わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

(白光真宏会)本部に行けない人の救われについて

2013-06-20 09:08:10 | 癒し
 (問)本部に行けない人が沢山おられます。
 交通費や色んな事情で、でもこれらの人も
同じ救われがあるかという事について、お伺い
致します。


 (答)それはね、何度も話しているように、
人間というのは肉体だけでなく、色んな体を
持っている自由自在身な訳ですから、本部へ
行く人だけが救われて、練成会で徳を積んで
行くかというと、そうじゃないんです。
 行きたくてもお金が無い、何万円も出せない、
五井先生すみません、と言って下さる地方の
会員の方というのは、実は自由自在身で
もうとっくの昔に誰よりも早く本部に着いて、
お祈り始めてね、印きって、想いを届かせて
光を届かせてやって下さる訳なんですよ。

 そういう点で観れば、実際に肉体で足を
運んでいる人も運んでいない人も皆一緒で、
同じように修行して、同じように光を受けて、
同じように悩んで苦しんで、一歩ずつ
昇って行く。そういう点で、神様というのは
本当に平等なんですね。
 ですから、行かない人は徳が積めないとか、
行かない人は何か疎外されているように思う
とか、そういうことは一切思うこと
ないんですよ。行ける人は、前にも
言ったけれど、行けない人の霊体を
ひっくるめて、全部連れて行っている
と思えばいいんですよ。実際にそうなん
ですからね。

自殺した人の霊について(子供も含む)

2013-06-19 11:08:42 | 癒し
 (問)自殺した人の霊はどうなるか
ということをお教え下さい。


 (答)どこへ行くかということですか。
自殺するって、本当に色んな原因があって、
誰も自殺したくってする人はないんだけれども、
ただ稀に菩薩行で自殺する人があるんですよね。
 全部業を引き受けちゃって、そういう自殺の
場合は、自殺しても苦しい世界に行かないん
ですよ。自分が全部引き受けて死にますのでね。 



 (問)子供なんかどうなんですか。自殺
しますが、あれなんかどう解釈したら
いいのか、又、残された遺族の方については。


 (答)あれは本当にね、菩薩行も
あるけれども、あの多くは、何か遊ばれてね、
色んなものにとり憑かれて死んじゃう
という事あるんですよ。つまり、それこそ
幽界の低級霊なんかに憑依されてね、
あるんですね。

 それはその人が、神様を信じないから
良くないとかそんな事私は言うつもりは全く
ないけれど、結局何故そうなるかというと、
親が子供を本当の意味で愛しているか愛して
いないか、つまり、愛情のすれ違いが
あるのかないのか、そういうところなんですよ。
 気持ちが通い合っているのかいないのかね。
 相手を理解しているのかいないのかという、
そこがすれ違っちゃうと、人間というのは
寂しくなるんですよ。どんな小さな事柄でもね。

 おそらく小学校卒業する位までの子供で、
自殺を考えなかった子供というと、今ほとんど
いない、100人の中99人まで自殺を考えた
という子供が、沢山いるんじゃないかしらね。
 それは異常なことだというんじゃなくて、
人間というのは生きてゆく中で、死んで
しまいたいという事が何度も何度もあって
そこを越えて生きて行く訳ですよね。
 ところがその子供達の場合は、子供でなくて
いいけれども、自殺してしまう人というのは、
そこのところが自分の心にも歯止めが
効かないし、誰も止めてくれないという
絶望感があって、そこで死んじゃう
訳なんですよ。

 それはその人の因縁とか何とか、宗教的
にみれば前生がどうのこうのとあることは
あるけれども、だけれども、そんなんで
片付けられたんじゃあまりにも寂しいわけ。
 それよりは、本当に親が親の役目というか、
親が精一杯子供を向いて、色んな面から子供の
人生を考えて、腹を立てずに見守って、子供は
子供で親にちゃんと伝えてくるのかどうか、
その辺の基本的なところでね、今、親は親に
なってない、子供は子供になっていない、
お互いに影響して非常に悲劇になって
来ていますよね。その辺のところだろう
と思うんですよ。

