迦羅求羅虫

小さな寺の日々の出来事

明日へ向かって

2011-08-27 11:21:51 | つれづれ
夜通し雨が降って涼しくなりました。
今はセミがやかましい。



昨夜は住職が京都へ行っていて留守。
なので友人と食事に出かけました。
家にいて家族以外と夜に出かけるなんて、私的には年に1度の忘年会以外無いことです。
中学から仲の良かった友人はまだお勤めをしています。
酒豪の彼女はもっぱら飲み、飲めない私はひたすら食べる。
「たまにはおごるよ」と言われて高額ご馳走になっちゃった。
ありがとうJちゃん。
子どものこと孫のことオットのこと家のこと世の中のこと、いろいろ話せたし、
いつも会ってもランチの短い時間でばたばたしてるから、
こういう時間って大切なんだね。

帰ってから録画しておいた番組を続けて2本見る。

NHKの「中学生時代」
特別番組ということでした。
福島県浪江町から名古屋に避難しお母さんと暮らしている少女のお話。
サブタイトルは「被災者と呼ばれて」
本人が出演しています。
番組中、ドラマを離れ、福島に帰って仮設住宅に住む親友に会うシーンも。

ドラマ部分。
震災から数カ月たち、故郷を遠く離れて暮らす少女。
彼女の周りは、すでにそれらが忘れられているように見え、そのことに寂しさを感じています。
かと思えば、被災者という特別な目で見られたり。
被災者の気持ちなんて誰にもわかってもらえない、わかるはずもない。
胸の奥にそんな思いを閉じ込めたまま、彼女は我慢していました。
お母さんにすら話せませんでした。
そんな彼女を遠くから見つめていた一人の男子。
あるとき、彼が話しかけてきました。
自分の祖父母が仙台に住んでいて、震災の時に連絡が取れず心配だったと。
そして、実際に被災地へ行き、その現状を目の当たりにしてきたというのです。
(出演者の男子が実際に被災地へ行き、彼が撮ってきた被災地の写真が流れる)

彼は、仙台と福島が違うということもわかってる(被災の状況が)、
そして、名古屋にもかって伊勢湾台風という大きな災害があったんだよ、と話し、
一緒に自由研究をしようと誘う。
「だから君も自分のことを話してよ」と。

彼女が涙を浮かべながら話したことは、被災者である彼女の本当の気持ち。
「仙台はまだいい。また町を作ることができるけど、
福島はそれができない。
もう町に入ることもできないんだよ。」

「帰りたい?」

「お母さんは帰りたいというけど、
今は、私は新しい友だちもできたここで暮らしていきたい」

一人で抱えこまず、話すことの大切さ、それが明日につながるという、お話でした。
ところで、福島に残った彼女の実際の友だち。
将来は小学校の先生になりたい。
でも、避難であちこちを転々としているうちに確実に勉強が遅れてしまったと悩み中。
もちろん、放射線の心配もあるでしょうね。

それぞれがそれぞれの場所で、前を向いて歩み出す。
この子どもたち全てに、私たち大人がしてあげなければならないことは何でしょう?


続けて、この夏「相馬野馬追」に参加した騎馬武者をルポした番組。
震災や原発事故から立ち上がろうとする地域の人々の新たな歩みの話でした。
私は、今の時代サムライだの殿様だのと言う上下関係を誇示する風習が苦手なのですが、今年ばかりは復興ということに「地域の祭り」が欠かせないという気持ちもあります。

津波で奥さんを亡くし家を失い、そのような中一度はあきらめていた祭りへの参加を決心する男性。
組頭の大役で音声高く四方に触れを発する姿は心打たれるものがありました。
例年騎馬の参加は400騎あまり。今年は80ほどだったとか。
でも内容も例年通りでないにせよ、ともかく続けることができた地域の伝統行事。
若い人がまた繋いでいってくれることでしょう。


夏の終わりに

2011-08-21 18:16:53 | つれづれ
お盆も過ぎて、暑さも一段落。
まだまだ残暑の厳しい日もあるのでしょうけど、
暦だけでなく、確実に秋に近づいているって感じます。

