そんなイメージが、鶴見さんにはあります。

さてっと、鶴見俊輔氏が桑原武夫を語って

「学者の肖像として、桑原武夫の文章ほど
おもしろいものを、私は知らない。
学術論文は、
それをつくりだした心の動きを、あとでかくしてしまうので、
のこされた文書から、それをつくった人にさかのぼってゆく
ことはむずかしい。・・・・・・

いつマルクスが輸入されたとか、いつウェーバーが輸入されたとか
いう歴史とは別に、学風の歴史が考えられなくてはならないだろう。
そういう問題をたてる場合、桑原武夫の伝記的な作品は、
地図のない文化の領域を歩くための無上の杖となる。・・・」
 (「桑原武夫全集④」朝日新聞社・解説鶴見俊輔のはじまりの箇所)

さてっと、内藤湖南の単行本を手にしたことがないので、ここは
講談社学術文庫の内藤湖南著「日本文化史研究」(下)の
桑原武夫解説によって内藤湖南への学風を知るよすがとします。

この文庫解説で
「私がこの復刊をよろこぶのは、これが偉大な湖南への最良の
アプローチだと信ずるからだが、それだけでなく、これが
私自身の高校時代からの愛読書だからである。
そして私の日本文化についての考え方、感じ方の基盤は、
湖南からのいつとはなしの影響から生れたような気がする。・・・」

内藤湖南は1866年(慶応2)毛馬内(けまない・秋田県十和田町)に、
南部の支藩桜庭家の家臣の二男として生まれる。幼にして母と兄を失う。

こう年譜を示しながら、桑原氏は指摘します。

「内藤湖南が、維新のさい朝敵となったため、
官僚ないし軍人として出世コースからはずされた南部藩士の
子だったことは、意味があるように思われる。明治・大正の
歴史学界で最も独創的な業績をあげた那珂通世(なかみちよ)、
原勝郎がともに南部藩、湖南を招いた初代の京都大学文科大学長で、
歴史家と見てよい狩野亮吉が大館の出身であることは、
近代日本の詩歌が、石川啄木、宮沢賢治、斎藤茂吉の三東北人
なくしてありえなかったことと対応する。
これらの歴史家には、すべて論理的徹底性と精神における
反ブルジョワ的剛毅さが認められる。」

年譜にもどると
1907年 京大東洋史講師、大学出でなければ孔子様でも
教授にせぬという官僚に妨げられ、教授任命は二年後。
狩野直喜らと協力して、世界におけるシナ学の中心は
北京、パリと京都だと言わしめるに至った。亡命中の
羅振玉、王国維と交わり、富岡鉄斎を知る。

うん。うかうかしていると、桑原武夫解説の全文を
引用しなきゃならなくなるので、あとは最後の方を引用しておわります。


「現代日本を知るためには応仁の乱以後を知れば十分だという
大胆な、しかしよく考えてみれば反駁できぬ『独断』を打ち出した
『応仁の乱について』は、本書中の白眉であって、この乱の意味を
これほどみごとに規定したエッセーは、それまで日本史の専門家
によって書かれてはいなかった。いや、今日に至ってもこれを
超える文章はないのではなかろうか。・・・才とはいわば芸術性であって、
言わんとするところをじゅうぶんに述べることのできる表現力、
さらに文章の喜びをも含ませうるかもしれない。」

こうして「応仁の乱について」に、ちょっと触れております。

「湖南は下剋上とは近ごろの国史家が勘違いしているように、
単に下の者が順々に上を抑えるというような生ぬるいことではない
と言ったあと、『最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと
烈しい現象を、もっともっと深刻に考えて下剋上といったのであるが、
このことに限らず、日本の歴史家は深刻なことを平凡に理解すること
が歴史家の職務であるように考えているようです』
と胸のすくようなサワリを聞かせてくれる。

時代の代表として一条兼良と山名宗全の二人がたくみに
とり上げられているが、それは個人描写をするためではない。
社会を示す二つの典型としてとらえられているのだ。
兼良を思わせる保守的な高官が事ごとに古い慣例をもち出す
のに腹を立てた宗全が、『例』という文字をこれからは
『時』という文字に読みかえるようにすべきだと言った
象徴的なことばを『塵塚物語』から引用しているところなど、
まさに芸術的感銘を与えるものといっていい。」


「湖南は新聞記者として大阪に住んでいたころ、
奈良、京都の古美術を丹念に見て歩いた。・・・・・・
ここに収めた『日本の肖像画と鎌倉時代』も、
彼の美的洞察の深さを示している。
東洋は山水画においては西洋の追従を許さなかったが、
肖像画においてはその逆である。しかし、その乏しい
東洋の肖像画の傑作として、藤原隆信の作品があるといっている。
平重盛、源頼朝とされる二幅が歴史上の人物をあらわしているか
どうかという点には疑問があるが、最高の作品に間違いはない
というのである。これらの作品は、アンドレ・マルローが激賞して以来
はじめて日本の文化人によって注目されるようになるのだが、
大正9年の湖南のことばを想起する人は少ないのである。・・・」


え~と。筑摩叢書に桑原武夫著「人間素描」があります。
学者からはじまって、いろいろな方が登場し鮮やかな筆致で
楽しめるのですが、その始まりに登場するのが、内藤湖南でした。






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