 だから、想いを放つというか、親が子供に
対して、自分はこれだけお前を見守って
いるんだよという、本当に心配しているんだよ
という、その心が届いていれば子供は
死なない訳ですよ。本当に自分を見守って
くれている人がこの世の中に一人でもいると、
親が駄目なら友達がね、そういう人が居る
と思えば人間というのは死なないんですよね。
 自分が必要な存在なんだと思えば
死ねないんですよ。そこのところが皆、今
ぎすぎすして駄目になって来ているでしょう。
 ですから、まず子供が子供がと言う前に、
子供がどうやって生きていくか不安だという
前に、じゃあ親はその子供に対して、あるいは
親であることに対して、自信を持っていますか
というね、それぞれがみんな自信を持って
生きるという事に対して援助が足りないん
ですよね。お互いにね。自分のとこだけ
良ければよいという、それだと皆が成り立って
ゆかないんですよね。

 だから私は、私のままでいい、貴女は貴女の
ままでいいから、そのままでいいから一緒に
頑張って行きましょうと。それがお互いに、
ああ私はこれでいいんだなという自信をつけて
ゆくということになりますから。ああ有りの
ままでいいんだなという。
 だから、私の言ってる、消えてゆく姿で
世界平和の祈りというのは、その自分なりの
素のまま裸のまま、無一物のまんまでいいから、
後は全部神様が下さるから、そこで人間の
素直な裸の自分を出していく事に恐れないで、
必ず愛情は後にあるんだから恐れないで
という事を言う訳ですよね。

 そういう限定されない神様の愛というものを
皆知っていれば、自殺なんてしないんですよ。
 人間の生命が続いていくということを知れば、
本当に死ぬ人なんて一人もいなくなるんですよ。
 ですけど、一足跳びに宗教というよりは、
まず現実的に親も子供もそれぞれ現場の中で
ちゃんと生きているか、今どうなっているか、
歪んじゃいないか、その辺の所に目配りして
気配りする人が増えてゆけば、隣の子供が
ああいう風に言っていたが、あれはどうなった
だろうという、その想いをあげてゆけばね、
行動しなくても想うだけでも、その光が届いて
行く訳ですよ。そういうまず、心を豊かにする、
気持ちをやわらかくする、そこから始まって
いかないと、これは救いようがないですよね。
 だから、自殺するのはどうしてだろう
というのは、それは寂しくって悲しくって
辛くって仕様がないから、そこでどうしょうも
なくて、自殺しかないんですよね。そこの
孤独地獄から救っていかなきゃいけないん
ですよ、自分も人も。
 それには自分が心豊かに生きるというね、
自分だけがいいというんではなしに、自分が
心豊かに生きるということになれば、まわりも
豊かになってゆく。回り道みたいだけれども、
そこから始まってゆかないと、人間が永生で
永遠の生命を持っていて、明るい朗らかな
神様の生命そのものなんだという所までは、
なかなか行かない訳ですよね。

 ですから、あなたのまわりで、そういう風な
気になる子供とか親とかいたら、ほんの一瞬
でいいから想いを放って上げてね、ああ、
あの人も辛いだろうなあと、それだけで
いいんですよ。それがくい止める事に
なるんですよ。生命を救うことになって
いくんです。

入信の表彰について

2013-06-18 09:08:21 | 癒し
 (問)入信10年20年30年表彰について
ですが、宗教の世界での表彰ということは
いかなる意味があるのでしょうか。


 (答)まあ人間というのは誉められたら
嬉しくって、貶されたらこの野郎って想うのが
人間でね。ただ一つの、何か白光なら白光
というものを信じて、おめでとうございます
というのはおかしな話なんですね。
 10年であろうと5年であろうと1年
であろうと、変わりはないんですよ。確かに
変わりはないんです。

