わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

死とは何か

2010-08-11 15:32:45 | 癒し
 肉体の死で、人間の生命が終わるものであるなら、

神様というものは、何のために存在しているの

という事になるのであります。

 いつも、私が申しますように、神様というのは、

宇宙の大生命のみなもとである。人間ばかりではなく、

この地上のすべてのものにも、その神様の愛の秩序

というものが施されている。


 生命というものは、無限であって、生命はそれ自身、

ほがらかにあたりを照らす無限のものの存在である。


 こういう生命、生命の源である神様の性質といいますか、

本質、本体を考えてゆきますと、とても、この肉体が

終わるだけで、つまり、我々のいのちが、肉体をはなれる

だけで生命というものが、絶える、なくなってしまう

ということはあり得ない。

 そんなことは考えられないというより、そんなことは

ないといった方が本当なのであります。


 それでは、何のために、我々人間は、この肉体を借りて

生きてゆくかといえば、それは、神様の愛の心を知るため

なのであります。

 この世のなかで、色々辛いことがある。淋しいことがある。

 何でこんなとおもうことがある。けれども、それらを

通して、つくづくと、心の機微というものを知ってゆくので

あります。心の機微を知ることによって、我々はやさしさを、

思いやりを、愛を知るのであります。

 何故ならば、神様は愛だから、大愛だから。神様の愛

というものは無限。もう宇宙のすみずみまで愛で満たしている。

 私どもはその愛の気を受けた子供なのです。いのちなのです。

 ところが、肉体というものを自分自身だと勘ちがいした人間が、

そこで迷いましてね、うんと迷って、迷いながら、今日まで

来たんです。


 元々、人間というのは霊そのもの、光そのものの存在

なんですが、肉眼でみる世界が、この世だと思い込んじゃった

ものだから、だから、死ぬと、つまり、肉体を滅してしまうと、

それで終わりなんておもってしまっている。

 とんでもない間違いです。

 人間というのは、永遠のいのちに生きる存在です。身体だって、

何十という体を持っているんです。


 この世の波動では粗すぎて、とらえられませんけれども、実に

微妙に、霊妙に出来ている。奥の奥に、いくつも身体を持って

いるんです。そうして、その奥の奥の体を訪ねてゆきますと、

遂には、光明体そのものの身体に突き当たる。そこが本心の世界

です。

 この本心、光明体の光を受けて、我々のいくつもの体は

養われている。そして、心は、まっすぐ神様につながって

いるんだけれど、かなしいことに、長い間に我々人間は

迷っちゃったから、なかなかまっすぐゆかないんです。素直に

神様って呼べないわけ。


 そこでいろんな聖者が出て、そして最後に私が来たんです。

 五井先生って人が来てね、世界平和の祈りっていうものを

神様からいただいて、そして、それを皆さんにこうやって

教えてるの。

 死ぬまで教えて、死んでも、こうやって教えている。

 何故か? 法身だから、自由身だから。

 そうでしょう。皆さんだって死にゃあ一ぺんに分かります。

 自分の体が自由身だってことがね。法身、法のからだだって

ことがわかる。

 法っていうのは、つまり、宇宙の大法則にとらえられた体

ということですよ。

 それは何かって言えば、神様の愛ですよね。大愛。


 私は、お前のいのちはもらうぞって言われた時、

はいよろしゅうございますっていって、いのちをすっかり

返しちゃった。神様にね。

 だから、我だとか何だとか、ややっこしいものは

すっかりなくなって、スッキリ生きることが出来たんです。

 で、今の状態をいいますとね。そうやって、きよめて下さった

私のいのちが、すっかり、宇宙神のなかに、大我のなかに

回帰して、帰一してね。神様ととけ合って、それでこうやって

しゃべってるんです。愛に抱かれたいのちなんですよ。それが

法(のり)のいのちということ、法の身体、法身ということなんです。


 あるがまま、なすがままね、おいお前、一寸しゃべってこい、

そうですかってんで、私は神様のところから来てこうして

しゃべってる、ね、自分がしゃべろうなんて思わないんだ。

 だってもう、神様のなかに溶けてるんだもの。宇宙の一部として

しゃべってるんだもの。


 誰にお仕えするというでもない。分かります? 何のわくもない

ところから、今、私はからっぽになってしゃべってるんですよ。

 だから、愛というもののありがたさがわかるんです。愛

というものがなければ人間絶対に生きてゆけないということが、

今、余計に分かるんです。


 老いたヨハネが、晩年に涙をためて、どうかみんな

愛し合ってくれ愛し合ってくれといったというんですけど、

それは本当です。真理の言葉です。

 憎しみやおそれからは何も生まれない。けれども、愛は、

すべてを生かすんです。あらゆるものを生かすんです。

 生かさずにはおかないんだ!

 何故なら、それが、愛こそが神のこころだから。

 我々は、みんなここに立ち返るべきなのです。

 その使者として私が来たのです。昌美がいるのです。

 白光真宏会があるのです。我々はさきがけなのです。愛する

ということが、どんなに大事で、どれ程の大きな力を発揮する

ものかということを、宇宙の兄弟たちとともに、この地球に

生きる人類の一人一人に知らせてゆくさきがけなのであります。

 その為には、自分を、人を愛し、自分を、人をゆるしてゆく、

そういう生き方に徹しなければなりません。

 
 器になるというのは、この神のこころを知り、神のこころに

従うということであります。本心をたずね、祈りを重ねてゆく

ということである。

 我々は、色んな役割を与えられている。けれども、それは

役割であって、その人の本質ではないのであります。

 人間の本質は、あくまで、愛とゆるしとやさしさなので

あります。愛とゆるしとやさしさという神の光を受けて、

我々はこの世に生れて来たいのちなのでありますから・・・


 俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことをしたら俺は

どうなる、あの人はどうなる。少くとも、祈りを知る者は、

そういう我の世界に自分を閉じ込めてはなりません。


 神様というのは明るいいのちなのであります。我々は、

そのいのちを、今、一人一人うけて生かされている神様の

子供なのであります。

 神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、この

いのちが、肉体の死を超えて、神の心である大愛へと

つらなっているものであることを、理解することが

できるのであります。


 我々は、祈り祈り、又、祈り祈り、祈りつくして、

光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆく為の

さきがけなのであります。

                   五井 昌久