ちょうど去年の今頃は、とあるところでこんな夕暮れのひと時を過ごしていたっけなあ。




さて、昨日も今日も、あちこちで夏の終わりの行事や
様々なイベントがあったようです。
いわき平でも、昨夜は灯篭流し、そして花火があがりました。
といっても私自身はあまり行事やイベントには出向かないので、
どこで何をやっているのかは、後々、テレビや新聞で詳細を知る
ということがほとんどです。

何にしても、今年は皆さんそれぞれに、昨年までとは違った思いで
参加してらっしゃることでしょう。
あの日以前に戻ることは無理でも、せめて日常を取り戻したいという思い。
家を、家族を失った人には酷なことではありますが。

今日、ある人が打ち明けてくれたこと。
「あれからずっと我慢してきた。
声を出して泣くこともはばかられて、ずっと堪えてきた。
地震で家が壊れたわけでもなく、津波で流されたわけでもない。
だからこの私が泣くなんて許されるはずがないと。
でも苦しくもがくような思いは日々積もっていく。
あるとき、話を聴いてもらった人に、
我慢なんてすることない。泣いてもいいんだよと言われて、
堰を切ったように声を上げて泣いた。
子どものように泣いて泣いて。
そして、大人だって泣いていいんだ。
泣くって必要なんだって思った。」

泣いたからと言ってすっきりする訳でもない。
何かがふっきれる訳でもない。
でもちょっとだけガス抜きにはなるよね。

がんばれ、がんばれが背中に張り付いていた日々。
緊張を強いられていた日々。
あなたがずっとがんばってきたこと、私は知っているよ。





お盆を前に

2011-08-12 11:04:06 | つれづれ
震災5カ月目の11日。昼間、いつものように軽めの地震がありました。
3月に続き4月に大規模な余震があったせいか、
11日は何となくいつも以上に「揺れ」を意識してしまいます。
と言っても、大中小、数はまちまちですが毎日確実に地震はやってきていますし、
何も11日だから、ということはないわけですけど。

そして今朝、というか午前3時22分だからほぼ夜中か、地鳴りとともにガタガタガタときました。
かなり大きい。
まったく夜中の地震は心臓に悪いですね~。
すぐに携帯でチェックすると、最大震度の5弱が富岡町っていうじゃないですか。
第2原発の近くですよねえ。
第2だけでなく第1も含めて現地に異常は無いという情報が出るまでは、心配で寝られません。
隣りの住職はすぐに寝入ってましたが(苦笑)。
いつまでこんな心配、不安を抱えていかなくちゃいけないんでしょうね。

そんな眠りの浅い夜を過ごしたのに、今日はまあ朝早くから墓参の方がいらっしゃってましたよ。
5時半って・・・ねえ。
本番の明日の朝はいったい何時に。
まあ涼しいうちにお参りを済ませてというのは、無理からぬこのところの暑さですもんね。
お盆と言えば、京都五山の送り火。
ふたたび被災松を使ったまきを送り届け使用するとの話。
被災者に寄り添うというよりは、ずいぶん高所からの関わり方のようにみえました。
なんてことを書くと異論が出るかもですが。
大文字に格別の意味を見出せない私の感覚としては、
そんないきさつがあったところで、放射能検査までしてわざわざ焚いて頂かなくとも、
一昨日のように地元で静かに見送られたほうがよかったのにと思います。
陸前高田の人間ではない者が、とやかく言うべきことではありませんけどね。
ま、原発被災者の一人としては、胸の奥がチクリと痛むニュースでしたねえ。

お盆。
それぞれが静かにお迎えし思いを込めてお送りする、それでいいんじゃないかと。




と、午前中に書いたのですが、夕方のニュースを見たら
高田の松のまきから基準値を超えるセシウムが検出され、
結局使用中止という話。
それにしてもあんな遠くまで影響を受けてしまうんですね。
二重三重にも傷を受けてしまう被災地・・・。

5か月がたちました

2011-08-11 21:07:07 | 3.11
あの日から5カ月。
直後の1か月は無我夢中で過ごしていました。
あまり振り返りたくない、思い出したくない、そんな気もしますが、
頭の中には、あの記憶がしっかりと刻まれています。
次の一日を歩いていくためには、忘れてはならないことだし、
ちゃんと向き合っていかなくてはならないことなんだろうと思います。