 ところが、何か人間というものの性格の中
には、例えば5年とか10年とかいうのは
一つの区切りでしてね。そこで大きな変化が
あっても無くても、人に誉められなくてもですよ、
そこで10年来たなあとか、どこかで振り返ると。
 例えば、20の人が30になった時にね、
やっぱりああ30になったなあという感慨が
あると思うんですよ。そこでやっぱり
振り返るんですよね。その振り返る時に、
自分の一人だけの想いに浸るとか、自分勝手に
一人よがりに振り返るというのは、なかなか
人間って弱いんですよね。出来にくいんです。
 しかも信仰なんていうものは、それぞれ
神様の話をしても、幽体霊体は別として肉体の
世界に生きている我々だったら、色んな生活を
している人がいますし、色んな環境に生まれて
いる人があるから、神様は愛ですよと
言ったって、愛の受けとり方が人によって
違うんですよ。愛ですよと言ったってなあ
と思う人だっているし、そりゃあその通りだ
と思う人だっているし、その人の状況によって
皆違うんですよね。

 それでもみんな、白光はいいなあと信じて
下さって、あるいは他の宗教でもいい
ですけれど、そこで何年か来た時に、自分の
信仰の歩み、自分が神様というものに出会って
何年か来た、そういう事に対する一区切りが
来た時に、こちらの方からああ10年
経ちましたねご苦労様という、あるいは
表彰状は出さないけれども、1年経ちました
ご苦労様、50日経ちましたねご苦労様
というのは、こっちから幾らでも言って
いるんですよ。毎日言っているんですよ。
 でもそれで表彰状を出していたら、紙が幾ら
あっても足りません。白光が破産しますからね。
 一応5年なり10年なり区切りをつけて
どっかで振り返りたいと思う時に、あんな時に
拍手なんかされたら面映ゆいし気恥ずかしいし、
そんな事いやだと思う人は沢山いるしね、又
そう思う人の中にも、自分なりに10年
振り返り、表彰状をもらわなくても、ああ俺も
10年だなあ、私も10年だなあ20年だ
なんていう人も一杯いると思うんですよ。

 要するに、自分が神様に出会って、その後
どうだったかというのを振り返る場合に、自分
一人で振り返るというより、ああいう中で
皆の中で振り返ると何がいいかというと、皆の
守護霊さんが一緒になって祝福しますからね。
 本当にそうなんです。あそこにいる人たち
だけじゃなくて、それこそ白光の一万何千人の
人達の守護霊守護神さんね、その人達の
ご親族や、本当世界人類の守護霊さんが、
良かったですね一区切りですね、〇〇さん
ご苦労様でしたというのを後ろが言うんですね。
 後ろが言って励ますというね。それは別に
聖ヶ丘に行かなくても、表彰を出さなくても、
こちらから幾らも言ってますし、あの人は
10年だなあ、この人は20年だなあ、次の年で
10年だなあと判る訳です。こっちからは。
 誰かさんみたいに出さなくっても、あそこに
行った人も行かない人も、皆同じように、
守護霊さんが皆寄って良かったですねと
肩をたたいている訳ですね。

 人間というのは、ああいう中で拍手されると、
ああ自分も来たか、こんな晴れがましい
所だけど、という想いが湧きあがって、
又新たに神様の愛の下やっていこうという
区切りがつきますよね。
 そういう意味で、励ますという意味であって、
10年の人を30年の人を特別にして、
その人達だけがおめでとうじゃないんですよ。
 一日の人だっておめでとうございます
ですよね。本当にそうなんです。ただ、
そうやっていたら、皆がみんなやっていたら
本当にどうにもならなくなっちゃうんで、
ああいう形にしてありますけどね。

統一の仕方について

2013-06-17 09:31:31 | 癒し
 (問)統一についてですが、昔五井先生が、
ふんわりととテープでおっしゃっておられますが、
今、講師の先生方の中には、それだけでは
駄目だと、もっと、なんて言いますか…、自力
ではないんですが、もっと光を描いてというか、
そういう風に具体的に指示される方が結構
いらっしゃいますが、その辺はどうなんですか。



