今日は、ずいぶんとめまぐるしい一日だった。
役割分担を終えて就寝のために部屋に戻ったミオは、ベッドの中で一息つく。
それなのに、眠りの妖精はなかなか訪れそうもなく、ただ波の音に耳をすます。
(皆の盾になる)
それは今までにない感覚。
なれるかな、ではなく、なりたい、とはっきり思った時、不安よりも高揚の方が大きかった。
(なんだか、不思議)
自分にできることがあって、それを叶えることで皆が強くなる。
今のお前ならやれる、とミカが言った。
定石を知りたいと思い、知ればこそ犠牲も、騙しあいも駆け引きも恐れることはないと考えた。
その盤上での感覚を遊戯だと流さず、ミオの覚醒だととらえたミカの言葉だ。
ミカの言葉は力になる。
そう思った時、もう一つの言葉が胸によみがえる。
「俺だって、自分が一から百まで正しいことを出来てるとは思ってない」
それはミオが初めて見た、ミカの弱さだった。
ミオにとっては、あんなにも優秀で完璧に見えるミカでも、内心ではそんなことを思うのか、とただ驚いた。
常に最善かどうかを迷い、それを一人で決断しなければならず、それでもミオを導いていたなら、
それはどういう強さだろう。
(強さにも色々あって)
それは一つの正解ではなく。
(皆が力を合わせたら)
やみくもに強くなりたいと願っていたミオへの、一筋の光明。
(砦になる)
なりたい自分に、なる。
「ミカさん!おはようございます!!」
「ああ?」
翌朝、洗い終えた洗濯物を甲板まで運んでいたミオは、廊下の先にミカの姿を見つけて、
つい勢い余った。
昨夜からの興奮状態が、われ知らずまだ続いていることの表れだったが。
「朝っぱらから、声でけえ…」
「あっ、ごめんなさい」
寝起きのミカは大体、本調子ではないらしく気だるそうにしている。
今朝もそれは変わらず、ミオが通ることに気づいて道を開けてくれたが、そのまま壁に寄り掛かる。
それでも今を逃せば、言う勇気は挫けそうだ、と思ったのでミオはミカに向かい合った。
「あのですね、ミカさんっ」
「はあ?」
「昨日、ミカさんが私に謝ってもらおうとは思ってないって言ってくれたことなんですがっ」
「んなっ?!」
「私はミカさんの指示があったからこそ、今までずっとやってこれたと思ってるんです」
「……」
「思ってるっていうか、そう!事実、事実そうなんです!」
ここでミカに反論されては自分の主張はまたくじけてしまう。だから精一杯、声を出す。
「だから、今までありがとうございました!」
「はあ?」
「それで、それでですね、ミカさんがそれが私の為に良くない、って気づいてくれて」
「……」
「あ、ああ、あ、あ、あやまってく、くださいましたが」
慣れないことをしている自覚はあるだけに、もう緊張で倒れそうになっているミオを、
ただあっけにとられたように見ているミカの視線が気恥ずかしい。それでも。
「ど、どういたしまして!」
言った。
ちゃんと、言えた。
それは、ミカの謝罪をミオなりに受け止めたことの、最大の礼儀だった。
だったのだが、ミカは何を言われたのか解っていないように、まるで無反応だ。
「あ、あの、昨日、言えなかったので、ちゃんと、ちゃんと終わらせたかったんです」
終わったことなんですよね、とミオはミカを見る。
「ミカさんは前を見ろ、って言ってくれたけど、でも私、自分がだめだったところを」
受け止めなければ、前を見ることができない。
ただ自分の役割だけを考えていた幼稚さと、責任をミカに丸投げしていた自覚のなさと。
それを思い知らされたから、ミカの謝罪を受け入れることができなかった。
そう説明したことに、やっと、ミカからの反応があった。
「お前…、それ昨日から続いてんのか…」
「え?」
「昨日からずっとそれ言おうとしてたのか」
「あ、は、はい。でも自分でもどう言えばいいのかわからなくて、考えてて」
今になっちゃいましたが、と少々、時期をはずしていることは承知の上で、恐縮する。
「ミカさんが、主張の意義がわからない、って言ってたから…」
「…ああ…言ったけどな…」
「あ!これは話を交ぜ返してるわけじゃ、ありません!そうじゃなくて」
そうではなくて。
「ミカさんの謝罪はごもっともですが、私が私の反省点を謝罪するのも尤もだと思いまして」
