和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

母は吉田茂を敬愛し。

2014-05-21 | 地域
村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」(マガジンハウス)を
そういえば、以前に読んだことがあったと、
本棚を探すと出てくる。
すっかり忘れておりました(笑)。

本の最後に村岡花子年表があります。
その最初を引用。

1893(明治26)年6月21日山梨県甲府市で葉茶屋を営む安中逸平、てつの間に8人きょうだいの長女として生まれる。本名はな。2歳で洗礼を受け、クリスチャンとなる。

1898(明治31)年 一家で上京。翌年、品川の城南小学校に入学。
 
1903(明治36)年 カナダ系メソジスト派の東洋英和女学校に編入学し、10年間を寄宿舎で暮らす。

うん。年譜はこれからの出会いが記されており、
へ~え。と思いながら眺めます(笑)。

さてっと、
杉田俊介著「宮崎駿論」(NHK出版)が出て、
5月18日の今週の本棚(毎日新聞)に
中島岳志が書評をしております。
書評のはじまりは

「渾身の批評がここにある。読んでからしばらく
時間を置いたが、まだうろたえている。」

おいおい。と思いながらも、注文(笑)。
その序章に宮崎駿の母親のことが出ています。

「宮崎は、なぜか、これまで、母親の記憶について
あまり多くのことを語らずにきた。
母親の美子(よしこ)は、1910年、山梨県の
農家に生まれた。他人に親切で、お節介焼きで、
非常に気の強い女性だった。正義感が強く、
正しいと思ったら、どこまでも戦った。
子どもたちへの躾は厳しかった。およそ
『ほめて育てる』タイプではなかった。
『天空の城ラピュタ』のドーラは
美子がモデルだという。」(p30)

え~と。ドーラって
どんな役柄だったっけ?
というような中途半端な宮崎ファンの
私です(笑)。
引用をつづけます。

「脊椎カリエスを患った。宮崎が小学校に入った頃から
入退院を繰り返した。長患いで、家ではずっと、
人型のギブスを敷いてその上に寝ていた。
起き上がって動けるようになったのは、
ようやく、宮崎が高校を終える頃だった。
寝たきりの母親から死の気配を感じ、
母親の前では『いい子』を演じた。・・・
宮崎は、寝たきりの母親と、ずいぶんいろいろな
話をした。政治・経済から、文化・芸術まで。
母は吉田茂を敬愛し、鳩山一郎が嫌いだった。
保守本流の雑誌『文藝春秋』が好きだった。
この国の文化人たちは、戦後になって
言うことがコロっと変わった。そう怒っていた。
大学時代には左寄りだった宮崎とは、
激論し、宮崎が涙を流すこともあったという。
1983年に亡くなった。最後の数年はリウマチで
動けなかったが、病院へ行くことを頑なに拒んだ。
遊び人だった父親に、晩年は、
とことん在宅介護をさせた。」(~p31)


うん。私はここを読めれば満足(笑)。

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