tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:クロード・S・フィッシャー著 『友人達のあいだで暮らす』

2006年07月03日 00時35分35秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(書誌データ:松本康・前田尚子 訳  未来社 2002 (原著は1982年))

こないだ奈良県立図書情報館で借りてきたのが本書である。それ以前に早川書房の『アップル』という本を読んでいた。しかしこちらはマッキントッシュを作っている会社の草創期から現在の最高経営責任者たるジョブスが追放され、再び帰り咲くまでの一連の社内経営陣の動向を追ったノンフィクションでありながら、全くと言っていいほど面白くない。それでも読み続けたのだが、一週間経っても、100ページもすすまないくらいであった。仕事の方も行き詰まっていた時だから、気力も落ちて、本を読むスピードも落ちたのかとがっかりしていた。

本書の存在を知ったのは一昨年の冬だったと思う。書店の社会学の棚に想定のきれいな本がささっていて、タイトルも面白そうな付け方をしている。読んでみたいと思ったが、値段が6800円と結構高額な本であった。

その後、この本を天神橋筋商店街のある古本屋で見かけるが、こちらも結構な値段がついていて、あきらめにも似たためらいがあった。しかし、驚いたのは当分その本屋に近寄らず、ある日行ってみると、この本が売れていたという事。あの値段で手を出した人がいるのかと思った。

で、こないだ図書館にあったから、散財する前にどんな本か見ておこうと借りてきたのが始まり。本を読む時間も限られているし、読む場所も限られている。私の場合それが電車の中であり、通勤の途中だ。にもかかわらず、本体部分だけで400ページ近くあるこの本を5日くらいで読み上げた。やはり「昔取った杵柄」である。私もこれを隠して生きていこうと思った事もあるが、やはり出てくるところでは出るもので、受け入れて使っていこうと思うようになった。ただその後本書の内容を自分の中で咀嚼するのに手間取った。

著者のフィッシャーは社会心理学や都市社会学の学者だから、シカゴ学派の流れを汲むのだろう。シカゴ学派とは前世紀の初頭から大都会だったシカゴで栄えた社会学の一学派だ。彼らの対象は都市だが、当時のシカゴは社会不安の固まりみたいな場所であった。貧困や犯罪など。そういったところを調査というスタイルで分析し、社会改善の提唱を行っていくというのが、この社会学のスタイルでもあったが、見方を変えれば、政治学や社会政策学のような部分も見る事が出来る。しかし、本質的に社会学は政策などの提唱を行う事が主任務ではないと私も考えるようになったから、同じ社会学といっても、ある意味では方向が少し異なる分野に見える。

ちなみに私も都市とかには関心があるが、それでもその都市に内在する歴史とか建築物とかの「文化」の方向だから。最近では自分の専門を文化社会学としている。もともとそうありたかったのだが受け入れるのに相当な時間がかかった。

肝心の本書の内容だが、21世紀に入ってから日本語に訳されて、刊行されたにもかかわらず、原著は1980年代の初頭に出されている。原著作成の根拠となった調査自体は、1970年代の後半にかけて行われた訳だから、古いと言えば古い。しかし、作者はこの本が少しも古びていない事は指摘しているし、21世紀を迎えた現代でも充分通じると考えたからこそ、日本語に訳されたとするべきであろう。

ところで都市社会学は社会病理の部分を全面に出した結果、都市社会学の研究対象となる「都市」とは人間疎外が起こり社会的な紐帯(ちゅうたい)が弱まる場所としての「悪」という前提で断じられる部分があった。

確かに、都会は田舎に比べて人間関係は希薄である事は今日の日本でも感じる事であるといえる。ただ、この前提となる概念は本当に正しいのかというところから出発したのが、本書の内容である。筆者はこの問題に対して、個人間のネットワーク、すなわちどのような友人を作るのか、どのような互いの嗜好の一致が起こっているのか、どのような階層の分化が起こっているのかというところを調査している。かつて階層と嗜好の問題になるとピエール・ブルデューの研究が有名だろう。

また本書では「下位文化」の概念を用いている。下位文化、すなわちサブカルチャーという事になり、これはカルチュラルスタディーズの手法が入ってくるのだが、こうした既成の概念とは少し異なる視点で書かれている。それもそうだろう、原著が1980年代の初頭の発刊となると、それほどカルチュラルスタディーズが認知されていたとは思えないからだ。フィッシャーが用いる「下位文化」の概念は末端(ここではミクロな単位としての個人の意味で使う)の人間達が嗜好する文化の事であり、貴族的な上位概念を含む文化現象に比して、下位に置かれる文化という意味ではない。またそうして見えてきた文化にいわゆる階層と文化に関する明確な区分は、少なくともカリフォルニア(あのアメリカのカリフォルニア!)では見る事が出来なかった。その証拠に、安い賃金のトラック運転手の「好む」というより「こだわり」という意味における酒が、高価なワインであったり。比較的知識人階級のサラリーマン(大学教授と思われる)が好む新聞誌が大衆的な一般紙であったりという事例を挙げている。これらは少ないサンプルデータから導きだされた特殊な事例の誇張ではない。むしろ個人が有する文化の多様さをまとめあげることが出来ないくらいであったそうだ。

本書の調査の核心部分たる、都市における人間関係の側面によると、都市という場所に住む人々の疎外感はそれほど深刻なものでもなく、どの階層においても比較的広いコミュニティーネットワークを形成していることを明確にしている。しかし、この部分もまた非常にゆらぎの大きな結果でもある。

本書はフィールドワークの調査結果や事例をまとめたものであり、フィッシャーが導きだした、あるいは仮説として建てた理論の部分は、他の著書にまとめられているそうだ。これも日本語版が出ている。そのうちまた借りてきたい。

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