 (答)それは正論だとも言えるし、そうじゃ
ないと思う面もありますね。で、正論だと
思うのは、大きな意味から言えば、正論そのもの
なんですよね。何故かというと、人間というのは
光そのものなんですよ。ですから、自分が
光そのものだ、神様の子供だ、神様から来ている
生命だということに気がついて、そこへずっと
本心に呼びかけてゆけば、何でも出来るんです。
 人間というのは、全知全能の神の流れを
受けて生きているものですからね。

 ところが、色んな現実などにぶつかって
いったら、なかなか人間の神性を
引っ張り出すってことは出来ないんですよ。
 ですから、南無阿弥陀仏がありアーメンが
あり、私の世界人類が平和でありますように
という祈りがあって、消えてゆく姿がある訳
なんです。私が生きている時には、全部引き受け
ますからふんわりしていらっしゃいっていうのは、
それは変わりないんですけれどもね。
 ただ人類が本当の意味で進化していく為には、
みんな本当に光輝く本心をもっているんだ
ということを、一人一人が強くどっかで感じて
信じていかないと、いくら私が本の中で
いい事を言っても、原稿に書いても、ああ
いい話だけど私には出来ないなあと思って
しまうと、そこで成長が止まるんですよ。
 そういうものが自分の中にもあるんだなあ、
光の粒が自分の中にも沢山入っているんだなあ、
神様というものがつまりにつまっているん
だなあ、自分は神様の場所なんだなあと
思うとですね、そこで〇〇〇〇や〇〇〇〇
という個人を越えて、神様の場所になって、
その時働きの場所になる訳です。例えば、
印を切ることであったり、書を書くこと
であったり、色んな事であったりする訳
なんだけど、それを通して光り輝いていって、
その光がまわりに満ちてくる、そういう事
なんですね。

 だから、講師の先生が言ってる、それだけ
じゃあ駄目なんだよというのは、自分の中に
そういう生命があるという事を気づかなければ
駄目なんだよという、そういう事でも
あるんです。だから、言葉尻を捉えて、あれは
おかしいんじゃないのかなあ、あれは
五井先生が昔ああ言っておられたけど
というのは、それはそうでもあるし、今は
それだけでは足りなくなって来ている
というのも事実なんですよ。ただ、それを、
お前達はこうしなければ駄目なんだよ
という風なひびきで言ったとしたら、それは
間違いなんですよね。

 こうしなければ駄目っていうのは神様の世界
には無いんですよ。ただこうしていった方が
人類の進化にとって、一人一人の進化にとって、
人間の神性の進化にとって絶対に必要な事
なんですよと。つまり、愛念に満ちた言葉で
伝えていかないと、反発とか寂しさとか、
自分はとっても出来っこないとか思って
しまうのでね、その辺の指導の仕方が非常に
難しいですよね。その人個人に呼びかけながら、
その人の幽体霊体神体にまで呼びかけて、皆で
協力して通すということは、神の所へ昇って
行く道筋だから、そこに何か不調和な想いが
出たらそれだけ皆苦しむ訳ですからね。
 その所で、祈り心を一つにして、とに角、
世界人類の中に自分の想いを溶け込ませる。
 そうすると平和になっていく訳ですから、
そこの所に想いを集中して、その想念を
明るくしてやっていくこと、これが大事
なんじゃないですかね。

