ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第5回 取手宿から牛久宿へ(その1)

2011年08月18日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年8月18日(木)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。

第5回のこの日、取手宿(取手駅)から牛久宿(牛久駅)までの約17.8Kmを歩くことにした。
今までで一番長い距離である。
集合場所は、取手駅東口。参加者は8名。


8時20分、元気よく出発だ。


奈良漬で有名な新六本店
早くも気温は30度を越えていると思われる中、一瞬だが打ち水が涼しさを誘う。


八坂神社は、前回お参りしたので今回はパス。


街道沿いには古そうな家が見られる。
宿場町の面影が残っている、ということだろう。


旧水戸街道は取手小学校入口交差点を左折している。


直角に曲がっている角の民家のような入口を入って行くと、阿夫利神社があった。


小さな神社である。
神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神で、昭和十三年の建立というから比較的新しい。
この日の安全を祈った。


吉田地区付近


吉田神社
八幡大神の額が懸かっている。


吉田神社(八幡神社)拝殿


吉田神社からほど近いところにある大清山心光院本泉寺


新四国相馬霊場(我孫子・柏・取手にまたがる88箇所霊場)の第7番札所である。
御本尊は、阿弥陀如来。


徳川家康の家臣、本多作佐衛門の葵の紋
地元の人の話では、徳川家康から譲って欲しいと請われ、葉の部分のみ譲った、そうである。


吉田地区辺りから旧水戸街道はほぼ真直ぐに藤代宿方面へ続く。


樹高17m、幹回り2.3m、推定樹齢202年(昭和63年当時)のサイカチ(まめ科)の大木
樹齢は現在625年を越えていることになるからすごい。
さやは30Cmくらいになり、若いさやはつぶして洗剤に、トゲは利尿薬や解毒剤として利用された、とある。


道標
水戸与利十八里十八丁(約73Km)、反対側には江戸与利十里二十二丁(約42Km)と記されている。


ここからは、しばらく一直線の田んぼ道が続く。
日を遮るものは何もない。
風向きと同じ方向へ歩いているので、風を殆ど感じない。
『暑いっ!!』


相野谷川に架かる”どばし”のたもとに道標が見える。


来應寺七丁(約760m)江戸十一里(約43Km)水戸十八里(約71Km)と記されているので、
サイカチの大木から十八丁(約2Km)歩いたことになる。


相野谷川の”どばし”から150mほど先にも碑があった。


旧陸前浜街道の碑
側面には、「この街道は水戸街道とも呼ばれ、脇街道の中でも重要な街道であった。文政五年(1822)
の記録によると、二十二藩の大名が参勤交代に用いており幕末期は、とくに頻繁を極めていた」と記されている。


何らかの日除けなしでは歩けたものではないが、傘を差しても暑い!!
(全国各地で今年の最高気温を記録したことを帰宅して知った)


大きなけやきの木があったので・・・


堪らずに休憩だ。
再び歩き始めるのが躊躇われるほどの暑さである。
アスファルトの上は40度を優に越えているだろう。
このまま牛久駅まで歩けるのか、少々不安になってきた。


ようやく常磐線踏切が見えてきた。


旧陸前浜街道踏切の標識が見える。
明治五年(1872)以降、旧水戸街道が「陸前浜街道」と呼ばれるようになった。


踏切を過ぎると国道6号線だ。


国道6号線を渡ってしばらく進むと藤代宿の相馬神社に到着だ。
建立は元亨元年(1321)と古い。
安政二年(1855)に火災で焼失し、應応三年(1867)年に再建されたそうである。


洋風建築の眼科医院だが、先の地震の影響で屋根が大分壊れていた。
この先修理して存続させるのだろうか? そうなれば修理費はばかにならないだろう。
他人事ながら、心配である。


近代的な藤代中央公民館
かつての藤代宿本陣があった場所で、代々飯田三左衛門の子孫が管理していた、とのこと。
少しばかり休憩していくことにした。


本陣の玄関前にあった老松が公民館脇に植え替えられている。


この老百日紅(さるすべり)も本陣の玄関前にあったそうだ。


節電のためか、冷房の入ってない中央公民館で休憩している最中に、数人が『今日は、藤代駅で止めたい』と言いだした。
さらに何人かが、『次の佐貫駅までにしたい』とのこと。

自分としても最後の牛久駅まで行ける自信は正直云ってなかったし、無理はしたくない。
相談の結果、この日は佐貫駅まで行って終わりにすることにした。
『藤代駅まで』だった人も『それならばっ』と皆と一緒に佐貫駅を目指すことになった。


藤代駅近くの愛宕神社
鳥居の上部(島木と貫)が完全に落ちたままで、柱だけが残っている。
社殿は見えないし、鳥居がなければ、神社とは気が付き難い。


正面の突き当りが藤代駅だが、ここで駅に向かう人はいなかった。
この日のコースを次の佐貫駅までに変更したこともあり、
『何とか次の佐貫駅までは頑張ろう』という気力を奮い立たせているのだろう。


小貝川脇の熊野神社
屋根の瓦が大きく壊れたままになっている。
修理はまだ先のようだ。


石の鳥居は先ほどの愛宕神社同様、上部(島木と貫)がない。
木製の仮の鳥居が添えられている。
当面の措置ということなのだろう。


旧水戸街道を少し外れるが、小貝川の土手へ上がってみた。


風は気休め程度、対照的に日差しは次第に強くなっている。


文巻橋(ふみまきばし)を渡ると常陸国だ。
当時の小貝川は下総国と常陸国の国境であった。その国境越えのための宮和田の渡し場がこの宮和田宿にあったそうだ。
この暑さの影響だろう、河原のゴルフ練習場に人影は見えない。


