加藤秀俊著「メディアの展開」(中央公論新社)の
第十章は「隠者の手すさび――『随筆』にあそぶ」。
そこから引用。
「『隠居文化』の全盛期は十八世紀なかばころにやってきた。
その理由は簡単で、要するに『隠居』の数が増加したからである。
氏家幹人さんの研究ではじめて知ったのだが、享保五(1720)年
の『柳営日次記』には『組支配の者の内、七十歳以上まで
御役勤め候は、御番御免願ひ候節、御ほめの儀相願ふべし』
うんぬんとある。つまり幕臣のうち七十歳になった役付の武士には
『老衰御褒美』という名の慰労金がでる、というのだ。・・・
武士階級や地方のプチブル地主層などをとりあげてみると、
案外、長生きのひとがすくなくなかった。
そのことは幕閣はもとより、各藩でもその藩士の『定年』が
おおむね七十歳ということになっていたことからもわかる。
いま引用した『御番御免願い』つまり辞表の提出もべつだん
七十歳になったら提出しなければならない、という『義務』でも
強制でもなく、本人が希望するなら終身勤務も可能だった。
それに七十歳をメドにしてつくられた『老衰御褒美』も
だんだんその年限が引き上げられ寛保年間あたりから
八十歳ということになっていたらしい。・・・」
「それではいったいいつごろに隠居したのか。
旗本御家人についていうと、正徳年間つまり十八世紀
はじめの隠居の平均年齢は六十三歳、それが十九世紀はじめの
享和年間には五十二歳。つまりだんだん『早期退職者』が
ふえてきたのだ。直参旗本といってもその暮らし向きは
ピンからキリまで。隠居して悠々自適というめぐまれた
老人もいたが、内職でギリギリの生活というひとびともいた。
各藩でおおむねおなじような傾向であったらしい。」
(p462~463)
加藤秀俊氏は
「はしがき――わが『徳川四百年史観』」で
「このような『むかし』と『いま』とのあいだの連続性に
ついてかんがえることは、わたしにとってかなり以前から
の課題であった。とりわけ『徳川時代』なかば以後の
日本と現在の日本とはきっちりとつながっているのでは
ないか、という仮説をわたしはずっともちつづけていた。」
この第十章の本題は、これから『随筆』へと考察を
すすめてゆく道筋です。ワクワクしてくる。
うん。それはそれ、読んでのお楽しみ(笑)。
第十章は「隠者の手すさび――『随筆』にあそぶ」。
そこから引用。
「『隠居文化』の全盛期は十八世紀なかばころにやってきた。
その理由は簡単で、要するに『隠居』の数が増加したからである。
氏家幹人さんの研究ではじめて知ったのだが、享保五(1720)年
の『柳営日次記』には『組支配の者の内、七十歳以上まで
御役勤め候は、御番御免願ひ候節、御ほめの儀相願ふべし』
うんぬんとある。つまり幕臣のうち七十歳になった役付の武士には
『老衰御褒美』という名の慰労金がでる、というのだ。・・・
武士階級や地方のプチブル地主層などをとりあげてみると、
案外、長生きのひとがすくなくなかった。
そのことは幕閣はもとより、各藩でもその藩士の『定年』が
おおむね七十歳ということになっていたことからもわかる。
いま引用した『御番御免願い』つまり辞表の提出もべつだん
七十歳になったら提出しなければならない、という『義務』でも
強制でもなく、本人が希望するなら終身勤務も可能だった。
それに七十歳をメドにしてつくられた『老衰御褒美』も
だんだんその年限が引き上げられ寛保年間あたりから
八十歳ということになっていたらしい。・・・」
「それではいったいいつごろに隠居したのか。
旗本御家人についていうと、正徳年間つまり十八世紀
はじめの隠居の平均年齢は六十三歳、それが十九世紀はじめの
享和年間には五十二歳。つまりだんだん『早期退職者』が
ふえてきたのだ。直参旗本といってもその暮らし向きは
ピンからキリまで。隠居して悠々自適というめぐまれた
老人もいたが、内職でギリギリの生活というひとびともいた。
各藩でおおむねおなじような傾向であったらしい。」
(p462~463)
加藤秀俊氏は
「はしがき――わが『徳川四百年史観』」で
「このような『むかし』と『いま』とのあいだの連続性に
ついてかんがえることは、わたしにとってかなり以前から
の課題であった。とりわけ『徳川時代』なかば以後の
日本と現在の日本とはきっちりとつながっているのでは
ないか、という仮説をわたしはずっともちつづけていた。」
この第十章の本題は、これから『随筆』へと考察を
すすめてゆく道筋です。ワクワクしてくる。
うん。それはそれ、読んでのお楽しみ(笑)。