飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

すべては『シオンの議定書』にカギがある!!①

2007-12-29 11:08:36 | シオンの議定書

『良い結果をもたらす嘘は,不幸をもたらす真実よりいい。<古代ペルシャの諺>』

 はたして、表題の諺の意味するところは何であろうか。よく似た諺に『嘘も方便』と云うのがあるが、それと同じだろうか。良い結果とは何か。?  例えば、末期ガン患者に病名を隠すことを『嘘も方便』として、一般には認識しているが、是非はともかくとして程度において許される話である。しかし、ここ で言う嘘は偽善であって、良い結果というのは一部の奢り高ぶった人間にとっての結果である。
 すべての人々にとって、永い時をスパンに考察すると、『真実』こそ良い結果をもたらすモノである。私が、もし末期ガンになったとしたら、真実 を告げられることを選択する。仮令厳しい事実であっても、それが『真実』であるならば、受け入れなくてはならない。もし、嘘をもって一時的に安心を得て も、その後の人生が不実のまま経過する。それは永い時のスパンに於いて、不幸である。

 世の中に、真実よりも多くの嘘がまかり通るのは、この辺りの認識にあるのではないだろうか。今から、20年前、『シオンの議定書』という怪文書 を全文目にしたとき、驚いた。まさしく、現代の縮図がそれに書かれていたからである。あれから20年たった。一層その事は色濃くなっている。

 【転載開始】この
 『シオンの議定書』は『シオン長老の議定書』とか『ユダヤ・プロトコール』とも呼ばれています。1897年8月29日~31日 にスイスのバーゼルで、政治的シオニスト運動の国際組織「世界シオニスト機構」が創設された第一回シオニスト会議が開かれました。その席上で、ユダヤ人の 秘密結社ブネイ・ブリスのメンバーであるアッシャー・キンズバークが発表した「シオン長老作成の24項目の決議文」が流出したものであるとされています。

 これがのちに
『シオンの議定書』という通称で世界的に翻訳され、「ユダヤ指導者による世界を裏面から操りながらのユダヤ王国再興世界支配計画が 明らかにされた」と物議をかもしだしました。ヒットラーは、この文書の内容をユダヤ人迫害の最大の理由づけにし、ホロコーストを起こす大きな要因にもなっ たとされています。

 現在、通説的には、
『シオンの議定書』は1900年代初頭、ロシア政府のユダヤ人弾圧を正当化し、当時燃え上がっていたポグロム(ユダヤ人虐 殺)を煽動するためにロシア帝政内務省の秘密警察の手の者によって書かれた偽物であるという説が有力です。しかし、この議定書は「偽書であっても内容は本 物」という評価もあり、その真偽は定かではありません。(後略)【転載終了】出典:日本人が知らない 恐るべき真実http://www.222.co.jp/blog/blog.aspx?id=3759&; amp; amp; pg=0& amp; amp; ref=B13953

 この
『シオンの議定書』を全文掲載し、要約及び注釈を加えることにより、今時の世界とそれに切り離すことの出来ない身近な社会問題、各個の人生 の行く末に警告を発したいと思う。相当長い文書である。且つ、難解でもある。解釈もいろいろあろうとも思う。それはそれで結構である。それぞれの立場で、 まず接することがより大切と信じる。
 
 ここで云うユダヤ人とは、主としてアシュケナジーユダヤ人のことで、セム系のユダヤ人スファラディーユダヤ人のことではない。聖書に出てくるユ ダヤ人はスファラディーユダヤ人で、今世界の政治経済を牛耳っているのはアシュケナジーユダヤ人である。別名ハザール(カザール)ユダヤ人とも云う。改宗 ユダヤ人である。約1,000年前、ユダヤ教に改宗したハザール(カザール)人の総称である。シオニストユダヤ人はこれが主体である。

【転載開始】
『シオンの議定書』(第一議定書)
 美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思う。われわれを取り囲むもろもろの事実に比較と推論の光をあてようと思う。

