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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

老衰御褒美。

2015-09-01 | 短文紹介
加藤秀俊著「メディアの展開」(中央公論新社)の
第十章は「隠者の手すさび――『随筆』にあそぶ」。

そこから引用。

「『隠居文化』の全盛期は十八世紀なかばころにやってきた。
その理由は簡単で、要するに『隠居』の数が増加したからである。
氏家幹人さんの研究ではじめて知ったのだが、享保五(1720)年
の『柳営日次記』には『組支配の者の内、七十歳以上まで
御役勤め候は、御番御免願ひ候節、御ほめの儀相願ふべし』
うんぬんとある。つまり幕臣のうち七十歳になった役付の武士には
『老衰御褒美』という名の慰労金がでる、というのだ。・・・
武士階級や地方のプチブル地主層などをとりあげてみると、
案外、長生きのひとがすくなくなかった。
そのことは幕閣はもとより、各藩でもその藩士の『定年』が
おおむね七十歳ということになっていたことからもわかる。
いま引用した『御番御免願い』つまり辞表の提出もべつだん
七十歳になったら提出しなければならない、という『義務』でも
強制でもなく、本人が希望するなら終身勤務も可能だった。
それに七十歳をメドにしてつくられた『老衰御褒美』も
だんだんその年限が引き上げられ寛保年間あたりから
八十歳ということになっていたらしい。・・・」

「それではいったいいつごろに隠居したのか。
旗本御家人についていうと、正徳年間つまり十八世紀
はじめの隠居の平均年齢は六十三歳、それが十九世紀はじめの
享和年間には五十二歳。つまりだんだん『早期退職者』が
ふえてきたのだ。直参旗本といってもその暮らし向きは
ピンからキリまで。隠居して悠々自適というめぐまれた
老人もいたが、内職でギリギリの生活というひとびともいた。
各藩でおおむねおなじような傾向であったらしい。」
(p462~463)

加藤秀俊氏は
「はしがき――わが『徳川四百年史観』」で

「このような『むかし』と『いま』とのあいだの連続性に
ついてかんがえることは、わたしにとってかなり以前から
の課題であった。とりわけ『徳川時代』なかば以後の
日本と現在の日本とはきっちりとつながっているのでは
ないか、という仮説をわたしはずっともちつづけていた。」


この第十章の本題は、これから『随筆』へと考察を
すすめてゆく道筋です。ワクワクしてくる。
うん。それはそれ、読んでのお楽しみ(笑)。
コメント
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