牛久沼揚水機場辺りで、再び常磐線の踏み切りを渡る。
ここでは竜ヶ崎街道踏切の名が書かれている。


治水の碑
小貝川・鬼怒川・利根川周辺にはこのような”治水の碑”や”決壊の碑”などをあちこちに見ることができる。
この辺りは、長い間水との戦いだったのだ、と当時に想いを馳せる。


竜ヶ崎街道の向かい側に見えるのはスーパー”ストッカー”だ。


馴柴小学校入口の屋根付の道標
「左わかしば・水戸」方向(正面)に進む。


関東鉄道竜ヶ崎線の踏切だ。


踏切を渡ると馴柴小学校が見えてきた。
なかなか立派な建物である。
夏休みのため、あいにく子供達の元気な姿は見えない。


馴柴小学校脇の道標に見入る。


道標には、水戸十六里(約63Km)江戸十三里(約51Km)布川三里(約12Km)と刻まれている。
初期の水戸街道は、布川を経由して我孫子へ至る布川街道と、
藤代宿・取手宿を経て小へ至る二つの道があった。その合流点にこの道標が建てられている。


片側2車線の”けやき道路”を佐貫駅方面へ進む。


佐貫駅が見えてきた。
今回のコースは、ここ佐貫駅で一応終了とした。
ここから先若柴宿から牛久宿へは、次回に挑戦することにし、この日は解散した。
『今日は暑い中、お疲れさんでしたっ!!』


当初の計画であった牛久駅までを佐貫駅に短縮したのは、今思えば正解だったと思う。
帰宅して分かったことだが、この日は各地で今年の最高気温を記録する猛暑となった。
このまま無理をして歩き続けていたら、熱中症で救急車のお世話になっていたかもしれないのだ。
次回の9月中旬は佐貫駅から牛久宿を目指すことにしたい。その頃には大分涼しくなっていることだろう。


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旧水戸街道を歩く 第4回 柏から取手宿へ

2011年07月24日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年7月24日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。
今回で、千葉県を通過して、茨城県に入ることになる。

第4回のこの日、柏(柏駅)から取手宿(取手駅)までの約13Kmを歩いた。
参加者は、9名。


8時30分、柏駅前を元気よく出発だ。


柏神社
前回はこの柏神社まで歩いたので、今日はここを左折して国道16号線方面へ進む。


巻石堂病院けんせきどうびょういん
産科・産婦人科の病院で、大きな病院という印象を受けた。


明治天皇柏御小休所碑
そごうデパートの立体駐車場の横に建てられている。
明治十七年(1884)女化原で行われた近衛砲大隊射撃演習の天覧に行幸された際の小休所で、
昭和16年には、史跡に指定されているとのこと。


国道16号線の手前に諏訪神社があったので、お参りして行くことにした。


朱塗りの諏訪神社本殿
この日の安全をお祈りした。


国道16号線を渡ってしばらく進むと、道路は常磐線を跨いでいるが、
歩道がないので右側を進んで跨線橋を渡ることにした。
前方に見える尖った屋根の建物は、結婚式場のマリアチャペル マリベール柏(旧柏玉姫殿)だ。


線路脇を進むと前方に跨線橋が見える。


跨線橋を渡っている時、ちょうど”スーパーひたち”が走ってきた。
グッドタイミングである。前方は北柏方面


跨線橋を渡って常磐線沿いに進む。
大きなけやきの木が日陰を作ってくれる。


道端の馬頭観音碑
馬の供養のために建てられたものだ。


国道6号に出て、北柏方面へ進む。


『あらっ 鯉がたくさん泳いでるっ』


手賀沼の浄化効果なのか、水は意外と綺麗である。
昔はもっと汚かった。


国道6号脇の歩道を北柏方面へ進む。


北柏駅北口の直ぐ脇を国道6号線が走っている。
常磐線ホームは国道6号線を跨いだ先になるちょっと珍しい駅である。


東陽寺


やまゆりの花が咲いていた。
春は八重桜やサツキ・ツツジが見事だそうである。


南無大師遍照金剛


真言宗豊山派のお寺で、御本尊は阿弥陀如来とのこと。


小さな竹林だが、手入れが行き届いており、青々とした竹が美しい。
気持ちが落ち着く。


旧水戸街道根戸付近
旧家らしき立派な構えの家や大きな家が多い。


道標のようだ。
成田街道、水戸街道の文字が刻まれた石が、横に重ねられていた。


国道6号を渡る。


我孫子駅方面へ進むと、常磐線を跨ぐ跨線橋がある。


跨線橋を渡り、我孫子駅方面を望む。


我孫子駅前交差点


交差点の角に八坂神社があったので、ここで一休み。


会員の方が持参した冷えたトマトを頬張る。
とてもジューシーで、美味しかった。


真言宗豊山派大光寺への入口
創建は室町時代とされている。度重なる罹災にあい、本堂は、昭和二十二年(1947)に改築されたもの。
嘉永四年(1851)に高野山から夢告大師像を迎え、四十二番厄除大師として信仰され参詣が盛んであった。


我孫子宿本陣跡の碑
この近くに江戸時代の参勤交代のときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた「本陣」があった。