 ここに私が提案したいのは、二つの視点、われわれ自身の視点とゴイム(すなわち非ユダヤ人)の視点から見たわれわれの体系である。

 悪い本能をもった人間の数は、善い人間の数をはるかにしのぐ。私は指摘しなければならない。かれらを統治するには、学者ふぜいの論議によってで はなく、暴力とテロリズムによって達成することが、最良の方法である、と。どんな人間も権力をめざし、誰も彼もができることなら独裁者になりたがる。わが 身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益のためにわが身を犠牲にしようという者は、めったにいるものではない。

 人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったか。今まで彼らを牽引してきたものは何であったか。
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 社会の仕組みが始まった頃には、彼らは残忍で盲目的な力に服した。後には、法律に服した。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。私は、自然法則に従って、権利は力の中に横たわっていると結論する。

 
政治的自由は単なる思想であっていささかも事実ではない。が、政権をもっている党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつけ る必要があれば、その撒き方や使い方を知っていなければならない。その際、相手方が自由思想、いわゆるリベラリズムに感染していれば、そして、思想のため になら喜んで全力を投げうつつもりがあるならば、仕事はさらにやりやすくなる。この場合には、われわれの所説が勝利することは目に見えている。支配の手綱 が緩められると直ちに、新しい手に手綱が執られるのは、自然法則のおもむくところである。国家は盲目な力であって一日たりとも指導者なしにはすまされず、 新しい権力者は単にすでにリベラリズムによって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。

 われわれの時代には、リベラルであった支配者の位置にとって代るのは金力である。かつては信仰が支配した時代があった。自由思想は誰ひとりとし てほどよい使い方を知らない。ゆえに、実現不可能である。人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。与えた瞬 間から、共食い闘争が勃発し、階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は一山の灰燼に帰するであろう。

 国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるかでは・・どのみち、その国は回復できず滅亡するほかはない。その時こ そ、われらの出番である。完全にわれわれの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくかれらはそれに縋りつかなければならな い。拒めば・・底に沈むのである。

 リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、私は次の問いを投げ返したい・・どの国も両面の
敵をもっている とする。外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるな らば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれなければならないのか

 愚にもつかぬものではあっても反対とか批判とかはありうるし、うわべのことにしか理性の力が働かない人民は、反対ということを喜ぶものである。 かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けを借りてう
まく大衆を導く希望をもてるのだろうか? もっぱらあさはかな情熱、つまら ない信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われている間違いだらけの人々は、党派根性にとらわれる。そうなると、完全に理の通った議論を基にしたどんな 合意をも妨げる。群衆の解決というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中にアナーキーの種子を蒔くという 奇妙な解決を出航させる。

 
政治は、道徳とは全く関係がない。道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺する。支配したいと思う者は・・われわれが 所有する新聞に感謝する・・気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いなければならない。率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政 治にとっては悪徳である。それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力を持つものなのである。そのような資質 は、ゴイムの王国の属性でなければならないが、われわれは決して彼らの轍を踏んではならない。

 われわれの権利は力の中に横たわる。〝権利〟なる言葉は抽象的な思考であって、なんら具体性はない。その言葉は次のことを意味するに過ぎない・・わが欲するものを我に与えよ。我が汝らよりも強きことを証せんがために。


 権利はどこから始まるか? どこで権利は終るか?

 権威の仕組みが薄弱で法律が空疎であり、リベラリズムの乱用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家ならどんな国でも、私は新たなる権 利を行使できる・・強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、リベラリズムの中で放棄されてわれわれに残 された彼らの権威ある権利継ぐ王者となる。

 すべての形態の権力が動揺している現在、われわれの権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えないであろう。いかなる狡猾な者もくつがえせな い強さに到達する瞬間まで、われわれの権力は表面には現われないからである。われわれが目下用いざるをえない一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現 する。この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組みを平常の状態に修復するだろう。結果は手段を正当化する。しかしながら、われわれの計画 においては、必要と有効なこ
と以上には、善とか道徳とかにはこだわらないことに留意しようではないか。

 われわれの前には戦略的に敷かれた計画がある。数世紀にわたるわれわれの辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。

 満足すべき行動を練りあげるためには、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、彼らの理解力の欠如を考慮に入れ、彼ら自身の生活状況、あるいは 彼ら自身の福利を顧慮する必要がある。群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえないということを理 解しなければならない。盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは必然である。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解する ことはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成 り立たせているABCを理解することができるのである。


