tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:小森陽一『思考のフロンティア  ポストコロニアル』(岩波書店  2001年)

2005年03月03日 18時56分47秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
本書の読了は既に10日以上前であった。にも関わらず、ある種の違和感を感じることを禁じ得なかった。もともとその構成は、ポストコロニアルという概念の説明や学説の成り立ちを説明した内容ではなく、日本の近代以降の歴史に、ポストコロニアル的な概念がいかに受容されていったのかが描かれている。

本書は3部構成になっているが、「1  開国前後の植民地的無意識」は、西欧に追いつくことが西欧の思考概念そのものを身体化していくことと考えられたが、それは、西欧に従属していく過程であったことを指摘し、「2  植民地的無意識への対抗言説」で、そういった概念の受容や反発の表象を福沢諭吉や夏目漱石の作品を例にとって説明している。日本文学研究の専門家であるところの手腕が際立っている分析である。

しかし、私が最も違和感を感じたのは、「3  敗戦後の植民地的無意識」である。先の2と3の間の時間的な変化を考慮すること無く、2で語られた明治後期から一気に昭和20年以降に話が飛ぶのである。この間の時間における考察は、他に多くの優れた研究があることについては作者も認めている。しかし。中心に位置するポストコロニアルという概念については一本の筋の通った内容であっても、取り上げる具体例が戦前と戦後で全く違うことがわかり、沖縄、北海道、日米安保、天皇制と戦争責任など必ずしも、1や2で積み上げた事例を元にして書いている訳でなく、そこに違和感を感じるのである。

もっと詳しくいうと、天皇制と戦争責任に論じるにあたって、昭和天皇の戦争責任に関しては、多くの論者のごとく問題としているのだが、その合わせ鏡として(少なくとも本書の内部では)の明治天皇や大正天皇の戦争責任については論及していないのである。しかし、なぜこうしたことに私がこだわるのかと言うと、夏目漱石の『こころ』の中で、「明治の精神は天皇にはじまり、天皇に終わった」という重要な一節が存在する。そこから、近代文学の作家達の天皇に関する思考の枠組みを明らかに出来たのではないかと考えるし、もっと踏みとどまるべきだったと思う。

また、「ポストコロニアル」と「ナショナリズム」をどのように分けて定義するのかが見えないのも問題とすべきところである

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