宇宙の真理というのは、決して複雑なもの
ではありません。
縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、
素直にその中に溶け込めばいいのです。
しかし、肉体人間の想念が、中々光そのもの
である神の愛に溶け込ませにくくなっている。
それだけ世の中が物中心になり、
こころ=神様が忘れられた現代といえましょう。
しかしながら、この世の中のすべての顕れは、
実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に
眠らされている、光としての真性を
よびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界
となり、神界となるのであります。
宗教家の中には、説教はしてもあの世は
信じないという人々が存在しますが、人間の
内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、
あるいは、神仏の加護による永世への
みちびきを、心に感じることがなければ、
真に人をみちびき、人を救うということは
不可能であります。
私のいうそうした援助を、心に感ずる
というのは単なる観念や、人間の弱い憧れ
ではありません。
人を愛し人を導き、更に、救いにまで
及ぶためには、無私、無我の愛、言葉を
かえていうなら、無限定の愛が土台と
ならなければなりません。どんなに愛に富み、
誠実をつくしても、人が人を愛するという
枠の中だけで、愛や祈りの実践─無限の
実践─は出来るものではないのであります。
そこに永遠者への眼というものを
持たなければ、とうてい、人の力だけで、
いわゆる愛や救いは成し遂げられるものでは
ありません。
もっと話を飛ばしていえば、本来人間を
動かしている力─行為の土台─は、
この無限の愛から来るのであります。
時代が移り、社会が発展を遂げる中で、
人は、段々に、この自分をつらぬき
突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は
死んだと迄言わしめたのでありましたが、
神の愛、無限の愛というものは、そんな
浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去る
ものではないのであります。
肉体を持っていますと、生活に追われ、
人間関係に疲れ、神の愛などというものに
心を向けるには、あまりにも心がゆとりを
持てなくなってしまうのですが、たとえ、
この身と心がどんな状態におちいっても、
さん然とかがやきを失わず、海のように
深いみ心を持っているのが神の愛なので
あります。
人間が霊止(ひと)であったところまで、
私どもは帰らなければなりません。
実際をいえば、本源の心は、あらわれよう
あらわれようとして、私どもに合図を送って
いるのですけれど、永年の思いグセがそれを
押しとどめているといったかっこう
なのであります。
ここまできますと、神様と、人間の想念の
いたちごっこに終わるのではないかとさえ
思われるのですが、ここに至って真の宗教者、
真の人間が、朗らかなかがやく神の愛を
呼び覚ます源を与えられていることに、
ほん然と気付くのであります。その源、
その光とは、神への祈りに他なりません。
はじめは、やり場のないかなしみや、
苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ
不自由ななかで、神に向かっての叫びを
挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に
向けられる(人のまなざしが)ということが、
光の源である神にとっては、むしろ、その
一人一人の運命と愛念をおくりやすく
なるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、
苦労を、ただのがれたいともがき、神に
むかって、恨みつらみをいう私ども人間の
計算では、計ることのできない神のみ心
なのであります。
いつも説いておりますように、神という
ものは、絶対の愛でありまして、人間
一人一人はその神の愛し児であり、神の
分生命(わけいのち)なのでありますが、
その人の生まれた環境、又、育ち方、それぞれ
によりまして、天から与えられた賜物
とは別に、前に述べました、思いグセが、
その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、
中々これがやっかいなものなのであります。
神様は、そうした人間一人一人のクセを全て
御存知で、み心のなかに、その人の天命が
溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところに
いだかれて、一体となるまでには、何を
のぞかなければならないか、又、どこで、
いわゆる運命の修正をさせる為に、修行を
させ、人と会わせ、よろこびや、かなしみを
与えて、その霊なる命が成長してゆくように