老人の生き方について

2013-06-16 10:16:36 | 癒し
 (問)老人の生き方についてお尋ねします。



 (答)この頃は、若い人があんまり長く
生きたくないとか言う人が多いですよ。
 誰かさんもどこかでそんなことを言ってた
けれども、何で生きたくないかというと、
どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、
体が弱くなってくるという、それを認めて
いかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的な
ものの衰えというものを認めてゆかなければ
ならない。つまり、記憶もなんか悪くなって
きたとか、そういうマイナスの部分を認めて
ゆかなければいけない。だから切なさとの
戦いですよね。本当にそうなんです。60に
なったら60になった途端全部忘れて
しまっちゃって、今聞いたこと全部
忘れちゃって、又最初から読まなけりゃ
ならない、人の話も又最初から聞かなけりゃ
分からないというようになるんですよ。
 本当にそうなるんですよ。70になったら
もっとひどくなるんですよ。皆そうなんです。
 で、その一つ一つがね、自分にとって
恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の
心が失せてしまう訳で、その寛容でなくなる
というのは、これはその人の性格という
よりも、その人の生きて来た年令がもたらす
生理的なもので我慢できない。気を長く
しようと思っても、その人のその時の体力
とか生活状態とか色んなことで、生理的に
もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃう
とかね、そういうことがあるんです。
 そういうものが正しく自分自身である
という風に、ある一瞬間でも見なければ
ならない。それが随分辛いんですよね。
 それが恐怖になってゆくんです。それは
60に70になった人が恐怖だというよりも、
20代でも30代でも40代でもですね、
ああこの辺が我慢できなくなっているなって
いうことになると、人間って愕然となる
ものですよね。結局のところそのあたりの
ことなんですよね。
 それでは、生きてゆく限り皆老人になって
いく訳ですから、老いていくということを
どういう風に考えて生きて行くか
ということはこれは永遠の課題なんです。
 けれどね、生きるということは結局、
生かされているということなんですよね。
 自分が生きるというよりも万物に
生かされているというね、その生かされて
いるところへ自分の意識をもっていくと、
それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
 祈りによって感謝になってゆく。とても
感謝しきれない事もあります。悔しい事も
情ない事も生きている内に色々ありますよね。
 ただ感謝しなけりゃいけない、いけない
いけないと思って、無理に感謝していくと
今度は病気になりますよね。ですから、私が
そのまま悔しい事悲しい事をお祈りの中へ
入れなさいと言うのはね、ありがとう
ございますと言うのが言い難い、言い
難ければ、それはそのままで、五井先生
お願いします神様お願いしますと言えば、
守護の神霊がそのまま祈って下さる
訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の
祈りですから、ああいいなあと思っている。
 ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは
難しいなあと思う筈なんですよ。つまり、
すべてにありがとうございますでしょう、
ありがとうございますどころじゃない
気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、
息子とうまくいかない、孫が自分と離れて
いく、子供が自分の思うような方向に
いかないと、自分が生きて来た人生は
何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、
そのありがとうございますと言えない部分が
増えてゆく訳ですね。だけれども、それが
何故そうなってゆくかというと、その人が
生きて段々歳を重ねていって、人生
というのは一面から観れば、喜びや楽しみ
よりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
 ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたら
いいのかというと、それでも生命というのは
生きる事を止めないという、その事実
なんですよね。みんな生命というものは、
一つとして、この人の生命は要らない、この
草木の生命は要らない、この大地の地球霊王の
生命は要らないというものは何一つとして
ないんですよ。神様の目から観ると。
 この人は有用で尊い高い魂だから、
こういう人には生きててもらわないと、
優れた人を見ると皆そう思いますよね。
 ですけれども、黙って意見も言わない
ような、居るか居ないか分からないような
人を見ていると、なんか尊敬する気にも
なれないし、その人が何十年も生きていると、
何をうすぼんやり生きているんだろうと、
別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。
 ところがね、こっち側から観ていますと、
さっきの話の続きじゃないけれど、やっぱり
誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。そういう人程ね、つまり、
何も主張せずぼんやり生きているように
見えるけれども、その中の火は燃えている
というような人、その人程本当に素直に
生かされている、生命のままに流れのままに
生きるということになるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、
自分の経験によって生きて来た世界によって、
虚しさの方が多いじゃないかと観てしまい
ますからね、そこで負けてしまうんです。その
