ヒットラーは生きていた。!!
間違いない。アルゼンチンでは、いたる所に証言者が存在する。それが、何故多くの人々に当たり前のようにならないのだろうか。それは、メジャーなマスメディアの禁句になっているからだ。情報統制である。それが『壮大なウソが世の中に満ちている』原因である。一部の知っている人々と、知らされていない人々が存在する。知っている人々とは、あちら(支配する側)の人々である。
しかし、いずれは漏れ伝わる。(本記事は、以前掲載のリメーク版です。分かりやすいようにメディアツールを充実しました。)
【一部引用開始 前略】ヒットラーは自殺しておらず、南米に逃れて20年ほど前まで生きていたという「馬鹿馬鹿しい」話があります。しかし、このページを読まれた方は、馬鹿馬鹿しい話とは思わないかもしれない。イスラエル建国の最大の功労者、ヒットラー。ユダヤ・ロートシルト家の血を受け継ぐヒットラー。彼が、役割を終えた後に、安住の地を南米に用意されたとしても、不思議はありません。【引用終了 後略】
写真左 若きなじみのヒットラー
写真上 老年のヒットラー
社員右 晩年のヒットラー
<その1 パタゴニアの海岸でナチのUボートを目撃したというジセラさん>
「いつものように窓際に座って休んでいたら遠くのほうに潜水艦がいるのが見えた」
何年ごろだったですか?
「だいたい、1946年か47年ごろだったかな」
入り江のところで目撃したのですか?
「そうです」
航行していたのですか?
「航行していました。飛行機の音が聞こえましたけどその時に海岸沿いを航行していた潜水艦は海中に潜っていきましたよ」
潜水艦が潜っていくのを見たんですね?
「はい、見ました」
<その2 マル・デル・プラタで1953年にヒトラーを目撃したというエルナンさん>
「1953年頃のはずです」
どんな状況だったのですか?
「ファベリッヒ?と話すためにその建物にやってきました。3人の護衛と女性一人と共に。来たというより連れて来られたというか、しっかり歩くことができなかったから」
<その3 ホテル・エデンで1949年にヒトラーを目撃したというカタリナさん>
どのようにヒトラーはそこへ来て、どのように帰っていきましたか?
「車で運転手と共にやってきて、帰りも同じでしたよ」
運転手とは何かそのことで話をしましたか?
「はい、話してましたよ。笑っていましたけどね。でも、私がうすうす気づいていたことはもう知っていたと思う。でも、庭師さんに気づかれたことには憤慨していましたね」
ある日、その運転手が、あれはヒトラーだよ、と言ったんですね?
「はい、そう言われました。でも、誰にも話すな、口外するな、とも言われましたけど。そのときは私は何も話しませんでしたし、なにもされなかったです」
一緒にいた女性には話しかけましたか?
「ある時彼女に”彼は貴方のいとこですか?”と尋ねたら、”いいえ、彼はただ旅をしているだけですよ” と言っていました」
先日、オペレーションペーパークリップOperation Paper clipのことを考えていました(多くのドイツ人をCIAやバチカンなどが南米などに逃がしたあれですね)。 それで、当然ヒトラーのことも考えていました。 南極のことも。 それで、地図を眺めたいたらああ、アルゼンチンは南極に近いということに今更ながら気がついたのでした。 地球儀でみるともっとなっとくいきます。
海底ケーブル、海底トンネル。 あるのでは?
検索キー:Operation Paper Clip NAZI
検索結果の一例:
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Paperclip
http://www.conspiracyarchive.com/NWO/project_paperclip.htm
<返事>
Truth will set you free 様
いつも有り難うございます。
ついに、CITIも近々破産処理に入る(ロイター)とありました。破産は、破算です。ご破算して、つぎのアジェンダに入ると言うことでしょう。SWINE FLUも100万突破。危機を煽るだけ煽っています。
ウソの学説で、大衆を誑かしておいて、ぬけぬけと独占維持を図ろうとしてのことでしょう。でも、こうまで漏れるとは見当違いと言うべきです。早晩、真実が全てを明らかにするでしょう。
資料をいつも有り難うございます。しかしながら、なかなか追っつきません。飄平
追記
>CITIも近々破産処理に入る(ロイター)とありました。
CITI→CITの間違いでした。悪しからず!!