何よりも大事なことは
愛するという
ことであります。
自分愛し、人を愛するという
ことであります。
この愛のなかに
神のすがたがあり
神の本質があるので
あります。
私どもは、神から分けられてきた
いのちでありまして
神の光、ながれ(いのちのながれ)を
受けて生きているのでありますが
そのながれの大元は
この愛であり、愛するという
行為であります。
ところで
愛と申しますと
先ず、うかびますのは
父母の子どもに対する
愛でありましょう。
私なども
母の深い愛念のなか
こうして生きて参ることが
できたのであります。
全く
父母の子に対する愛というものは
理くつではありません。
それは
見守り、育て、抱く
無償の愛であります。
ところが
近頃の世の中をみておりますと
しばしば、この父母の愛というものが
伝わりにくくなっている。
それだけ、せち辛くなっている
ということもありましょう。
けれども実は
父親なり母親である人達が
子どもにそそぐ愛の
そのそそぎ方といったものを
勘ちがいしていることが
多いのであります。
しばしば、盲目の愛に
なってしまっている。
盲目の愛と、自然
無償の愛というものを
とりちがえているのであります。
勿論、親の愛というものは
りくつではありません。
りくつといったものを
超えた愛である
流露されてくる愛
であります。
けれども
申しましたように
親の愛というものは
そういう
自然に流露されてくる
愛ばかりでは
親の愛になって参りません。
子どもを
見守り、育て、抱くという
この三つの相(すがた)が
自然な愛情のなかにあってこそ
親の愛なのであります。
子どもの何をみるのか
育てるのか、抱くのか
それは、その子が
どんな性質の子であるのか
ようくみて
叱るべき時には叱り
ほめるべき時にはほめてやる
そうして
助走してやる
ということなのであります。
そうして
私はお前のことを
愛している
だから心配するなという
心でもって
いつも子どもをみてやる
ということなのであります。
これが
抱くということなのであります。
抱き放しの親がいたり
育てることばかりに
夢中になっている
親がいたりして
私のところになんかにも
守護霊守護神が
五井先生お手上げですと
相談にきたりしますけれども
ここのバランスが
とれていないことが
多いんです。
愛するということは
盲目ではありません。
盲目ではつとまって
まいりません。
見守り、育て、抱く
この三つの相(すがた)が
溶け合った愛こそ
神様の愛
なのであります。
私どもは
この神様の愛によって
はぐくまれてきた
子どもなのであります。
私は神様じゃない。
だから、そんな上等な愛を
子どもにもまわりにも
抱けない、なんて
いう人があったら
それは、つねに
私の申します
卑下高慢なので
あります。
なぜなら
私どもは
神から分れてきた
いのちなのですから
この神の愛は
ずっとずっと
天命を果たしおえるまで
私どものなかに
ふりそそがれているもの
なのでありますから。
私どもが愛するのではない。
先ず、神が
私どもを愛して下さって
いるのであります。
この身の何もかもを
一度、神にお返しして
任せて、そうして祈りつつ
わが子への
また、まわりの人々への
愛とやさしさを
たくわえてゆくべき
なのであります。
もう一度申します。
私どもは
無一物なのです。
凡夫なのです。
その凡夫(肉体我)である
私たちは
大元の神の愛へと
回帰してゆく時
いのちあらたに
生きてゆくことが
できるのであります。
世界人類が平和でありますように
合掌
昌久
愛するという
ことであります。
自分愛し、人を愛するという
ことであります。
この愛のなかに
神のすがたがあり
神の本質があるので
あります。
私どもは、神から分けられてきた
いのちでありまして
神の光、ながれ(いのちのながれ)を
受けて生きているのでありますが
そのながれの大元は
この愛であり、愛するという
行為であります。
ところで
愛と申しますと
先ず、うかびますのは
父母の子どもに対する
愛でありましょう。
私なども
母の深い愛念のなか
こうして生きて参ることが
できたのであります。
全く
父母の子に対する愛というものは
理くつではありません。
それは
見守り、育て、抱く
無償の愛であります。
ところが
近頃の世の中をみておりますと
しばしば、この父母の愛というものが
伝わりにくくなっている。
それだけ、せち辛くなっている
ということもありましょう。
けれども実は
父親なり母親である人達が
子どもにそそぐ愛の
そのそそぎ方といったものを
勘ちがいしていることが
多いのであります。
しばしば、盲目の愛に
なってしまっている。
盲目の愛と、自然
無償の愛というものを
とりちがえているのであります。
勿論、親の愛というものは
りくつではありません。
りくつといったものを
超えた愛である
流露されてくる愛
であります。
けれども
申しましたように
親の愛というものは
そういう
自然に流露されてくる
愛ばかりでは
親の愛になって参りません。
子どもを
見守り、育て、抱くという
この三つの相(すがた)が
自然な愛情のなかにあってこそ
親の愛なのであります。
子どもの何をみるのか
育てるのか、抱くのか
それは、その子が
どんな性質の子であるのか
ようくみて
叱るべき時には叱り
ほめるべき時にはほめてやる
そうして
助走してやる
ということなのであります。
そうして
私はお前のことを
愛している
だから心配するなという
心でもって
いつも子どもをみてやる
ということなのであります。
これが
抱くということなのであります。
抱き放しの親がいたり
育てることばかりに
夢中になっている
親がいたりして
私のところになんかにも
守護霊守護神が
五井先生お手上げですと
相談にきたりしますけれども
ここのバランスが
とれていないことが
多いんです。
愛するということは
盲目ではありません。
盲目ではつとまって
まいりません。
見守り、育て、抱く
この三つの相(すがた)が
溶け合った愛こそ
神様の愛
なのであります。
私どもは
この神様の愛によって
はぐくまれてきた
子どもなのであります。
私は神様じゃない。
だから、そんな上等な愛を
子どもにもまわりにも
抱けない、なんて
いう人があったら
それは、つねに
私の申します
卑下高慢なので
あります。
なぜなら
私どもは
神から分れてきた
いのちなのですから
この神の愛は
ずっとずっと
天命を果たしおえるまで
私どものなかに
ふりそそがれているもの
なのでありますから。
私どもが愛するのではない。
先ず、神が
私どもを愛して下さって
いるのであります。
この身の何もかもを
一度、神にお返しして
任せて、そうして祈りつつ
わが子への
また、まわりの人々への
愛とやさしさを
たくわえてゆくべき
なのであります。
もう一度申します。
私どもは
無一物なのです。
凡夫なのです。
その凡夫(肉体我)である
私たちは
大元の神の愛へと
回帰してゆく時
いのちあらたに
生きてゆくことが
できるのであります。
世界人類が平和でありますように
合掌
昌久