 人民が人民に任せれば、すなわち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢と、そこから生ずる無秩序状態に自滅 するのが関の山である。人民群集が穏やかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言い立てずに、個々人の関心をごちゃまぜにしている国の諸問題を処理することが可 能だろうか? 外敵に対して自分自身を守ることが可能だろうか? それは考えられない。群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失っ て理解を絶し、実行不能となるからである。

 全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。このことか ら、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。
絶対的な独裁なしには、その人 が誰であろうとも、群集によってではなく彼らを指導することによって遂行される文明の存在はありえない。群集は野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮 さを発揮する。群集は自由を手にしたとたんにいち早くアナーキーに転ずる。アナーキーそれ自体は野蛮の最高の段階である。

 飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物ど
もを見よ。自由が彼らに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それはわれわれやわれわれ一族 の歩む道ではない。ゴイムはアルコール飲料に酔いしれ、彼らの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長する。その性的堕落 は、われわれの特別な代理人・・富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしばゴイムの娯楽場にいるわれらの女性たち によって手ほどきされた。彼ら代理人の最後に、私は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておく。

 われわれの合い言葉は・・力と偽善である。特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されているならば、力のみが政治的諸問題を克服する。 暴力は原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとしない政府に対しては欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。この悪は終局である善に 達するための手段にすぎない。それゆえに、われわれは、
目的達成のために役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。政治の上では、支配 権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていなければならない。

 平和的な征服の道を進んでいるわれわれの国家は、
盲目的な服従を強いるために恐怖を維持する必要から、目につかないけれども効果のある死刑宣告 をもって戦争の恐怖にとって代える権利を持っている。仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。単に利益を得るためのみならずわれわ れの義務としても、また、勝利のためにも、われわれは暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさ ず強力である。それは手段そのものであるというよりも、われわれが勝利し、すべての政府をわれらの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。われわれ は容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせる。

 はるか以前の時代に遡れば、われわれは人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であった。以来、幾度となく愚か なオウムたちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由を、この餌をもって破砕し 去った。ゴイムのうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作り出すことができなかった。これらの言葉が意味 するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかった。どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものはその掟に従わせるように作 られているのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作られていることを見なかった。群集が盲目であること、支配を頼むためにその中から選挙された成り 上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとし ても奥義を授けられない者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった・・これらのことを、ゴイムは一切顧みなかった。しかも一 貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからである。王室以外の者や統治される者には誰にも知らされない政治統治の奥義は、父から子へ一 子相伝で伝えられたのである。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われた。これこそ、われわれの主義を成功に導く絶好の機会であった。

 地球のいたる所で、われらの盲目の代理人
たちのおかげで、「自由・平等・友愛」という言葉が、われらの旗を熱狂的にかざす大群を、われわれの隊 列に引き入れてくれた。これらの言葉はまた常に、ゴイムの福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、ゴイムの国家の基礎を破壊する生き たエダシャクトリ[果樹の害虫]であった。後に述べるように、このことがわれわれの勝利を助けた。とりわけ、われわれが切札を手中にする可能性をもたらし た・・特権の破壊、言い換えればゴイムの貴族支配の存在そのものの破壊である。唯一、人民と国とを守るこの階級は、われわれに敵対したのである。ゴイムの 血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、われわれは、金力の貴族が主導する、われらの教育を受けた階級を貴族として樹立した。われわれはこの貴族政 治の特徴を、われわれ自身のものである富と、われらが学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立した。

 われわれの勝利をいっそう容易ならしめた事実がある。好ましい人物たちとの関係を保つことによって、われわれは
常に人間の心の琴線に触れ、金銭 欲に、貪欲に、人間のあくことを知らない物質的欲望に働きかけた。言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果がある。 この弱点のゆえに、かれらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。

 自由という言葉の抽象性のゆえに、われわれはすべての国の群集に、
彼らの政府は国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎないのだ、番人は破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができた。

 人民の代表は取り替えられるものなのだ、ということは、われわれが自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権をわれわれに預けたことになるのである。【転載終了】
以後、24回、今回の要約・注釈付きで不連続掲載
 


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1 コメント

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小顔の名前 (Unknown)
2018-08-07 18:04:43
小顔が暗記で競争する奴隷の監視社会
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