お盆を前に、昨日は同朋会の皆さんに、暑い中、仏具磨きをして頂きました。
今日も朝からお墓掃除やお参りの人がひっきりなしでした。
まだ倒壊したお墓は直っていないところが多いです。
石屋さんも忙しく手が回らないのが実情。
何にしても、今年のお盆は特別な思いで迎えることになりそうです。


そして今日

2011-08-09 14:06:55 | つれづれ
昨日は私の父の妹の夫である叔父の葬儀でした。
かっての炭鉱地区に店を構え、青果や鮮魚、プロパンガス、コンロ、さらに
電化製品にいたるまで取り扱い、商売一筋、あかるい叔父でした。
震災直後の水の無い時は、近くの川から水を運んで腰が痛い痛いと言っていたそうです。
でもそれは実は病いのせいだったとも。
火葬場での収骨の際、叔父の太くて頑丈そうな遺骨にあらためて驚きました。
80過ぎて初めての病気。
病んでいたとはいえ、以前の働き者で頑健な体躯を思い出しました。
こんなときでもなければ会う機会も無くなった遠方に住むいとこたちと
震災以降の話で盛り上がり、もとは皆この地がルーツだけに、
様々な思いが交錯したようです。

夕刻、用事ついでにこの日が最終日の七夕祭りへ行ってみました。
規模も開催時間も縮小ということでしたが、予想以上の人出。
やはり祭りの目玉は復興の二文字。
避難地域の人たちの出店もあったり、「がんばっぺ」の文字があちこちで躍っていました。
笹飾りをぬって歩く大人も若者も子どもたちも、ともあれ前へ前へ・・・です。

そして今日9日は長崎に原爆が投下された日。
田上市長の平和宣言を聴きながら、またまた涙が出てきて困りました。
どうも震災以降、涙もろくていけません。
とあるテレビ局の不適切なテロップ事件、京都五山の送り火の顛末など、
聞けば心穏やかではいられない話題もありますしね。
国連事務総長のパン・キムンさんが福島を訪問し、被災地や避難所を訪問して
国連が福島の復旧、復興を支援するというコメントを出しましたが、
では具体的にどんなことが可能なのか、何ができるのか、
まだ全然わかりませんもんねえ。
少なくとも脱原発、減原発でないことは確かですけど。




2011-08-07 08:57:07 | つれづれ
八月。盆の月に入り、何かと気ぜわしい日々。
このところまた暑さがぶりかえしてきました。
年3回、墓地除草をお願いしているシルバーセンターの方々も、
休憩、そして水分を頻繁にとりながら作業して頂きたいと。
やはり心配になってしまいます。

昨日は広島の原爆の日。
毎年暑さの中で行われる式典を画面で見つつ、黙とうしてきました。
原爆と原発。同じ次元で語ってよいものかどうかはわからないけれど、
やはり今年はそこを外すわけにはいかないのだろうな。

ある人のブログで、俳句の季語で「原爆忌」というのがあるのを知りました。
俳句には疎いのですが夏の季語として使われることもあるのですね。
そして今まさに「福島忌」「原発忌」という造語を新しい季語として
用いた句があると紹介していました。
原発被害に遭っている当事者としては、やりきれなさとともに
反発したい思いにかられると、その人は書いています。
同時に、自らもまた「原爆忌」などの言葉を季節をあらわす風景のひとつのように、
あるいは戦争について語る8月のひとコマのように見て来たのではなかったかと、
自戒を込めて振り返っておられました。

私自身、この度のことで同じような思いを深くしています。
自分の中で何が課題となっているのか明確でないまま
「ヒロシマ」「ナガサキ」という表記を安易に、ためらうことなく使っていました。
傲慢であったと思います。
広島、長崎という土地(たんなる地面ということでなしに)に対して、
敬意を払うということが抜け落ちていました。
そこに亡くなり、またその後の時代を生き抜いてこられた方々に対して、
大変失礼なことだったなあと。

寺サイトのトップに置かせてもらっている言葉は、
そんな私の思いの一部なんです。
それにしても、核の平和利用だなんて、うまく言いくるめられてきたもんだな。