迦羅求羅虫

小さな寺の日々の出来事

この悲しみをどう伝えればいいのか・・・

2011-04-18 17:30:52 | Weblog
知人の家が計画的避難区域に入ってしまいました。
30キロ圏外とはいえ、村の名前を冠した肉牛で有名だった隣村は
放射線量の数値が高く、以前からメディアでも取り上げられていました。
そのすぐ近く。
だからずっとずっと心配していました。

お父さん、おじいちゃんが亡くなったあと、お母さんが一家の中心となり、
お姉ちゃんの手伝いでたばこ畑や、田圃の仕事をがんばっていました。
いったんは避難もしたのですが、数日で家に戻ってしまいました。
それはなぜか。
おばあちゃんが慣れないところで暮らすのが大変ということもありましたが、
何より農家の仕事から離れることができなかったからです。
例年であれば、この時期、農家の忙しさは半端じゃありません。
不安は頭にありながら、そういう日々の生活のために家に戻ったのです。
いつでも、畑や田んぼの仕事を始められるよう準備をするために。

あれほど高い数値が出ているのを知っていながら、
たった1回のレントゲン検査の数値をあげて、
安全、安全と言い続けてきたのは、いったい誰だったのか。

1か月以上も放り出しておいて、今さら逃げろと言う。
田圃や畑にはいっさい触るなと言う。
国や県、行政はいままで避難について何も言及してこなかった。
お母さんが自分たちがその対象になっていることを知ったのは、
テレビなどの報道でだったそうです。

一昨日は、官房副長官がやってきて対象地区住民との話し合いをしました。
でも、何も不安は解消されません。
されるはずなどありません。

避難先として同じ町内に仮設住宅を建てるという話が示されたそうですが、
1か月から1ヶ月半かかるという話。
それまで、どうすればいいのですか?
なぜ避難させるならもっと早くその危険性を指摘し、
動いてくれなかったのでしょう。
仮設住宅や避難先を用意するなら、
なぜもっと早く準備できなかったのでしょう。
こんな状況の中で留まっていた子どもたちが、ようやく避難して学校へ通い始めたということです。
今になって!
いくらなんでも遅すぎるでしょう。

事故のあった当日の風向きや雨など、この結果の予測はついたはず。
実際、数値が異常をしめしていたのに。
素人でもわかるほどだったのに。
国は、20キロ、30キロと、単純な同心円を引いて、その境界ぎりぎりにいる人を引きとめ続けました。
その人たちの苦痛をなぜ思いはかれなかったのでしょう。

なぜ、自主的に避難しないの?と、思う人もいるでしょう。
そう言う人は少し想像力を働かせて下さい。
逃げる場所のある人、事情の許す人なら、すぐにそうできたし、
実際行動に移した人もいると思います。
けれど、酪農や稲作農家や土に携わり生きている人たちにとって、
その土地を離れることがいかに困難なことか。
しかも、「ただちに影響は無い」とかいう曖昧な言葉で
安全を匂わせてきた国をみんなどこかで信じていたんですね。
みんなみんなほんとにいい人たちだから。

おばあちゃんがぽつり。
「仕事もできずじっとしてるだけで、生殺しされてるみたいだ」

その町でも特に奥まった山あいの地区。
すぐ近くにはとびきり美味しいソフトクリームや濃い牛乳を出してくれる牧場がありました。
自宅は井戸水をポンプでくみ上げた自家水道。
どんなに美味しかったことでしょう。
清冽な山の空気はどんなに美味しかったことでしょう。

少しばかりのお水と、海産物(これは震災前の加工品だから大丈夫よ、なんて付け加えて)を届け、
逆に、玄米を頂いてきてしまいました。

「お母さん、頂けないよ。うちなんかいいから。
もう来年食べるぶんは作れないんだから大事にして」
お母さんと抱き合いながら、
私は涙が止まらない。

こういう人たちがたくさんたくさんいることを、
遠くで安全(と思われる)ところに住んでいる皆さんはわかってほしい。

また今、命を賭して原発事故現場で働いている方々に思いを馳せ、
その無事を祈っています。

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