仕向けなければならないかということなどを、
全て御存知なのであります。しかも、人一人の
天命が完うされるというのは、一生や二生の
ことではなく、何百生をかけてのことであって、
そこを全て御覧になった上での愛念の発揮
であり、それを助けるものが祈りであって、
その祈りが生きる為には、時々に、神に
対して恨みの声を挙げることをも、御承知の
上でのことであることを知る必要があります。
恨みや、そねみが、一時的にその人を
とらえ、業想念がその人をとりまいたと
しても、永遠の真理の眼からみれば、それは、
真の祈りに昇華させ目覚めさせる為の
第一段階であるのであります。
そこで、実相は今私が申し上げたとおり
なのですが、かっての古代の人々のように、
神様と二人というような純朴な信仰心、
神への眼を、科学が発達し、人間に与え
られた理性を、過度に信頼し、遂に、信仰
するに迄至っている今日の社会に生きる
人々に、こうした往相と還相とを
むずかしい言葉で説いたところで、それは、
一つの哲学としてのみ心に消化されるのが
精一杯なのであります。
元来、祈り心というものは、無邪気な
単純な明るいものなのですが、思想、哲学
としてとらえられてしまっては、それは、
あくまで人間の枠を出ることは出来ません。
そこで、こうした現代に生きる人々にも、
やさしく真理の奥義を説き、しかも、誰の
心をも納得させて、本心開発へと導き、神の
光の一筋としての本体を自覚させる祈りが、
私の提唱する“世界人類が平和であります
ように”という言葉にはじまる祈り言
なのであります。この祈りには、よこしまな
私の思い、下手な思想などというものの入る
スキは全くありません。
無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の
心へとみちびきとけ込み入らせる祈り
なのであります。そうして、没個性という
のでは更になく、一人一人の人のこれらの
何十生、何百生の思いグセは思いグセの
ままで、ありのままに、祈ることを御心
とした祈りなのであります。
私が、祈りは、天界へのきざはしなのだ
というのは、ここのところを指すので
ありまして、一人一人の親である神様は、
その子どものそのまま、あるがままを
抱きとって、そうして魂を高め、次の高い
世界へと高めて下さるわけなのです。
この叫びにはじまる神への心、神への
まなざしが、やがて、いつの間にか光の
一筋となり、神の助けによって、神界(縦)
からの光と、神の子人間(横)私達の光が
さわりなく、交わります時、縦横十字の神の
絶対の愛がかがやくということ
なのであります。
昭和61年7月7日
昌 久
ではありません。
縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、
素直にその中に溶け込めばいいのです。
しかし、肉体人間の想念が、中々光そのもの
である神の愛に溶け込ませにくくなっている。
それだけ世の中が物中心になり、
こころ=神様が忘れられた現代といえましょう。
しかしながら、この世の中のすべての顕れは、
実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に
眠らされている、光としての真性を
よびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界
となり、神界となるのであります。
宗教家の中には、説教はしてもあの世は
信じないという人々が存在しますが、人間の
内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、
あるいは、神仏の加護による永世への
みちびきを、心に感じることがなければ、
真に人をみちびき、人を救うということは
不可能であります。
私のいうそうした援助を、心に感ずる
というのは単なる観念や、人間の弱い憧れ
ではありません。
人を愛し人を導き、更に、救いにまで
及ぶためには、無私、無我の愛、言葉を
かえていうなら、無限定の愛が土台と
ならなければなりません。どんなに愛に富み、
誠実をつくしても、人が人を愛するという
枠の中だけで、愛や祈りの実践─無限の
実践─は出来るものではないのであります。
そこに永遠者への眼というものを
持たなければ、とうてい、人の力だけで、
いわゆる愛や救いは成し遂げられるものでは
ありません。
もっと話を飛ばしていえば、本来人間を
動かしている力─行為の土台─は、
この無限の愛から来るのであります。
時代が移り、社会が発展を遂げる中で、
人は、段々に、この自分をつらぬき
突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は
死んだと迄言わしめたのでありましたが、
神の愛、無限の愛というものは、そんな
浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去る
ものではないのであります。
肉体を持っていますと、生活に追われ、
人間関係に疲れ、神の愛などというものに
