対談は何より分かりやすいのがいいですね。
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)にこんな箇所がありました。
それは太宗の言葉からの連想なのですが、ここでは、気になった箇所だけ引用します。
【渡部】 ・・しかし考えてみると、日本では誕生日を祝わないで命日ばっかり祝っていたんじゃないですか?
【谷沢】 あぁ、そうですね。
【渡部】 わたしの子供の頃に誕生日という観念はなかったですね。むしろ、今日はお祖母さんが死んだ日、今日はお祖父さんが死んだ日と、命日ばっかりでした。そのほうが太宗の感覚には合いますな(笑)・・・・
う~ん。「命日ばっかりでした」というのは、そうかもしれませんね。
それに昔は、数え年で、新年に、皆で歳をとっていました。
読売新聞の読売歌壇2009年2月2日の岡野弘彦選を読んでいたら、
あらためて、年末年始についての歌が並んでいたのでした。
それが初夢・元旦・元朝・歳くるる・・と並んで重層感が味わえました。
ということで、あらためて、このブログにも引用させてもらいます。
岡野弘彦選のはじまりから
またひと日わが近づけば亡きひとも寄りくるものか初夢にみゆ
東京都 佐野はつ子
【評】異色ある初夢の歌として心に残る。
作者は先に逝った大切な人との距離が一日一日近づいてゆくと感じている。
歳が改まる夜は特にその思いが深く、初夢も格別である。
富士の方にむかひて着初めする母より継ぎし元旦の習ひ
古河市 染野光子
【評】初めて聞いた元旦の風習だがなるほどと納得がいく。
富士山の方位に向かって、和服の襟元をきりりと引き締め
元朝の装いをする。富士の見える地方の美しい習わしだ。
雹が降るやまとたけるを打ち据ゑしかの雹がふる。歳くるる夜
大阪市 室内芳月
【評】 歳末の夜の雹(ひょう)と、やまとたけるを死に至らしめた
伊吹山の神の氷雨とを、一首の中で結びつけた所に、詩の力が生まれた。
まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
東京都 根本亮子
光る海わづかに見えて山畑の道はつづけり祖(おや)ねむる墓へ
高槻市 佐々木文子
踏み込めばさくさく音の立つならむ畑いちめん朝霜ひかる
つくば市 丘佳子
亡き夫の倍ながらへて現身は夫の知らざる曽孫とあそぶ
南足柄市 山田和子
エンジンの凍りつく戦車火であぶり酷寒に耐へし上富良野戦車隊
朝霞市 伊東一憲
亡き父の筆とりいだし雨の夜に気を入れて書く三体唐詩
常総市 渡辺守
収穫の直前に雹ふりしとの詫状そへて林檎とどきぬ
藤枝市 北泊あけみ
うん。おもわず、選の10首をすべて引用してしまいました。
そういえば、これら詠っている方は、
どなたも数え年で歳を重ねた世代かと思われます。
さて、この10首のなかに、
まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
というのがありました。
思い浮かぶのは、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)。
そこにこんな箇所があります。
「じっさい、むかしの日本人は元旦の朝早くおきて、家族一同が庭にならんで初日の出をおがんだ。曇りの日も東にむかって拍手をうった。・・ではいったい日本人は、なぜ元旦に太陽をおがむのか?それは元旦が一年の初めだからである。初めの日というわけは、一日の太陽の光がいちばん弱くなる日のつぎの日だからだ。それから太陽は日一日と光を強めていく。」
このあと、科学的には太陽の光がいちばん弱いのは大晦日ではないという具体的な話になるのですが、それは省いて、その次を引用します。
「いっぽう日本人は、律義にグレゴリオ暦をまもって元旦を太陽の復活の第一日と信じ『太陽の成長・変化にあわせて人間も成長する』とかんがえた。かつて日本人の年齢の数え方をみるとわかる。全国民は一月一日にいっせいに一つ歳をとった。数え年だ。つまり元旦は『全国民の合同誕生日』だった。だから正月には全国民がたがいに祝福しあった。子供もお年玉をもらった。それ以外に誕生日をいわう習慣などなかった。個人の誕生日がきても歳をとらなかったからだろう。しかしいまは西洋個人主義にしたがい、すべて満年齢でかぞえるようになった。そこで個人の誕生日が意味をもつようになった。それとともに正月の意味はうすくなった。にもかかわらず、いまなお正月が日本人にとって最大の祝日になっているのは、時代がかわっても日本人の心の奥ふかくに根強い『太陽信仰』があるからではないか?江戸の俳人・向井去来は『正月を出してみせうぞ鏡餅』という句をつくったが、大きくて白い餅は正月のシンボルであるとどうじに太陽のシンボルだった。というのも『鏡』は日本神話で、アマテラスという太陽神の象徴とされているからだ。」(p27~31)
ちなみに、雑学ですが、
岡野弘彦氏は1924年生まれ。
谷沢永一氏は1929年生まれ。
渡部昇一氏は1930年生まれ。
上田篤氏も、1930年生まれ。
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)にこんな箇所がありました。
それは太宗の言葉からの連想なのですが、ここでは、気になった箇所だけ引用します。
【渡部】 ・・しかし考えてみると、日本では誕生日を祝わないで命日ばっかり祝っていたんじゃないですか?