萱葺き屋根の脇本陣跡・小熊邸は、見るからに風格がある。


料亭鈴木屋
松花堂弁当、会席料理、お祝膳料理、うな重などの和風料理が有名、とのこと。
まだ10時25分、ちょっとお昼には早すぎる。


成田街道との追分である。
ここを直進すると成田街道で、左が旧水戸街道だ。


Y字路の三角地帯には、いくつもの道標や道祖神などが集められている。


JR成田線の踏切には、浜街道の名が。
旧水戸街道の先は「陸前浜街道」になっている。


前方に我孫子電車区が見えてきた。


常磐線をくぐる。
前方の赤い建物は、我孫子市水道局だ。


我孫子市水道局辺りを進む。


農家の主人らしき人が手招きしている。
何か見せたいものがあるようだ。


立派な瓢箪である。


庭も見て欲しいとのことなので、見ると立派なヒバの木が。
それも綺麗に剪定してある。自慢の木らしい。


お世辞抜きに見事な木である。
みんなで大いに褒めあげたら、満足の様子だった。


11時10分、柴崎神社に到着した。
伊勢神宮にも似た屋根が印象的である。


日本武尊が東国討伐の際に立ち寄り武運を祈り、また平将門の祈願所であったとも伝えられている、そうだ。


体は龍のようだが、亀の甲羅を付けている。
今まで見たことがない奇妙な龍の像である。


神社の石段で1.5mほどのしまへび(青だいしょう)に遭遇した。
蛇に出会うと”縁起が良い”との説もあるが、果たしてどうだろう?


柴崎近辺は、旧街道の名残か、豪華な造りの屋敷が多い。


国道6号へ出ると、遠くに取手のビル群が見えてきた。


青山台交差点


青山台交差点の先、国道6号線の脇道を進む。
途中で右に曲がっているが、細い坂道を真直ぐ進むと、国道6号線に出た。


いよいよ利根川大橋を渡る。
取手の市街地が次第に近くなってきた。
予報では気温は30度近くになるらしいが、川を吹き抜ける風が気持ち良い。


ゴルフ場は大勢のサンデーゴルファーで一杯だ。


県境の標識があった。いよいよここから茨城県に入る。


利根川のゆったりとした流れが気分を癒してくれる。


利根川を渡り、県道11号線へ降り、旧取手宿本陣を目指す。


常磐線ガードには、いろんな絵が描かれている。
東京学芸大の学生の作品らしい。


12時10分、旧取手宿本陣に到着した。
旧取手宿本陣は寛政七年(1795)に建てられている。
染野家は代々取手宿の名主を務めた家柄で貞享四年(1687)に水戸徳川家から本陣に指定された、とのこと。


取手宿は水戸徳川家の参勤交代で使用する水戸街道の宿場の1つで、
本陣では藩主をはじめ上級武士が休息や宿泊に利用した。


藩主だけが使用できる書院造りの上段の間は一段高くなっている。
旧取手宿本陣は茨城県指定重要文化財・取手市指定史跡に指定されている。


取手宿本陣の裏山に水戸斉昭の歌碑があった。
指て行く 棹のとりての渡し舟 おもふ方へは とくつきにけり


八坂神社
8月1日から3日に八坂神社の祇園祭が執り行われる。
文政九年(1826)作の神輿の大きさと重量は関東一だそうだ。是非一度見てみたい。


この日最後の訪問地、堂々とした門構えの長禅寺の山門。


さざえ堂
江戸時代中期に造られた三階建ての観音堂のことで、三世堂と呼ばれており、
平将門の護り本尊十一面観音を安置している。
内部には西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の合計百観音が納められている。
お堂に入ってから出るまで一度も交差することなく三階まで上って出てこられるように設計されている。


長禅寺は、承平元年(931)平将門が創建したと伝えられる。
江戸中期より始まった新四国相馬霊場八十八ヶ所の一番札所にもなっている名刹である。


取手駅に到着して、一応ここで解散とした。
『今日は、大変お疲れ様でしたっ!』
この後、取手駅ビルBox-Hillに向かい、昼食を共にした。



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旧水戸街道を歩く 第3回 松戸宿から柏へ

2011年06月26日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年6月26日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第3回のこの日、松戸宿(松戸駅)から柏駅までの約12.5Kmを歩いた。

松戸駅西口に集まった参加者は、9名。


9時ちょうど、柏駅目指して出発!!
駅前から旧水戸街道(流山街道)へ通じる道。


神輿だ。しかし、夏祭りにしてはちょっと早いような気がする。
調べてみると、例年6月30日に、秋葉神社(松戸神社)の例大祭が行われる、とのことなので、その準備かもしれない。


