ガイドの島内裕子さんは、語りが伸びやかで、よく響く。
徒然草と絵画だったり、徒然草とモーツァルトだったり、
そのときどきでの比喩に、読者はワクワクさせられます。
ある本では、画家の全作品にたとえます。
「徒然草を『随筆』とする先入観を、まず捨てる必要がある。
徒然草は、いわば、兼好という文学者が生み出した、
多数の作品の集合体であり、たとえば、
画家の全作品を網羅した『カタログ・レゾネ』のようなもの
ではないだろうか。それを見れば、画家の生涯にわたる作風の
変化やテーマの変遷を、一望の下に見渡すことができる。
同様に、徒然草を通読すれば、著者兼好の関心の所在・表現の変化・
思索の深化などを読み取ることができる。」
( p81~82 「徒然草の内幕」放送大学教材 )
はい。ここには徒然草の随筆全体を評して
「画家の全作品を網羅した『カタログ・レゾネ』のようなもの」
としておりました。
それが違う本では、こうなります。
「それにしても、『つれづれなるままに』という序段の季節感は、
青葉が揺れる夏の日とも、蜩が鳴く秋の日とも、
雪が降り積む冬の日とも思えないのだ。
春以外の季節では、『つれづれ』という語感が生きてこない。
・・・・・・・・・
繰り返して言おう。心の底に本人さえも気づかぬほど微かな
執筆意欲の蠢動(しゅんどう)が始まる瞬間が、
春の季節以外では生きてこない。その蠢動のさまは、
たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』の序曲の
一番初めの、まるで小さな羽虫たちが一斉に翅(はね)を
動かして空に飛び立つような、絃楽器の弓のごくごく細やかな
すばやい動きを思い浮かべたら、最も近いだろう。
この無比の清新さが、モーツァルトと兼好の身上である。
徒然草を読んでいると、いつもモーツァルトが聴こえてくる。
そのような読み方が、現代の私たちに許されている特権である。」
( p162~163 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )
はい。徒然草をガイドしてゆく島内裕子さんの、
その楽しみが、すぐそばで響き渡る気がします。
コメントありがとうございます。
この『徒然草』水先案内人は、寝ても
覚めても徒然草を思ってたのでしょうね。
モーツァルトを聴いている時も、
絵画を鑑賞している時も、
ガイドの、島内裕子さんの頭の中は徒然草
だったのじゃないかと思い浮かぶのでした。
そうすると私などよりもよほど、
モーツァルト好きののりさんの
方が、島内裕子さんとよっぽど
馬が合いそうな気してきますね。
はい。このガイドさんとの通読
コースを楽しみながらの読書旅。
のりさんにはきっとガイドさんの
鼻歌が聞こえはじめているのかも。
何度も原文は読んでいますが、
素人の読みは浅いのか、
原文からモーツァルトまではとべない感性の貧弱ささ…。
コメントありがとうございます。
思い浮かぶのは『かくし味』。
徒然草の、かくし味は『連歌の手法』
芭蕉歌仙のかくし味は『徒然草の手法』
それでは、徒然草を取り扱う
島内裕子のかくし味は『歌仙の手法』
はい。歌仙ならば、徒然草とモーツァルト
徒然草と「カタログ・レゾネ」とが、
ごく自然と付けられても不思議ではない。
うん。この軽みでもって
『ええ、まだあります』と
現代に「見ぬ世の人を友とする」。
さあ。そんなことを語りましょうよ。
「多数の作品の集合体」
この言葉には引っ掛かり、
連歌の手法へとつながる思いを持ったのですが。