夏目漱石の一生は、1867年2月~1916年12月。
そして、青木繁は、1882年7月~1911年3月。
こうしてみると漱石の一生の間に、年代としては青木繁の生涯が納まっている。
ところで、クレージーキャッツのメンバーとして知られている石橋エータロー氏は、青木繁の孫にあたるのでした。その石橋氏の文に「放浪三代」がありました。最初の「祖父・青木繁」は、こう書き始められております。
「『いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思った。つまり自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである・・・・』夏目漱石は、明治42年、小説『それから』の一節で右のように述べている。この中の『青木と云う人』というのは、明治の天才画家だった青木繁である。その青木繁は私の祖父にあたる。もっとも祖父は、28歳で夭折しているから、私はもちろん、父・福田蘭童(らんどう)もその顔ははっきり知らない。・・・」(「画家の後裔」講談社文庫・p68)
漱石の年譜には
1909年(明治42年)43歳
6月27日、「それから」を東西両「朝日新聞」(~10月14日)に連載。
9月、中村是公の招きで満洲・朝鮮を旅行、10月17日に帰宅する。
約50日間の旅であった。10月、「満韓ところどころ」を
東西両「朝日新聞」(~12月)に連載。
その、「海の底に立っている背の高い女を画いた」の絵というのは、
青木繁の「わだつみのいろこの宮」なのでしょう。
では、青木繁の年譜から
1907年(明治40年)
1月福田家に身を寄せ、制作に没頭
3月「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出品
7月選考の結果三等賞末席
8月父危篤の報に帰省
10月 第一回文展に「女の顔」出品するも落選
ここでは、「わだつみのいろこの宮」に注目した漱石をとりあげます。
というのは、水と女性というのが、漱石の関心がある絵のキーワードとしてあるようなのです。さて、関係がありそうな本として飛ヶ谷美穂子(ひがやみほこ)著「漱石の源泉 創造への階梯」(慶応義塾大学出版会)がありました。
その本の口絵にジョン・エヴァレット・ミレー画「オフィーリア」のカラー写真があります。どんな絵かは本文から引用しましょう。
「『ミレーのオフェリア』とは、周知のとおり英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレーが、水に沈まんとする刹那なオフェーリアを描いた、ラファエル前派絵画の白眉である。19世紀後半から今世紀にかけて、ヨーロッパを中心に、このオフェーリアのように水の流れに身をゆだねて死んでゆく女性のイメージが、さまざまなジャンルの文学や芸術に、繰り返し描かれた。いわゆるオフェーリア・コンプレックスである。・・・『ミレーのオフェーリア』は、既に『草枕』論のキーワードの一つとなったと言って過言ではない。」
ちなみに飛ヶ谷氏のこの関連文の最初を引用しておきましょう。
「『草枕』(明治39年9月)の画工は、水に浮かぶ那美のイメージに囚われ、第七章では温泉の湯に身を漂わせながら、長良の乙女とオフェーリアを綯い交ぜにしたような『風流な土左衛門』の図を思い描く。
・・・・流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂迄流して居れば、
キリストの御弟子となったより有難い。成程此調子で考えると、土左衛門は風流である。スヰンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがって居る感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリアも、かう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今迄不審に思って居たが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮んだまま、或は水に沈んだまま、或は沈んだり浮んだりしたまま、只其のままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。・・・ 」
こうして漱石の『草枕』を引用しながら論を展開して、英国の詩を引用したりしながら、最期に飛ヶ谷氏はこう指摘しておりました。
「しかし、『草枕』の画工が描こうとしたのは、あくまで『風流な土左衛門』であった。一般論からいえば、『風流』とはスウィンバーンからおよそ縁遠い言葉である。彼の描いた水の中の炎のようなサッフォー像にひかれ、可憐なオフィーリアの図像の上にそれを重ねて、イメージをふくらませながらも、漱石の眼はその彼方に、別のかたちの救いを求めていたのであろう。オフィーリア、リジー、スウィンバーン、サッフォー・・・そして熊本時代に入水自殺をはかった妻鏡子のことまで思い合わせると、土左衛門をあえて『風流』と言い切ったのは、決して浮き世離れした俳諧趣味などではありえない。その裡にはむしろ、漱石のかかえているものの重さと、そのすべてを対象化によって救いとろうとする思いの烈しさとが、こめられていたように思われる。・・・・」(p60~61)
漱石は、自分のテーマが絵画化された像をもっていたようです。そこに、青木繁の作りあげた女性像を、思いがけず観ることができた。思わず、小説の中へとそれを書き込んでいたものと思われるのでした。そんな想像をしてみるのですが、どうでしょう。
ちなみに、雑誌「太陽」の載った「わだつみのいろこの宮」の絵の脇解説はこうありました。
「1907/油彩/181×70/ブリヂストン美術館 重文 海幸彦・山幸彦の神話に想をとる。『僕がこの絵を作るのには実に三年の日子を費して居る』。印象を刻んだのは、房州旅行の時、怒涛の海を潜りアマメガネで遊んだ時であるという」