【谷沢】 あぁ、そうですね。
【渡部】 わたしの子供の頃に誕生日という観念はなかったですね。むしろ、今日はお祖母さんが死んだ日、今日はお祖父さんが死んだ日と、命日ばっかりでした。そのほうが太宗の感覚には合いますな(笑)・・・・
う~ん。「命日ばっかりでした」というのは、そうかもしれませんね。
それに昔は、数え年で、新年に、皆で歳をとっていました。
読売新聞の読売歌壇2009年2月2日の岡野弘彦選を読んでいたら、
あらためて、年末年始についての歌が並んでいたのでした。
それが初夢・元旦・元朝・歳くるる・・と並んで重層感が味わえました。
ということで、あらためて、このブログにも引用させてもらいます。
岡野弘彦選のはじまりから
またひと日わが近づけば亡きひとも寄りくるものか初夢にみゆ
東京都 佐野はつ子
【評】異色ある初夢の歌として心に残る。
作者は先に逝った大切な人との距離が一日一日近づいてゆくと感じている。
歳が改まる夜は特にその思いが深く、初夢も格別である。
富士の方にむかひて着初めする母より継ぎし元旦の習ひ
古河市 染野光子
【評】初めて聞いた元旦の風習だがなるほどと納得がいく。
富士山の方位に向かって、和服の襟元をきりりと引き締め
元朝の装いをする。富士の見える地方の美しい習わしだ。
雹が降るやまとたけるを打ち据ゑしかの雹がふる。歳くるる夜
大阪市 室内芳月
【評】 歳末の夜の雹(ひょう)と、やまとたけるを死に至らしめた
伊吹山の神の氷雨とを、一首の中で結びつけた所に、詩の力が生まれた。
まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
東京都 根本亮子
光る海わづかに見えて山畑の道はつづけり祖(おや)ねむる墓へ
高槻市 佐々木文子
踏み込めばさくさく音の立つならむ畑いちめん朝霜ひかる
つくば市 丘佳子
亡き夫の倍ながらへて現身は夫の知らざる曽孫とあそぶ
南足柄市 山田和子
エンジンの凍りつく戦車火であぶり酷寒に耐へし上富良野戦車隊
朝霞市 伊東一憲
亡き父の筆とりいだし雨の夜に気を入れて書く三体唐詩
常総市 渡辺守
収穫の直前に雹ふりしとの詫状そへて林檎とどきぬ
藤枝市 北泊あけみ
うん。おもわず、選の10首をすべて引用してしまいました。
そういえば、これら詠っている方は、
どなたも数え年で歳を重ねた世代かと思われます。
さて、この10首のなかに、
まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
というのがありました。
思い浮かぶのは、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)。
そこにこんな箇所があります。
「じっさい、むかしの日本人は元旦の朝早くおきて、家族一同が庭にならんで初日の出をおがんだ。曇りの日も東にむかって拍手をうった。・・ではいったい日本人は、なぜ元旦に太陽をおがむのか?それは元旦が一年の初めだからである。初めの日というわけは、一日の太陽の光がいちばん弱くなる日のつぎの日だからだ。それから太陽は日一日と光を強めていく。」
このあと、科学的には太陽の光がいちばん弱いのは大晦日ではないという具体的な話になるのですが、それは省いて、その次を引用します。
「いっぽう日本人は、律義にグレゴリオ暦をまもって元旦を太陽の復活の第一日と信じ『太陽の成長・変化にあわせて人間も成長する』とかんがえた。かつて日本人の年齢の数え方をみるとわかる。全国民は一月一日にいっせいに一つ歳をとった。数え年だ。つまり元旦は『全国民の合同誕生日』だった。だから正月には全国民がたがいに祝福しあった。子供もお年玉をもらった。それ以外に誕生日をいわう習慣などなかった。個人の誕生日がきても歳をとらなかったからだろう。しかしいまは西洋個人主義にしたがい、すべて満年齢でかぞえるようになった。そこで個人の誕生日が意味をもつようになった。それとともに正月の意味はうすくなった。にもかかわらず、いまなお正月が日本人にとって最大の祝日になっているのは、時代がかわっても日本人の心の奥ふかくに根強い『太陽信仰』があるからではないか?江戸の俳人・向井去来は『正月を出してみせうぞ鏡餅』という句をつくったが、大きくて白い餅は正月のシンボルであるとどうじに太陽のシンボルだった。というのも『鏡』は日本神話で、アマテラスという太陽神の象徴とされているからだ。」(p27~31)
ちなみに、雑学ですが、
岡野弘彦氏は1924年生まれ。
谷沢永一氏は1929年生まれ。
渡部昇一氏は1930年生まれ。
上田篤氏も、1930年生まれ。