心を向けるには、あまりにも心がゆとりを
持てなくなってしまうのですが、たとえ、
この身と心がどんな状態におちいっても、
さん然とかがやきを失わず、海のように
深いみ心を持っているのが神の愛なので
あります。
人間が霊止(ひと)であったところまで、
私どもは帰らなければなりません。
実際をいえば、本源の心は、あらわれよう
あらわれようとして、私どもに合図を送って
いるのですけれど、永年の思いグセがそれを
押しとどめているといったかっこう
なのであります。
ここまできますと、神様と、人間の想念の
いたちごっこに終わるのではないかとさえ
思われるのですが、ここに至って真の宗教者、
真の人間が、朗らかなかがやく神の愛を
呼び覚ます源を与えられていることに、
ほん然と気付くのであります。その源、
その光とは、神への祈りに他なりません。
はじめは、やり場のないかなしみや、
苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ
不自由ななかで、神に向かっての叫びを
挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に
向けられる(人のまなざしが)ということが、
光の源である神にとっては、むしろ、その
一人一人の運命と愛念をおくりやすく
なるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、
苦労を、ただのがれたいともがき、神に
むかって、恨みつらみをいう私ども人間の
計算では、計ることのできない神のみ心
なのであります。
いつも説いておりますように、神という
ものは、絶対の愛でありまして、人間
一人一人はその神の愛し児であり、神の
分生命(わけいのち)なのでありますが、
その人の生まれた環境、又、育ち方、それぞれ
によりまして、天から与えられた賜物
とは別に、前に述べました、思いグセが、
その人の個性の中に、一見深く喰い込んで、
中々これがやっかいなものなのであります。
神様は、そうした人間一人一人のクセを全て
御存知で、み心のなかに、その人の天命が
溶け入り溶け込み、遂に大神様のふところに
いだかれて、一体となるまでには、何を
のぞかなければならないか、又、どこで、
いわゆる運命の修正をさせる為に、修行を
させ、人と会わせ、よろこびや、かなしみを
与えて、その霊なる命が成長してゆくように
仕向けなければならないかということなどを、
全て御存知なのであります。しかも、人一人の
天命が完うされるというのは、一生や二生の
ことではなく、何百生をかけてのことであって、
そこを全て御覧になった上での愛念の発揮
であり、それを助けるものが祈りであって、
その祈りが生きる為には、時々に、神に
対して恨みの声を挙げることをも、御承知の
上でのことであることを知る必要があります。
恨みや、そねみが、一時的にその人を
とらえ、業想念がその人をとりまいたと
しても、永遠の真理の眼からみれば、それは、
真の祈りに昇華させ目覚めさせる為の
第一段階であるのであります。
そこで、実相は今私が申し上げたとおり
なのですが、かっての古代の人々のように、
神様と二人というような純朴な信仰心、
神への眼を、科学が発達し、人間に与え
られた理性を、過度に信頼し、遂に、信仰
するに迄至っている今日の社会に生きる
人々に、こうした往相と還相とを
むずかしい言葉で説いたところで、それは、
一つの哲学としてのみ心に消化されるのが
精一杯なのであります。
元来、祈り心というものは、無邪気な
単純な明るいものなのですが、思想、哲学
としてとらえられてしまっては、それは、
あくまで人間の枠を出ることは出来ません。
そこで、こうした現代に生きる人々にも、
やさしく真理の奥義を説き、しかも、誰の
心をも納得させて、本心開発へと導き、神の
光の一筋としての本体を自覚させる祈りが、
私の提唱する“世界人類が平和であります
ように”という言葉にはじまる祈り言
なのであります。この祈りには、よこしまな
私の思い、下手な思想などというものの入る
スキは全くありません。
無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の
心へとみちびきとけ込み入らせる祈り
なのであります。そうして、没個性という
のでは更になく、一人一人の人のこれらの
何十生、何百生の思いグセは思いグセの
ままで、ありのままに、祈ることを御心
とした祈りなのであります。
私が、祈りは、天界へのきざはしなのだ
というのは、ここのところを指すので
ありまして、一人一人の親である神様は、
その子どものそのまま、あるがままを
抱きとって、そうして魂を高め、次の高い
世界へと高めて下さるわけなのです。
この叫びにはじまる神への心、神への
まなざしが、やがて、いつの間にか光の
一筋となり、神の助けによって、神界(縦)
からの光と、神の子人間(横)私達の光が
さわりなく、交わります時、縦横十字の神の
絶対の愛がかがやくということ
なのであります。
昭和61年7月7日
昌 久