自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。
 で、それを跳ね返す力が弱くなるん
ですよね。ところが老人というのは、人間世界
から観た年令のことであって、これが魂の側
から観れば、魂の古い新しいはありますが、
しかし、生まれてくる生命の中には古い新しい
というものは無い訳です。みんな同じ資質
といいますかね、神の性といいますか、違いは
ありますが、そういうものを持って生まれて
来ているんですよ。だから、この世的に
60になろうが70になろうが、その人の魂が、
やっぱり自分は生かされてる、体が動かなく
ても、何かしたい何かやりたい何か役に
立ちたいという風に思っている限りは、
その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
難しいのは、老人というのは、我というのが
強くなるんですよね、自分の生きて来た
経験ではこうだからこうじゃないか、これは
間違っている、これはおかしい
と思うんですよ。無理はないんですけれど
そうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいて
それを直してゆくということは、なかなか
難しいんですよ。それが凝り固まってゆくと
意固地になり頑固になり、喧嘩ばかり
しているというようになる。そこに、
自分一人じゃない、自分は生かされている
という想いがあるということになってくれば、
自分だけの世界に閉じこもらないで、
歳とっても、もっと広い神様佛様の光の
世界があるということになってくれば、
本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
 だから何も宗教だけがいい訳じゃないん
です。広い意味で、いい音楽を聴いても
いい絵を観ても、いい本を観て感激する感動
するということは、それだけ心が若くなって
心寛やかになってくる。それは宗教と同じ、
根は同じなんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という
人に出会って、そこから神様という階段を
昇り始めた人達というのは、それで尚かつ
歳をとっている人というのは、何に気をつけ
なければいけないかというと、自分が素直に
なるって事と我を出すっていう事の違い。
 そこを区別してゆくのはとても難しい
けれどね。素直になるというのは、ただ単に
自分の思うように生きたらいいというもん
じゃないんです。これは若い時から気をつけ
なければいけないんだけど、思うように
そのまま生きていったら皆我が儘に
なるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、
私はよく書きますけれど、その神様から来る
流れの中では色んなものがあるんです。
 調和しているものもあれば、一見して
不調和のものもある訳です。大波小波も
ある訳なんです。だから、流れのままに
生きる事は、その大波小波に覚悟して
いけますよという、そういう事なんですよ。
 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
していると、悪いとみえるような事があった
時に、何で神様がいるんだろう、何で佛様が
いるんだろうになっちゃうんです。ところが、
その流れというのは、本質的には人間を
良くしよう、もっと調和させてやろうという
神様の心ですからね。それに本当に
乗っかって任せきっていればですね、必ず
光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
 そこの所で、ああ本当に私は生かされて
いる、本当に祈りがある、本当にここで
任せて任せて任せ切っていったら、自分の
生命が開くんだっていう風に信じ切って
下さればね、そこで人間の持っている老人の
持っている我なんて、ふっ飛んじゃうん
ですよね。70幾つの人が生きてる、
60幾つの人が生きてるというよりも、
その人の天命自身が輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、
あくまで神様に素直になるという事
であって、自分の我がでてくるという事
じゃないですよね。ただそれだけに私生活が
非常に難しい。だから、自分が非常に腹が
立ったり切なかったりした、そういう
気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
なのかなあ、それとも神様から来ている
流れの中で覚悟しろということなのかなあ、
ということを考えながら、世界人類が平和で
ありますようにとやってゆくと、お祈りの
中にこめられてる愛念がですね、そりゃあ
お前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えて
くれますよ。自分が考える事じゃ
ないですよね。後ろが教えてくれますから、
自分が想い悩み始めたなと思ったら、とに角、
祈って、五井先生に聞いて神様に聞いて、
これどっちなんでしょうと、こっちに預けて
くれたらですね、こっちがものすごく
知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これは
どうなんだろうか、ああなんだろうかと
想い悩んで、あれはおかしいこれはおかしい
となっちゃうんです。あれはおかしい
これはおかしいという事は、神様の世界には
一つとしてないんですよ、完全ですからね。
ですから、あれはおかしいこれはおかしい、
これは苦しいですよ先生、という時には
こっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。
 まだみんな駆け込み方が足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人も
ひっくるめて、生命に素直になって
生きるっていうことは大変なことですけれど、
そこを目指して、光に満ちた人が出来上がって
いくように、こっち側から応援していますから、
そんな風に生きていってもらったらと思います。