旧水戸街道(流山街道)を柏方面へ曲がって進む。
通りは日曜日のためか、車・人通りは少ない。
この辺りは古い家などは全く見当らず、宿場町の面影はない。


2歳10ヶ月になる孫が、我々一行を見つけて大はしゃぎ、愛嬌を振りまいていた。
事前に通過時間を知らせてあったので、出迎えに来てくれたのだ。


歩道橋が見えてきた。かつては、ここに踏切があったらしいが、今は歩道橋になっている。
車専用道路はこの先にある。


歩道橋を通って、常磐線を跨ぐ。
下を常磐線の電車が頻繁に走り抜ける。


孫とはここでお別れし、旧水戸街道を進む。
『バイバ~イ』


歩道橋を渡り終えて数分、この日最初の訪問地、「雷電神社」だ。
雷神信仰の神社で、祭神は別雷命(わけいかづちのみこと


鳥居の下に不動明王らしき庚申碑があった。
後ろに天保十三年(1842)壬寅年が読み取れる。


先ずは「雷電神社」にこの日の無事をお参り。


常磐線を跨ぐ道路
左側は山崎製パン松戸工場へ、右は国道6号へと通じている。


5分ほど歩くと国道6号に合流した。
ここからしばらくは国道6号を歩くことになる。


北松戸駅前交差点を通過。


ここで左に曲がり、旧水戸街道は馬橋駅方面へ向かうことになる。


栢日庵立砂の居宅跡”の碑が建てられている。
栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)は、馬橋の俳諧人油屋(大川)平右衛門のことで、別号を栢日庵(はくじつあん)と云う。
一茶のよき理解者であり、また庇護者でもあった、そうである。
一茶が15歳で江戸に奉公に出て、20歳の頃に馬橋の油商を営む俳人大川立砂(おおかわりゅうさ)の許に奉公しながら
俳諧の道に入った、そうである。


萬満寺の山門
松戸市馬橋の萬満寺は臨済宗大徳寺派の寺院である。
創建は建長八年(1256)というから古い。


仁王門
仁王様の股くぐり”が有名とのこと。


仁王像(金剛力士像)は鎌倉時代の作と云われ、国の重要文化財に指定されている。
毎年3月27日~29日と10月27日~29日にかけて行われる祭礼の日に仁王様が御開帳される。
この期間に仁王様の股(両足の間の隙間)をくぐれば、病魔災害を防ぎ丈夫になるというのである。
かなり窮屈そうな感じがする。


立派な本堂。
本尊は、阿弥陀如来である。


萬満寺を過ぎて旧水戸街道を進む。
この先でまた国道6号に合流する。


国道6号脇にぽつんと道標が建てられているのを他の会員が発見。
道路の反対側の歩道橋の脇だったので、危うく見過ごすところであった。
八ケ崎交差点の歩道橋から国道6号を見たところ。
正面が国道6号(松戸方面)で、右が旧水戸街道(馬橋萬満寺方面)、左が印西道。


ちょうど水戸街道と印西道の分岐点である。
この碑は、今から200年以上前の文化三年(1806)に建てられたもの。


左水戸街道、右印西道の文字が刻まれている。


しばらく国道6号を進む。
軽やかな歩きだ。


蘇羽鷹神社そばたかじんじゃ


創建以前、この地には千葉孝胤が治めた三ヶ月(みこぜ)の馬橋城が建っていた。
馬橋城の廃城後に千葉氏の加護を受けてこの神社が創建された、とある。
千葉氏は陰陽道に則り、本城の亥鼻城(千葉市立郷土博物館)の鬼門に曽場鷹大明神を祀って
災難除けにしていた、とのこと。曽場鷹が転じて「蘇羽鷹」と呼ばれるようになった、そうである。


昭和五十一年(1976)に火災で焼失したが、同五十五年に再建されたそうだ。


境内の片隅に三十八貫(約140Kg)の力石があった。
江戸の昔、若者が力比べをして持ち上げていた。


蘇羽鷹神社前の国道6号を反対側へ渡って右へ進むと、JR武蔵野線が走っている。


焼き物の甕が石垣のように積まれている。
常滑市の”やきもの散歩道”を思い起こさせる風景である。


道端の庚申堂


『いやぁこれは見事な木だねぇ!』
きれいに剪定されている。何という木だろう?
この辺りは旧水戸街道の小金宿で、良く手入れされた立派な庭の家が多い。


虚無僧寺一月寺
松戸市小金に所在する日蓮正宗の寺院で、山号は金龍山(きんりゅうさん
普化宗の関東総本山という地位にあって、正嘉年間(1257-1259)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。
徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたとのことだが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗が廃止されたため、
僧侶は僧侶の資格を失ってしまった、そうである。
普化宗は、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。


小金宿の旅篭「玉屋
小金宿は、江戸時代より旧水戸街道の宿場町として栄え、成田街道でもあったことから、旅篭が多かった。
鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で江戸後期の旅篭の原型を留めているとのこと。


表の案内板によると、
『当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、未だ姓は現存している』
とのことである。
この近くには、ここに紹介された名字の家が多いのだろう。


東漸寺とうぜんじ
東漸寺は、浄土宗のお寺で、今から約530有余年前の文明十三年(1481)、経譽愚底運公上人により、根木内に開創された。
その後約60年後の天文年間に現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林(浄土宗の僧侶養成機関・学問所)の1つ
とされた名刹である。
前方に見えるのは、総門。


総門の先にもまだ長い参道が続く。
参道は掃き清められ、緑に包まれた広大な境内に感嘆の声が上がる。
『こんな立派な参道は初めてだよ。素晴らしいねぇ』皆感心するばかりである。


山門
文化元年(1804)に楼門造りとして再建され、昭和五十二年に営繕されている。


山門の先に中雀門が続く。
紅葉の時期(12月初旬)の中雀門は、それは見事だそうである。
あらためて紅葉の時期に訪問してみたい、と思う。


中雀門を通ってようやく本堂に辿り着いた。
徳川家康の加護を受け、十八檀林というだけあって、立派である。


本堂前の松の枝ぶりも素晴らしい。


小金宿に生まれ育った明治維新の志士 兄竹内廉之助(左)と弟哲次郎(右)兄弟の碑が建てられている。
兄弟は、幕末天保年間に小金宿に生まれ、父に学問・剣術を学び、やがて二人で江戸に出て、漢学や剣術の修行に励んだ。
哲次郎は、尊皇攘夷思想に目覚め、水戸天狗党の筑波山挙兵に兄と共に参加したが、1864年24歳で死亡。
兄廉之助はその後、新政府の赤報隊幹部になるなど、明治維新で活躍した。1868年、31歳で死亡、と案内されている。


