雑誌「Voice」2006年1月号に
第十四回山本七平賞発表が掲載されております。
受賞作は北康利著「白洲次郎 占領を背負った男」(講談社)。
その時の特別賞だったのが筒井清忠著「西條八十」(中央公論社)。
ちなみに、選考委員は加藤寛・中西輝政・山折哲雄・養老孟司・渡部昇一・江口克彦。その選考委員の選評が、雑誌に掲載されているのでした。
その選評の最初は加藤寛氏でした。そのはじまり
「私は千葉商大に移って以来、千葉は童謡のメッカだと聞いていた。『証城寺の狸囃子』は木更津で生まれ、『月の砂漠』は御宿でつくられ、『かなりや』は・・・」と、まずは特別賞の「西條八十」に言及しておりました。
そういえば、青木繁が明治37年の夏、房州富崎村字布良から、友人へと送った手紙のなかにも、こんな箇所がありました。
童謡
「ひまにゃ来て見よ、
平沙の浦わァ――、
西は洲の崎、
東は布良アよ、
沖を流るる
黒瀬川ァ――
サアサ、
ドンブラコッコ、
スゥコッコ、
!!!」
こうして、手紙にわざわざ「童謡」としてカッコして歌詞を引用しておりました。
今日。古本で注文してあった渡邊洋著「底鳴る潮 青木繁の生涯」(筑摩書房)が届きました。そこにこんな箇所があります。
「梅雨明けの雷雨が上がった七月十五日の夕刻、繁、坂本、森田、そして福田ら不同舎の仲間四人は、霊岸島から房総館山行きの船に乗った。絵具箱、画架、床几、衣類など皆それぞれ沢山の荷物を持っている。・・・・・館山の港には午前八時頃着いた。艀(はしけ)で上陸すると、繁たちは海沿いに南へ歩きはじめた。館山町の外れまで来て海際の茶店に寄った。『氷あずき二つと氷水二杯!』繁は奥に向かって大声で叫んだ。森田は早速、青海原と南西海上に見える三原山の噴煙を描きはじめた。森田のスケッチが一通り出来上がったところで、ようやく茶店の婆さんが注文の品を運んできた。『布良まではどのくらいあるかね?』繁は氷あずきを口に含みながらたずねると、『三里はあるでや』と言って、奥へ引込んだ。・・・房総半島南端の布良に着いたのは、日はすでに西の海に没しようとしている頃であった。繁たちは、高島が紹介してくれた柏屋旅館の世話で、小谷という漁師の家に落ち着くことになった。当主の小谷喜六は、布良の網元であるが、好人物で世話好きなところがあり、これまでにもしばしば南房総の海に魅せられてやって来る風雅人たちの面倒を見ていた。」(p79~81)
ところで、朝日新聞千葉支局「房総のうた」(未来社)に「安房節」という箇所がありました。そこに、こんな情景が回想されております。
「昭和十年に、・・・・小高熹郎さん(80)らが安房節振興会を結成して普及に努めた。小高さんは子供のころをこう回想する。『私が十二、三歳のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載した大八車を、手ぬぐいで鉢巻きをした女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走って来た。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く、そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底に残っている』」(p22)
ということで、安房節の引用
あいよおい・・・・
マグロとらせて、
万祝い着せて、
詣りやりたい、
ああ高塚へ
(中略)
ああ港出る時、
ひかれた袖が、
沖の沖まで気にかかる、
ち、ちげねえよ、
そんそこだよ、
島の鳥がおろろん、
ろんかなあえ・・・・・
第十四回山本七平賞発表が掲載されております。
受賞作は北康利著「白洲次郎 占領を背負った男」(講談社)。
その時の特別賞だったのが筒井清忠著「西條八十」(中央公論社)。
ちなみに、選考委員は加藤寛・中西輝政・山折哲雄・養老孟司・渡部昇一・江口克彦。その選考委員の選評が、雑誌に掲載されているのでした。
その選評の最初は加藤寛氏でした。そのはじまり
「私は千葉商大に移って以来、千葉は童謡のメッカだと聞いていた。『証城寺の狸囃子』は木更津で生まれ、『月の砂漠』は御宿でつくられ、『かなりや』は・・・」と、まずは特別賞の「西條八十」に言及しておりました。
そういえば、青木繁が明治37年の夏、房州富崎村字布良から、友人へと送った手紙のなかにも、こんな箇所がありました。
童謡
「ひまにゃ来て見よ、
平沙の浦わァ――、
西は洲の崎、
東は布良アよ、
沖を流るる
黒瀬川ァ――
サアサ、
ドンブラコッコ、
スゥコッコ、
!!!」
こうして、手紙にわざわざ「童謡」としてカッコして歌詞を引用しておりました。
今日。古本で注文してあった渡邊洋著「底鳴る潮 青木繁の生涯」(筑摩書房)が届きました。そこにこんな箇所があります。
「梅雨明けの雷雨が上がった七月十五日の夕刻、繁、坂本、森田、そして福田ら不同舎の仲間四人は、霊岸島から房総館山行きの船に乗った。絵具箱、画架、床几、衣類など皆それぞれ沢山の荷物を持っている。・・・・・館山の港には午前八時頃着いた。艀(はしけ)で上陸すると、繁たちは海沿いに南へ歩きはじめた。館山町の外れまで来て海際の茶店に寄った。『氷あずき二つと氷水二杯!』繁は奥に向かって大声で叫んだ。森田は早速、青海原と南西海上に見える三原山の噴煙を描きはじめた。森田のスケッチが一通り出来上がったところで、ようやく茶店の婆さんが注文の品を運んできた。『布良まではどのくらいあるかね?』繁は氷あずきを口に含みながらたずねると、『三里はあるでや』と言って、奥へ引込んだ。・・・房総半島南端の布良に着いたのは、日はすでに西の海に没しようとしている頃であった。繁たちは、高島が紹介してくれた柏屋旅館の世話で、小谷という漁師の家に落ち着くことになった。当主の小谷喜六は、布良の網元であるが、好人物で世話好きなところがあり、これまでにもしばしば南房総の海に魅せられてやって来る風雅人たちの面倒を見ていた。」(p79~81)
ところで、朝日新聞千葉支局「房総のうた」(未来社)に「安房節」という箇所がありました。そこに、こんな情景が回想されております。
「昭和十年に、・・・・小高熹郎さん(80)らが安房節振興会を結成して普及に努めた。小高さんは子供のころをこう回想する。『私が十二、三歳のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載した大八車を、手ぬぐいで鉢巻きをした女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走って来た。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く、そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底に残っている』」(p22)
ということで、安房節の引用
あいよおい・・・・
マグロとらせて、
万祝い着せて、
詣りやりたい、
ああ高塚へ
(中略)
ああ港出る時、
ひかれた袖が、
沖の沖まで気にかかる、
ち、ちげねえよ、
そんそこだよ、
島の鳥がおろろん、
ろんかなあえ・・・・・