そして、青木繁は、1882年7月~1911年3月。
こうしてみると漱石の一生の間に、年代としては青木繁の生涯が納まっている。
ところで、クレージーキャッツのメンバーとして知られている石橋エータロー氏は、青木繁の孫にあたるのでした。その石橋氏の文に「放浪三代」がありました。最初の「祖父・青木繁」は、こう書き始められております。
「『いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思った。つまり自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである・・・・』夏目漱石は、明治42年、小説『それから』の一節で右のように述べている。この中の『青木と云う人』というのは、明治の天才画家だった青木繁である。その青木繁は私の祖父にあたる。もっとも祖父は、28歳で夭折しているから、私はもちろん、父・福田蘭童(らんどう)もその顔ははっきり知らない。・・・」(「画家の後裔」講談社文庫・p68)
漱石の年譜には
1909年(明治42年)43歳
6月27日、「それから」を東西両「朝日新聞」(~10月14日)に連載。
9月、中村是公の招きで満洲・朝鮮を旅行、10月17日に帰宅する。
約50日間の旅であった。10月、「満韓ところどころ」を
東西両「朝日新聞」(~12月)に連載。
その、「海の底に立っている背の高い女を画いた」の絵というのは、
青木繁の「わだつみのいろこの宮」なのでしょう。
では、青木繁の年譜から
1907年(明治40年)
1月福田家に身を寄せ、制作に没頭
3月「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出品
7月選考の結果三等賞末席
8月父危篤の報に帰省
10月 第一回文展に「女の顔」出品するも落選
ここでは、「わだつみのいろこの宮」に注目した漱石をとりあげます。
というのは、水と女性というのが、漱石の関心がある絵のキーワードとしてあるようなのです。さて、関係がありそうな本として飛ヶ谷美穂子(ひがやみほこ)著「漱石の源泉 創造への階梯」(慶応義塾大学出版会)がありました。
その本の口絵にジョン・エヴァレット・ミレー画「オフィーリア」のカラー写真があります。どんな絵かは本文から引用しましょう。
「『ミレーのオフェリア』とは、周知のとおり英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレーが、水に沈まんとする刹那なオフェーリアを描いた、ラファエル前派絵画の白眉である。19世紀後半から今世紀にかけて、ヨーロッパを中心に、このオフェーリアのように水の流れに身をゆだねて死んでゆく女性のイメージが、さまざまなジャンルの文学や芸術に、繰り返し描かれた。いわゆるオフェーリア・コンプレックスである。・・・『ミレーのオフェーリア』は、既に『草枕』論のキーワードの一つとなったと言って過言ではない。」
ちなみに飛ヶ谷氏のこの関連文の最初を引用しておきましょう。
「『草枕』(明治39年9月)の画工は、水に浮かぶ那美のイメージに囚われ、第七章では温泉の湯に身を漂わせながら、長良の乙女とオフェーリアを綯い交ぜにしたような『風流な土左衛門』の図を思い描く。
・・・・流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂迄流して居れば、
キリストの御弟子となったより有難い。成程此調子で考えると、土左衛門は風流である。スヰンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがって居る感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリアも、かう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今迄不審に思って居たが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮んだまま、或は水に沈んだまま、或は沈んだり浮んだりしたまま、只其のままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。・・・ 」
こうして漱石の『草枕』を引用しながら論を展開して、英国の詩を引用したりしながら、最期に飛ヶ谷氏はこう指摘しておりました。
「しかし、『草枕』の画工が描こうとしたのは、あくまで『風流な土左衛門』であった。一般論からいえば、『風流』とはスウィンバーンからおよそ縁遠い言葉である。彼の描いた水の中の炎のようなサッフォー像にひかれ、可憐なオフィーリアの図像の上にそれを重ねて、イメージをふくらませながらも、漱石の眼はその彼方に、別のかたちの救いを求めていたのであろう。オフィーリア、リジー、スウィンバーン、サッフォー・・・そして熊本時代に入水自殺をはかった妻鏡子のことまで思い合わせると、土左衛門をあえて『風流』と言い切ったのは、決して浮き世離れした俳諧趣味などではありえない。その裡にはむしろ、漱石のかかえているものの重さと、そのすべてを対象化によって救いとろうとする思いの烈しさとが、こめられていたように思われる。・・・・」(p60~61)
漱石は、自分のテーマが絵画化された像をもっていたようです。そこに、青木繁の作りあげた女性像を、思いがけず観ることができた。思わず、小説の中へとそれを書き込んでいたものと思われるのでした。そんな想像をしてみるのですが、どうでしょう。
ちなみに、雑誌「太陽」の載った「わだつみのいろこの宮」の絵の脇解説はこうありました。
「1907/油彩/181×70/ブリヂストン美術館 重文 海幸彦・山幸彦の神話に想をとる。『僕がこの絵を作るのには実に三年の日子を費して居る』。印象を刻んだのは、房州旅行の時、怒涛の海を潜りアマメガネで遊んだ時であるという」
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