東漸寺を後にして、北小金駅方面へ向かう。


スーパーイオンの前に道標があった。
一つは右水戸道中と記されていたが、もうひとつは読めなかった。
(右水戸海道と記されているそうである)


そろそろお昼時である。
昼食は柏駅に着いてから、と考えていたが、柏駅まではまだ少し距離がありすぎる。
適当な店を探しながら進んでいると、国道6号との交差点に牛丼の「吉野屋」があった。
グッドタイミング、迷わずここで昼食を摂ることにした。


昼食後、国道6号を横断し、根木内城址へ。


根木内城址(ねぎうちじょうし)は、今は鬱蒼とした空堀と、


土塁くらいしか残っていない。
盛り上がっているのが、土塁だ。


土橋を渡ると、その先には広場があり、今は公園となっている。


城址の説明に見入る皆さん。


かつての城址は国道6号建設で真っ二つにされてしまったことが分かる。
右の昭和24年当時の城址は、現在の倍近い広さがある。
斜めの直線は国道6号に予定されていることを示している。
左が平成15年の城址だが、国道6号線で真っ二つになっており、左側半分は既に住宅が建てられてしまっている。
そのうちここも無くなってしまうのだろうか?


根木内城址から少し進むと、道路の右手に庚申塔があった。


バス停の名前も「庚申塚」になっている。


しばらく進むと香取神社があった。
香取神社は、江戸時代初期創建の旧向小金新田の産土神(うぶすながみ)である。


青面金剛(しょうめんこんごう
人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。
そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は、
人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習があった。
青面金剛は、三尸虫の昇天を押さえ、人を助けてくれる、ありがたい神なのだ。


一里塚碑
かつてはここに一里塚があり、榎の巨木あったが何年か前に枯れてしまい、植え継がれている、とのこと。


香取神社の真っ赤な鳥居と拝殿


南柏駅付近
車の往来が多くなってきた。


今谷上町稲荷神社


茅葺きの屋根が特徴だ。屋根の形も少し変わっている。


八坂神社
水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、
道に迷うことがあったそうだ。
そこで、水戸藩から資金を与えられ、街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木の始まりと云われている。
昭和50年代までは、当時をしのぶ松並木が見られたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、
現在では残っていない。(案内板より)


南柏駅前交差点を過ぎ、数百m行くと、別雷神社・稲荷神社わけいかづちじんじゃ)がある。
ここは豊四季、柏駅も近い。


豊受稲荷ゆたかいなりじんじゃ
豊受稲荷本宮は全国でも珍しい神仏習合の稲荷神社である。
地鎮祭や七五三、神前結婚式、お祓い、人生相談、占い、各種祈願護摩など何でもござれだ。


本宮と名乗るからには、さぞや大きな神社かと想像していたが、境内?は極めて狭い。
拝殿の半分は普通の家屋に隠れている。
どうしてこのような窮屈な建て方になったのだろう?


表から見ると半分しか見えないが、奥まで行くと、このような具合だ。


白蛇弁財天もあった。


東武野田線の鉄橋を過ぎると、柏駅はもう直ぐだ。
霧雨が降ってきたが、大して気にならない。


だんだんビルや家が建て込んできた。


柏神社
羽黒神社と八坂神社を合祀した神社である。
大きな銀杏の木が印象的である。枝はかなり切り詰められている。
柏のど真ん中と云う場所柄、伸び放題にしておく訳にはいかないのだろう。


途中で足がつって痛くなってきたので最後まで歩けるか内心心配していたが、無事到着して一安心。
とりあえず無事到着を報告した。


歩行者天国の突き当りが柏駅だ。


目の前に柏駅が見えてきた。


次回の紹介を周知し、再会を誓い合って、この日は解散とした。
『今日は大変お疲れ様でしたっ!!』




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旧水戸街道を歩く 第2回 千住宿から松戸宿へ

2011年06月12日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年6月12日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第2回のこの日、8名が常磐線に乗り合わせ、出発地の北千住駅に向かった。


目指すは松戸宿。千住宿からは約15Kmはある長い距離である。
9時5分前、この日のゴー松戸宿(松戸駅)に向けて出発だ。


北千住駅前通り。


千住二丁目交差点を右折すると、宿場町通りに入る。
千住宿は江戸四宿(東海道:品川宿中山道:板橋宿甲州街道:内藤新宿
日光街道(奥州街道):千住宿)の一つとして繁栄した。
ここから前回の続きになる。


日曜日の朝ということもあって、殆どの店はまだ開店前のようだ。


千住二丁目交差点から間もなく、宿場町通りの中ほどに、「千住宿高札場」の由来が書かれた案内板があった。
宿場の掟などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた、と案内にある。


横山家住宅
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。(案内板より)


こちらは、千住絵馬屋・吉田屋
江戸時代より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを手書きで描いてきた際物問屋。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、
江戸時代からの伝統を守り続けている、とのこと。
ガラス戸越しに絵馬屋の看板が見える。


槍掛けだんご”のかどや
『北千住に来たからには是非食べたいわねっ』、と大きな期待を口にしていた女性陣。
早朝なのでまだ開店していないのでは? と案じたが、心配は無用であった。
『一口味見してみるかっ』と買った一串90円の団子。もっちりと柔らかくてなかなか美味かった。
女性陣は、『お土産にしようっと!』とみたらし団子も追加注文だ。