「俺はそうは思わねえけどな」
「えっ」
「障害に起因する物事の責任は一人が負うことで、早急に解決に向かう」
その場にいる全員が責任を分担して、非が自分にあることの自己主張を始めてしまっては、
無意味であるし、解決の妨げにしかならない、と不機嫌な調子で言われたが。
「で、でも私の責任は私のものです」
「…いや、そういうことじゃ…」
ミカの言い分が正しいのかどうか、ミオには解らなかったが、自分のことはわかる。
解るからこそ、宣言する。
「ミカさんに責任とってもらおうとか思ってませんから!」
「……」
言ったあとに、その場が急激に氷点下にまで下がったような気がした。
なにかものすごく偉そうなことを口走ってしまった。
よりよって、その場の勢いだの、雰囲気だの、訂正だの、そういう曖昧さが一切効かないミカに。
「へえ」
その一言も、背筋が凍るほど冷やかに響く。
「じゃあお前はお前で譲る気がねえ、ってことだ」
「う、お、え、えー、ええ、はい、そっ、そうっです!」
(きゃー何言ってるのー今のうちに、まだ間に合ううちに、ちゃんと説明を…)
そんな弱気な考えが一瞬脳裏をよぎったが、それは出来ないことも知っている。
そうだ。もう、自分の弱さのつけをミカに払わせるようなことはしないのだ。
それが、自分で決めた強さだったのだから。
恐ろしいほどの沈黙は、ほんの数秒だったのかもしれない。
だが地獄の悪鬼もかくや、と言わんばかりのミカの威圧と戦っていたのは永久にも等しかった。
ふうん、と、凍りついていたその場に放たれたミカの感情。
「いいんじゃねえ?」
とだけ言ったミカが、微笑を見せた。
気を、失うかと思った。
「ものすごくものすごくものすごく怖かったです!!」
と顔面蒼白で今朝の出来事をヒロに打ち明けると、軽快に笑いとばされた。
ヒロの笑顔を見ると安心する。どんな失敗でも自己嫌悪でも、気持ちが軽くなる魔法のようだ。
今朝の一件から朝ごはんもろくに喉を通らないくらい後悔にさいなまれていたミオだったが、
ヒロに、それはすげえ!と笑われて、やっと呼吸が楽になった気がした。
「いやー、ほんと、がんばったねー、えらいえらい」
「そ、そうでしょうか」
「そうそう、寝起きのミカには、この俺でさえ絡みたくないと思ってるほどだよ?」
それを一歩も引かず言い負かしたってことでしょ、と、昼食の準備をしながらヒロが言う。
その隣で玉ねぎの皮をむきながら、ミオは宙に目を泳がせた。
「言い負かした…っていうわけでは…ないような…」
いいんじゃねえ?のミカの言葉の芯の部分は、よくもこの俺様に盾突きやがったな、覚悟しとけよ
だと思う。
素直にそう告白すると、ミオに悪い、と思ってくれているのか、背中をむけたヒロが、
…声も出さずに笑っている。
「だって本当に怖かったんですよ、本当に!なんかもう、本当に!」
「うんうん、そーかそーだね」
と、鍋に向き直ったヒロはそれをかき混ぜながら、でも、とミオを見る。
「それ、ミカは嬉しかったんだと思うよ」
と、ミオにはまるで理解できないことを言った。
「え?」
「ミカはさ、そういう場面で、皮肉だったり揚げ足とったり、そういうこと言える人じゃないからさ」
ミカが良いっていったんなら、本気でそう思ってるんだよ、と調理の手を止めずに言う。
それは。
ヒロが言うのなら、そうかもしれないけれど。でも。
「私、ミカさんの言うことに思いっきり逆らってしまったんですけど」
それって嬉しいような部類のことだろうか?と戸惑えば。
「ミカはハッキリ言ってくれる人が好きだからなあ」
人の心情を汲むとか、場の雰囲気を読むとか、そういうのが苦手なんだよ、と言ったヒロが
小皿にスープを入れて味見をし、お!美味い!と漏らす。
それを見たミオに小皿をさしだし、魚のアラを煮出したスープを入れてくれた。
「美味しいです!塩味を入れたらこれだけで十分ですね」
「だね」
よしこれに麺をいれてみよう、とスープを濾す作業に移ったヒロは、話を続ける。
「だから、言ってくれなきゃ解らないっていうのがミカの主張なわけ」
「…はい」
「それで、今回ミオちゃんがどうしても譲れなかったことは、解ってほしいってことでしょ?」
