今朝の新聞の国際面に出ていた記事を読んで考えさせられた。
見出しは「カダフィの安全」惜しむ避難民
2011年、民主化運動によって独裁者カダフィ大佐が殺害された、アラブの春から10年。
30万人を超える避難民は自由の代わりに手放した「カダフィの安全」を惜しむ。
いま食事のお金もなく、カダフィを倒したのを後悔しているというリビア難民。
カダフィ大佐の治世では言論の自由は皆無だったが、福祉が充実し犯罪も少なかった。
いまリビアは欧州行きを目指す不法移民の温床となった。
カダフィ時代は電気が使えて夜でも外出でき、独裁でも自由だった。リビアは無法地帯となった。安全が無ければ言論の自由もあり得ない と住民は言う。 配信元はイスタンブール共同通信
自由は素晴らしいものだと信じていたが、失ったものは大きかった。
彼らが夢見ていたものは何だったのか。
誰かに頼らず 自力で何とかして生きていく
自分達では何もせずに好き放題に言論とは
でも長かった独裁者による支配の世界にいて
いきなり手放されて守ってくれる者が不在になると
そうなっちゃうかぁ・・・
民主化運動後に 皆を率いて上に立つ人物が
表れなかったのでしょうかね
自由と言う言葉は 確かに 魅力的ですね
自分で決めて、決めたことの責任は自分が引き受けなきゃならない。
籠の鳥が自由を求めて逃げ出したら、食べる物は自分で狩らなきゃならない。
籠の中は安全で、食べるものにも困らなかったのにと嘆く鳥と同じかな、とふと思いました。