千住5丁目の信号の脇に日光街道と水戸街道の分岐点を示す碑がある。
ここから右が”旧水戸街道”(佐倉街道)だ。


数十㍍行くと、右側に千住本氷川神社があった。
徳冶二年(1307)千葉氏によって、氷川神社として創建されたというから700年以上の歴史がある古い神社だ。


先ずはこの日の安全を祈願しておこう。


常磐線の下をくぐると・・・


東武線の手前に”槍掛けの松”で有名な清亮寺がある。


参勤交代の大名行列の際、槍持ちは、いかなる理由でも槍を横に倒すことは許されない。
しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れない状態だった。
そこで、街道に張り出した松を切ろうとした時、見事な枝振りを見た水戸藩主・徳川光圀公は
『名松を切るのは惜しい、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから
槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをした、そうである。
以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は
門前で松に槍を立て掛けて休むようになった、という逸話が残っている。
水戸光圀公ゆかりとなった松だが、樹齢350年余りを迎えた昭和20年頃に、残念ながら枯れてしまったそうである。


境内には、明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治三年(1870)小塚原刑場で処刑された囚人11名の解剖が行われた。
それらの死罪人の霊を弔うために明治五年に建てられた墓が、後ろにある解剖人墓である。
その墓が破損してきたため、昭和四十二年(1967)新しく石碑が建立された。
解剖人墓は、昭和五十七年(1982)足立区の有形文化財に登録されている。


荒川の土手に出ると視開が開け、気持ちの良い風が吹き渡る。
梅雨とはいえ、実に爽快な気分である。


かつては千住と小菅間に”小菅の渡し”があったそうだが、今はない。
対岸に渡るため、約1Km下流の堀切橋まで行かなければならない。


日曜日とあって、河川敷のグラウンドは、大勢の子供達や若者達の練習などで賑わっていた。


サッカー、ラグビー、野球などなど・・・


堀切橋を渡る。


堀切橋の下流を走っているのは、首都高6号向島線である。


堀切橋を渡ると目の前に首都高中央環状線が見える。
左側が小菅JCTになる。


首都高中央環状線と綾瀬川に沿って進む。


小菅JCT東京拘置所近くの首都高中央環状線をくぐり、旧水戸街道へ進む。
この辺りは道幅が狭い。
当時はこの辺りは人家など殆どなかったと思われる。
近年になって建てられた家ばかりで、水戸街道を偲ぶものは見あたらない。


水戸橋を渡る。
昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没し、元禄八年(1695)水戸黄門が妖怪を退治した。
「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」
と自ら筆をとった、と云われている。


水戸橋から複雑に入り組む首都高小菅JCTを見たところ。


さらに進むと、左側に”鵜森橋”がある。


流れているのは古隅田川で、整備されていて公園の風情がある。
もう少し水がきれいであれば、云うことなしだが・・・
鵜森橋から上流方向を見たところ。


常磐線の綾瀬駅と亀有駅の中間ほどに突き当たり、線路に沿って進む。
この辺りは大きくカーブしているためか、”大曲り”と云われているそうだ。


北千住駅を出発して1時間20分余り、団地の小さな公園で一休み。
未だ1/3を過ぎた辺り、まだまだ先は長い。軽食で凌ぐことに。


西亀有の曳舟川親水公園の案内板に見入る。
曳舟川親水公園は、江戸時代に作られた曳舟川を、親水公園として整備したもので、全長3kmに及ぶという。
平成12年度建設省「手づくり郷土賞」を受賞した、とのこと。


ようやく旧水戸街道の碑が現れた。
下調べはしており、道は間違っていないつもりなのだが、このような碑を見ると、ひと安心である。
(実は、先ほどの”大曲り”への途中で道を間違えて、教えてもらったばかりだ)


亀有の一里塚
江戸日本橋から三里、千住宿からは一里のところに位置する。
旧水戸街道に相応しく、水戸黄門様ご一行の顔が彫られている。


現代の亀有のシンボル?と言えば「こち亀」であろう。
末長く残って欲しいものである。


中川橋手前の大型ショッピングセンターが見えてきた。
環七通りを過ぎると間もなく中川に差し掛かる。


中川橋を渡る。
3月11日の東日本大地震の時に、亀有で電車が止ったため、松戸まで歩いたのが思い出される。


中川の下流を望む。


中川橋を渡って新宿(にいじゅく)に入って間もなく、新宿日枝神社がある。
江戸時代には山王大権現と呼ばれていた。


鳥居は山王神社形式の特色ある形式になっている。


祭神は日枝大神(大山昨神)で、永禄二年(1559)頃に創建したものと推定されている。
元はやや西方にあったが、享保十四年(1729)中川開削工事のため、現社地に遷座。
明治時代になってから日枝神社に改められた、そうである。
平成二十年(2008)に本殿、神楽殿、山門鳥居等が一新されたばかりで真新しい。


地蔵菩薩石仏等
道路拡幅工事のために地蔵や菩薩や石仏などをこの地に移転したものだ。


平成十年建立の記念碑には、
『地蔵菩薩石仏等十三体、並びに八大竜神石碑を旧水戸街道道路拡幅、及び
旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転』と書かれている。