「え?」
「ミカに解ってほしくて頑張ったわけじゃん?これから一人でやる覚悟はあるってことを、さ」
「……あ」
そう言われたことで、急に心が晴れた気がした。
そうか、自分は解ってほしかったのか。だからあんなに気が急いていたのだ。
ミカを一目見るなり、突進した。
ミカにとっては迷惑極まりない行為であったと今では思うが、それでも解ってほしくて、
どうしようもなくて、もてあましていたが故の。
「ミオちゃんは解って欲しかった。ミカは解らなかったミオちゃんのことがわかった」
で、と、ミオの手の中にある空になった小皿を引き抜くヒロが。
「お互いにちゃんと要求が繋がった。…それを、良しとしたんじゃないかな」
そう結論づけておいてから、まー実際ミカがどう考えてるかはわかんないけどね、と前置いて、
笑顔を見せる。
「俺の目からは、そんな風に見えるよ」
だから不安がる必要はなし、と太鼓判を押されて、はい!と素直に返事が出来た。
「うん、とはいえ、ミカも自分に非があると認めるまでは絶対譲らないから、それはまた別の話しな」
と付け加えることも忘れないヒロ。
「えっと」
「話を蒸し返すとまた衝突するだろうから、ミカの言うように、もう放っといていいんじゃないかな」
「放っといて、どうなりますか?」
「どうしたって相容れないことはあるし、相容れないからってそれで切り捨てるようなことはしないよ」
ミカはね、とヒロが言う。
「ただ相容れないから、また同じようなことがあると、ぶつかる」
「はい」
「それだけのことかな」
と、こともなげに、平然としているヒロを見ていると、いつもヒロとミカはそうしているのだ、と解った。
互いに主張して、互いを認めつつ、相容れない。すごいことのようだが。
「それでいい、って最近やっと思えるようになったからね。ま、余裕だね、余裕」
「余裕ですかあ」
「あーなんか可愛いこと言ってらあ、って流す。多分、俺のもミカに流されてる」
ウイはとっくにその域だし、ミオもそのうち自然とそうなる、それがヒロのくれた答え。
今日のことは、理解し合うことの第一歩だ、と安心させてくれた。
「ありがとうございます、私なんかもう、一人でおたおたしてて」
「いやいや、だって俺、ほら、当事者じゃないしね」
自分のこと以外は良く見えるもんなんだよ、と謙遜するような素振りを見せるが、それでも、
ミオにとっては救世主のように見える。
「そりゃミカに威圧されたままなら、どんな態度だって攻撃的に見えるよ」
そう言いながら、アラを濾した別の鍋に移しながら、今朝のミカは、と続ける。
「機嫌良かったからさ、なんか良いことあった?って聞いたら、まーなって言ってたよ」
そんときは訳わかんなかったけど、ミオちゃんの話聞いてたら合点がいった、と言う。
だから怖いとか思わずにミカを誘ってみたらいい、本人ぜんぜん普段通りだから、と言われ
首をかしげる。
「誘う、って、あの、なにに…」
「え?だって、あれだろ、今日から兵法とかの理論だかなんだかをやるんだろ?」
「あ!」
そう言えば昨日、ミカにはそう言われていたのだった。
ミカに理論を教わる。陣形や武器の扱いを教わったことはあっても、勉強を教わるのは初めてだ。
どうするんだろう、とミオの不安が顔に出たのか、ヒロが、そうだ、と軽く付け足す。
「俺も良かったら誘ってよ」
それはミカと二人きりになることへの手助けを申し出てくれているのかと、申し訳なくなったが、
それには違う違う、とヒロが手を振る。
「ミカのそういう宮廷仕様とか兵法の話とか、話として聞く分には面白いんだよね」
ただ、と、ごまかすように照れ笑いを混ぜて。
「それを実践でやれ、って言われると、なんかこう…、性に合わないっていうかさあ」
ヒロのそんな様子には、ミオの緊張もほぐれる。
「ヒロくんは実践型だから仕方ない、ってミカさん言ってましたよ」
「うーん、ありがたいお言葉」
冗談めかして答えたヒロが、じゃあミオちゃんは理論型なのか、と感心したように言う。
「そう、言われましたけど…、でも、よく解らないし…」
「いや言われてみれば、そうかもな、って思うんだけど、あ、そうだ」
「え?」
「あれあれ、賢者の砦、あれもさ、ちゃんと習ってみたらいいよ」
