和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

杜甫。トホホ。

2009-02-22 | Weblog
漢文の前では、途方に暮れる私です。
けれども、日本漢字能力検定協会が、公益法人では認められない多額の利益をあげている昨今。漢文・漢詩などに興味をお持ちの方は根強くいらっしゃるのじゃないかとも思ってみるのです。それにつけても、漢詩が分からずにトホホホホ・・・ってな感じです。うん。2007年で漢字検定受験者数が272万人という裾野。ならば、漢詩からの橋渡しがあってもよさそうなものです。そこで、この新刊「杜甫」をとりあげてみようと思います。まずは、私のこの新刊の感想はですね。
絵画鑑賞のようにして、漢詩鑑賞というのもできるのだ。という手ごたえを感じました。たとえば、以前にマチス展というを、見に行ったことがあります。マチスの初期から晩年まで年代順にならんで展示しておりました。その時にですね。500円という別料金で携帯の音声ガイドというのをかりられた。ただ絵画の前に佇んで眺めているのと違って、イヤホンで時代背景を聴きながら、絵画を年代順に見て回れたのです。観光地のガイドさんがついて名所を案内されてゆくような、あんな感じ。けれども、音声ガイドは、絵に見入って聞き逃したら、一人でもって、同じ箇所を聞き返すこともできる。それにイヤホンで他人の迷惑にもならずに静かなものです。

漢詩鑑賞にも、そのような音声ガイドがつけば、きっと楽しめますよね。
じつは、この本NHKラジオ第二放送『古典講読』の時間に、全26回にわたって放送されたものなのだそうです。ラジオでの漢詩朗読こそ聴けないのですが、ガイドの宇野直人氏と声優・江原正士氏による会話体の進行は、美術館で絵画の間を歩いているようなテンポで杜甫の漢詩の間をすすむことができます。

まあ、私にしてからが、杜甫といえば「春望(しゅんぼう)」の
 国破れて山河あり
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
・・・・・
ぐらいしか思い浮かばないのですが、この本はじつに全450ページ。
とても、ガイドなしには、つきあえない厚さです。

さて、漢詩「春望」についてです。杜甫が安禄山軍に捕まって長安で軟禁され。そんな中で作られた詩がこれなのでした。ガイド宇野氏の説明には、こうあります。「46歳の春の作です。前年8月に軟禁生活に入りましたので、年を越して二年目になります。杜甫としては社会のことも気になる、疎開先の家族のことも気になる、そういうもろもろの悩みをぶつけた詩です。」(p115)

このようにして、杜甫の年齢と、その頃の漢詩とを配置して、杜甫の人となりを語りながら、漢詩にわけいってゆきます。漢詩を読むのも自由。人となりを読み出すのもたのしめます。ここでは、杜甫の人となりを引用していきましょう。

まずは、興味深いこの箇所。

「杜甫は二十歳前後から十年ほど、途中、科挙に落第したりしながらあちこち修業の旅をしていました。それが一段落した三十歳前後の時、一族の本拠地洛陽に戻ります。そこで結婚して新居を建て、新しい生活を始めるのですが、まだ就職が決まっていません。」(p32)
「官職を求めて三十五歳で都長安に出て来た杜甫ですが、試験を受けたり、有名人に面会したりしてもなかなかうまくゆきません。」(p66)
「結婚して洛陽に住んでいた杜甫は、男の子三人、女の子二人をもうけ・・天宝十三年(754)、長安の南に新しい家を建てて引っ越しました。しかしまだ官職は得られず、生活は苦しいうえ、この時期、長安近辺はやたら飢餓があったんです。日照りや洪水、秋の長雨などに見舞われて、物資が足りなくなり、食べ物の値段が上がりました。そこで杜甫はつてを頼って奥さんと子どもたちを長安の東北に食糧疎開させます。幸い、奥さんの親戚がそちらで長官を勤めていたので、官舎を借りることができたようです。そしていったん杜甫は一人で長安に戻り、就職活動を続け、翌年十月、やっと官職を得ることができました。
科挙は落第したのですが、推薦で・・・。」(p84~85)

このあとに、安禄山の乱に巻き込まれる。
これがまあ、この本の四分の一まででして、
これから、波瀾万丈の杜甫の旅がつづくことになります。
では、杜甫と漢詩に興味がもてるようでしたなら、
おあとは、読んでのお楽しみということにいたしましょう。
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マチス展。

2009-02-22 | 短文紹介
岡潔の随筆に「数学と芸術」という短文があります。そのはじまりは

「数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。」
「しかし大いに違っている面もある・・・数学でも絵でも、仕事の途中である所まで描けたと思うと、そこでタバコを出して一服する。その場合、数学なら、ここまでこう書けたがこのあとはどう書いてゆくのかなあと思いながらノートを見ている。ところが絵かきの場合は、これまでのところはこれでいいのかなあと調べながらながめているらしい。つまり芸術では途中でタバコをのむとき、目は過去を向いているが、数学では目は常に未来を向いているので、うまく書けたかどうかはそれ以後どう書くかが決定する。それが真と美との根本的な違いではないかと思う。・・・・」
「最近、京都の国立博物館で絵を見る機会があった。研究室の一同を連れて行ってみると、以前から見たいと思っていた絵が掲げてなく、そのかわり新収品展というのをやっていた。まずいところに来たなと思ったが、それでも見て回っているうちにだんだんと室町時代の絵画に心がひかれていった。・・・室町時代は宋からじかに学んだのだろうが、実にいいなあというのが全体の印象で、非常な名品を見たわけではないが、それだけかえって時代というものがよくわかったように思う。博物館を西山に向かって出て来ると、さっきまでのざわざわした気分が落ち着いて、このあとはよく勉強できるだろうと感じた。芸術には、ちょうどラジオの波長を合わすように心を調節する働きがあるといえる。」

そして、この短文の最後も引用しておきましょう。
数学でフランスへ留学した岡潔氏の、帰り際のことが書かれておりました。

「芸術はまた、ときとして非常に精神を鼓舞し勇気づけてくれる。私は研究が行き詰まるといつも、こんな難問が自分にできるのだろうかと思うが、そのなかでも特に六番目の論文にかかっていたころは困り抜いていた。そのころ好んで読んだのはドストエフスキーの小説『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』だったが、これらは一つページをめくると次に何が書いてあるかが全く予測できないという書物で、ある友人が『さながら深淵をのぞくようだ』と表現したとおりだった。そして、人がそういう小説を書いたという事実が、問題が解けなくてすっかり勇気を失っていた私をどれだけ鼓舞してくれたかわからない。これより少しさかのぼるが、フランスへ留学して開拓すべき土地を選択し、さてどう着手してゆくか方法に苦しんでいたころ、帰国まぎわにマチスの展覧会を見た。それは彼が学校で賞をもらった時代に始まり、彼の通った径路が一通り掲げられているもので、マチスの成長ぶりを調べようと思えばいくらでも細かく調べることができるほどだった。これを見ているうちに、文化の仕事というものは心境を深めていけばおのずから開けていくものだ、だからそうやっていけばよいのだ、と思ってひどく勇気づけられたのであった。その確信は帰国後さらに詳しく漱石や芭蕉の文学に接することによって強められ、今もなお変わっていない。」(学研「岡潔集 第一巻」p148~152)

これを読んでから何十年もたった2004年に上野の国立西洋美術館でマチス展がありました。見に行きました。ちなみに、ドストエフスキーは、いまだ読んでおりません。

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