地蔵菩薩石仏等の隣には、「帝釈道」と刻まれた道標が。


帝釈道の道標の直ぐ先に、JR新金線貨物線の”浜街道踏切”が。
旧水戸街道は”陸前浜街道”に続いていたので、この名が付けられた、と思われる。


この辺りまで来たところで、12時を過ぎてしまった。
当初松戸に着いてから昼食を、と考えていたが、このペースではまだ2時間近くはかかるため、
水戸街道(国道6号)沿いのファミレスで昼食を摂ることにした。


プレミアムハンバーグ(ご飯・味噌汁付で\1,280円)を注文。
お腹が空いていたので、うまかった。


昼食も終わり、再び松戸を目指してしばらく国道6号を進む。


京成金町線の踏切に差し掛かった。


左手は京成金町駅だ。
発車前の電車が停まっているのが見える。


こちら右手は柴又方面
上を国道6号線が跨いでいる。


葛西神社
始めは香取宮と称していたが、明治維新の際に香取神社となり、明治十四年に葛西神社と改められている。


葛西神社は、祭礼に欠かせない祭り囃子すなわち葛西囃子発祥の地として知られている。


葛西囃子は、葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつで、今も東京地方に行われる祭礼の囃子である。
昭和二十八年(1953)東京都の無形文化財に指定されている。


江戸川の土手を進む。
遠くに松戸市街の町並みが見えてきた。


葛飾橋をいったん通り過ぎ、少し先に「金町関所跡之記」の碑があった。
金町松戸関所”と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門であった。
対岸の松戸宿との間には渡船が常備されていた。


江戸川河川敷のゴルフ練習場は大勢の人で賑わっていた。


この日三つめ、最後の大きな橋、葛飾橋だ。


葛飾橋を渡る。


葛飾橋中央付近から江戸川上流を望む。
松戸駅周辺のビル群がはっきりと見える。


葛飾橋を渡り、松戸宿を進む。


松戸神社
寛永三年(1626)の創建とされ、松戸市の総鎮守とされている。
近隣には陣屋も置かれていたため、水戸徳川家より篤い崇拝を受けた。


もとは御嶽神社といい、明治十五年(1882)に松戸神社と改められた、とのこと。
お宮参り(初宮詣)である。初孫なのだろうか?


松戸宿当時?の古い家がところどころに見られる。


商家だったのであろうか。


松戸駅は目の前である。


14時50分、松戸駅に到着。千住宿を出発してほぼ6時間を経過していた。
さすがに疲れた、というのが実感である。



この日は途中で昼食を摂ったこともあるが、かなり時間を要してしまった。
万歩計は25,000を計測していた。
一応ここで解散とし、皆さんとは別れた。『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたっ!』
近くに孫がいるので、久しぶりに顔でも見に立ち寄って行くことにした。


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旧水戸街道を歩く 第1回 日本橋から千住宿へ

2011年04月24日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年4月24日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの旧水戸街道約118Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内~千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第1回のこの日、日本橋から千住宿までの約10Kmを歩いた。
東京駅八重洲北口に集合した参加者は全部で19名で、都内を集団で歩くにはやや多すぎる人数だ。
安全のため、二組に分かれることにした。


9時ちょうど、この日のゴール千住宿(北千住駅)に向けて出発である。


10分ほどで旧水戸街道(日光街道)の起点となる日本橋が見えてきた。
橋の真上を首都高都心環状線が走っている。


橋の下を流れるのは、神田川の支流だが、かなりの濁りだ。


橋のたもとには、色んな碑が建てられている。
皆さん、熱心にメモを取ったり、カメラに納めたり。


橋の中央に「日本国道路元標」が埋め込まれている。


この日は日曜日なので、車は少ない。車が途絶えた隙を狙ってカメラに納めることに成功した。
複製が道路脇に置かれているのだが、ここはやはり本物を撮っておきたい。


里程標(西日本)が橋の脇に置かれている。
もうひとつの里程標は、東日本(千葉・宇都宮・水戸・新潟・仙台・青森・札幌)が記されている。


日本橋三越本店の玄関前にはシンボルのライオン像が。


日本橋三越本店(振り返って撮ったもの)
まだ開店前のためか、通りを歩く人影はまばら。


日本橋大伝馬本町通りに向けて中央通り(国道4号線)を進む。


ここから日本橋大伝馬本町通りになる。


小津和紙の起源の説明に見入る。
伊勢の商人だった小津清左衛門長弘が、承応二年(1653)に創業した、と案内されている。


日本橋大伝馬本町通りは、日曜日のため車や人通りは殆どない。閑散としている。
安全に歩くには良いのだが、ちょっと淋しい感じでもある。


横山町通り


横山町通りは、呉服問屋が多い。
問屋だが、個人向けの商売もやっている。


浅草橋から神田川の下流を観たところ。屋形船が両岸に隙間なく繋がれている。
神田川の水はお世辞にもきれいとは言えない。
昼間の神田川を見てしまうと、夜であっても”屋形船で食事をしながら一杯”はちょっと遠慮したい。


浅草見附跡
道路の反対側を歩いてしまった。かろうじて碑が建っているのが見える。
江戸幕府は、主要交通路の重要な拠点として櫓、橋、門などを築いて江戸城の警護をした。
江戸五街道の一つ、奥州・日光街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから
門は浅草御門と呼ばれ、また警護の人を配置したことから浅草見附と言われた。
現在は、碑が建っているだけである。


中央総武線の陸橋の向こう側が浅草橋駅だ。


浅草橋は人形店が多い、人形店といえば浅草橋である。
TV-CMでも有名な”久月”総本店前を通る。この他”吉徳””秀月”などなど・・・
今の時期だけに、五月人形がびっしりと陳列されている。