ものすごく強くなるかもよ?と、ヒロは軽く請け負う。
「私が強くなったら、ヒロくんは嬉しいですか?」
ミカに、ヒロに勝てるくらいまで鍛えてやる、と言われたことも打ち明けると、
ヒロが腕をくんで、芝居がかったような声音で、うーむと唸る。
「そんなに俺を倒したいか」
「あ、私は、別に、ヒロくんを倒したいとか思ってないですよ?」
「ああ、うん、ミオちゃんが思ってないことは解るんだけど」
と、唸りモードをあっさり解除したヒロは、ああでも、それもいいかもね、と言った。
「え?」
「俺も別に、相手を倒したいとか、絶対負けねえとか、勝ちにこだわるのってあんま好きじゃないんだけど」
「はい」
それは普段のヒロを見ていればわかることだったから、ミオも頷く。
勝負事が苦手なのは、多分、ヒロとミオの感覚は似ているようにも思う。
…思っていた。
だから、次のヒロの言葉には、とっさに言葉が出なかった。
「最近、ミカに勝つのが面白くなってきちゃって」
それは、平和主義を自認するヒロらしからぬ言葉だっただけに、どう反応すればいいのか
ミオが戸惑っていると。
「ミカは対抗心とか、向上心とか、そういう自分を鍛えることにかけては貪欲じゃん?」
とヒロに確認されて、ただ頷く。
「だから俺も安心してミカを負かしにいける、っていうか、さ」
全力で相手を負かす。そうしたことへの不可解な罪悪感、それが少なからずある。
勝っても負けても、言い知れぬ不穏なものが胸の内に巣くう。
そういうヒロの感覚は、ミオにも解る。とても似ていると思う。対人が苦手、という根底。
それをヒロは、面白い、と表現した。
「俺がミカを負かしても、すぐさまやり返しにくるじゃん?だからもやもやする間がないんだよね」
力が拮抗すると、互いに追いつ追われつの関係になる。
倒れても必ずどちらかが上に行く。それをさらに超える高みへと登る。
そうして勝ち続けることをやめない限り、繋がっていられるような安心感さえある。
遊戯や今だけの話でなく、旅の終わり、その先、ずっと遠い未来まで、絆は強くなる。
「まあ、それは今のとこミカだけに言えることなんだけどさ」
だから他の誰かとの勝負事はまだ苦手意識があるけどね、と。
そう、ヒロが話してくれることは、とても感覚的なことで、曖昧で、不確かで、だからこそ
感情的に心が揺さぶられる。
共鳴する。
そこに、ミオもおいで、と呼んでくれていることが分かった。
絆を強固なものにするために。
「ちょっと解りにくい?」
ミオの返答がないことに、ヒロが気遣うような素振りを見せる。
それに、いいえ!と大げさすぎるくらい首を振った。
解る。自分は、その感覚をとてもよく解ると思う。だから、ミオはあふれだすように言葉にしていた。
「ヒロくんは、ミカさんの‘良い人’になれたんですね」
「んん?」
と、今度はヒロが、困惑する。
「あ、ミカさんにとっても、ヒロくんは‘良い人’なんだと思います」
以前、レンリが言っていたこと。
互いに切磋琢磨し合う関係。厳しさの中にも互いを高めあう覚悟。
ヒロが言っていることは遊戯の勝敗に留まらず、そのまま二人の関係にも通じているだろう。
だから理解できる。もちろん、ミオもそこに加わる。否応もない。
誰もが、誰かの良い人であり、誰かを良い人と呼ぶ。
そうして繋がっていく。
それは、礎。
「ね、そういうことですよね」
「ううん、えっとー」
俺、男だから…ミカの良い人、とはあんまし言わないんじゃないかな、と困ったように言われて、
そう言えば、‘良い人’とは、男女の仲を指す意味合いもあったな、と気づく。
気づいて、ヒロの困惑が可笑しくなる。
「あのね、良い人っていうのは…」
そうだ。
以前、レンリに言われたことを話してあげなきゃ、とミオがヒロに向き合った時。
「ひゃっほーう!」
と、甲板の方から奇声が聞こえた。
同時に。
「くっそう、負けだ!!」
という、ミカの屈辱の完敗宣言も重なる。そして。
「やったー!一本とったー!」
堂々たるウイの勝利宣言を聞いてから、ミオとヒロは顔を見合わせて笑った。
「うん、良い人っていうのは?」
ヒロが、先を促してくれる。
それに答える。
今日も、波は穏やかだ。
朝から快晴、午後もきっと快適な一日になるだろう。