須賀神社
創建は推古天皇九年(600)で江戸時代には牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていた、とのこと。
明治元年(1686)、須賀神社と改称して今に至っている。
横断歩道を渡るのが面倒なので、道路の反対側からの撮影に留めた。


蔵前付近にあった、交番。
何とも洒落た建物である。


どじょう料理で有名な”駒形どぜう”だ。


東京駅を出発して1時間半ほど経過していたので、ここで一休み。
ちょうど東日本大震災の日(3月11日)、どぜう鍋(2,600円)、柳川定食(2,450円)に舌鼓を打ったのが思い出される。


店の人と、しばし震災の時に立ち寄った話で盛り上がった。


駒形橋西詰交差点に建てられている駒形堂
およそ1,400年前、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川より示現され、奉安された地に建てられている。
昔、この辺りは船着場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいだった。
船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂にお参りして、観音堂へと向かった。(案内板より)
我々も、駒形堂へお参りを済ませて浅草寺(観音堂)に向かった。


駒形橋から見たスカイツリーとアサヒビール本社ビルのモニュメント
二つ一緒に観れる場所として人気が高い。


10時50分、雷門に到着。
日曜日にしては、さほど混雑している様子ではなかったが、それでも大勢の観光客で賑わっていた。
ちょうど東日本大震災の日にも訪れた。その日は平日だったが、もっと混んでいたと記憶している。


東日本大震災以後は外国人観光客(特にアジア系)が激減したそうだ。
仲見世通りも殆どが日本人観光客だ。


宝蔵門
何度見ても堂々とした立派な門である。


東日本大震災で五重塔の先端が少し歪んだとのこと。
そう云われてみると歪んでいるようでもある。


この日の安全を祈願して本堂(観音堂)にお参りだ。


二天門を抜けて旧水戸海道(日光街道)へ戻る。


二天門を出て真直ぐ進んだ先の花川戸公園に姥が池がある。
浅草寺が出来た頃、周囲は浅茅が原と呼ばれていた。その中の一軒家に老女と若い娘が棲んでいた。
旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたのだ。
殺された人が999人になったとき浅草観音が若者に変装して老女のところに泊まった。
老女はいつものように若者を殺して、明かりをつけてビックリ仰天。
殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だったのである。
老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へと消えていった。
その後この池を姥が池と呼ぶようになったそうである。


言問橋西交差点付近、一斉にカメラを向けて何かを撮っている。


言問橋から見るスカイツリーはなかなかのもの。
新たなビューポイントになりそう、いや、既になっているのかも。


山谷堀は、江戸初期に造られたもので、当時この堀は吉原への通路のひとつであった。
今は暗渠になっており、ご覧のような桜並木の公園になっている。


都道464号線を南千住まで進むと歩道は行き止まりになっている。
駅前に設けられた歩道橋で日比谷線を越える。


日比谷線と常磐線の線路の間に「延命地蔵」別名(首切地蔵尊)がある。
江戸初期から小塚原刑場があったところだ。
寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立されたものである。
通勤電車から見えていた地蔵尊が見えない。台座には何もなくその横に頭だけが見える。
台座に座った高さ一丈二尺(約3.6m)の地蔵尊を期待していたのだが、残念。


小塚原回向院
江戸時代には、刑死者を自由に供養することは許されなかったが、
ここ小塚原回向院だけが許され供養していたそうである。


桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちも小塚原で処刑されている。


源達信士(鼠小僧次郎吉)の墓
天保三年(1832)八月十九日となっている。召し取られた後、鈴が森で獄門さらし首にされた日である。
両国の回向院にも墓があるそうで、戒名は”教覚速善居士”とのこと。


一番奥まったところに吉田松陰の墓がある。


安政の大獄の難にあい、安政六年(1859)江戸伝馬町の獄で処刑された。
吉田松陰辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留どめ置かまし大和魂
松陰二十一回猛士墓と刻まれている。


都道464号線(吉野通り)を進むと、突き当りに素盞雄神社(すさのおじんじゃ)がある。
素盞雄は別名牛頭天王(ごずてんのう)で、天王様と呼ばれている。
立派な神社で、芭蕉碑もある。
境内に入ると大木が目の前を走る国道4号線の騒音を遮り、驚くほど静かになる。


国道4号線を進むと、前方に千住大橋が見えてきた。


隅田川を渡ったところに”奥の細道矢立て初めの地”の碑がある。


その昔、松尾芭蕉が弟子の曽良とともに奥の細道へ旅立ちした地である。
行く春や 鳥啼魚の 目に涙
この句が紀行「奥の細道」の最初の句(矢立初め)ということだ。


千住仲町商店街入口
旧日光街道(国道4号線)を比べると細い道(街道)である。


通りを進むと、地面に地図が描かれていた。
『こっちの大きい道路が旧日光街道?』『旧水戸街道は小さいねぇ』と言ったかどうか。


千住仲町商店街は結構賑やかな通りだ。
しかし、この辺りでは、昔の面影を残す建物は見当たらない。


千住二丁目交差点を右に曲がるとこの日のゴール北千住駅になる。
この日は、ここまでとし、北千住駅へ向かった。12時45分を過ぎていた。
次回は、ここから先を進むことになる。
千住宿場町の面影を今に伝える建物や店もあると聞くので、今から楽しみである。



この後、北千住駅前の”丸井”で食事をして帰途についた。


ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。

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