退廃の世には志士が起つ!!
これは明らかな維新の始まりだ・・・。
今、混沌の世かも知れないが
確かな動きが始まっている。
誰が想像し得たであろうか? 警察裏金疑惑(事件)の現職警察官内部告発者と日本の片隅の阿久根市革命市長が連帯するなど、普通の相関図で描かれようが無い。
それは世間知からは導き出すことは出来ない。政治力学など問題外だ。それは志の問題だからである。故に志士である。混沌の時代、頼るべき指針は何もない。あるのは人間として綿々と灯される良心の疼きである。
悪はどこまで行っても、利害得失の混沌を招く。無数無辺の群雄割拠をもたらす。最終的には混沌だ。挙げ句の果て、内ゲバと闘争、残るは無惨な屍の山しかない。
そこに疑問と矛盾を見抜いた志士が登場する。内なる光の発現だ。そこには立場とか地位とか利害得失は皆無である。人間として良心の疼きのみが原動力の志士が発現する。これは誰にも予想出来ない。誰にも止めることが出来ない。
必然的な登場である。そして、その心の発振は、共振し連帯を求める。そう言う時代に入った。まだまだ少ないだろうが、今後、怒濤の勢いを持つだろう。それは利害がないから、小異は関係ない。大同につく。
小異でごたごたするのは、本物ではない。志士もどきである。
そう言う時代である。
志士を騙る偽善者も多く出るだろうが、そんな者は早晩自滅する。それこそ、内ゲバの中に相食み合い自滅する。それを見極める心眼が求められる。
竹原市長は本物である。仙波元警察官は本物である。たった二人かも知れないが、底流では多くの志士の卵が蠢きを始めている。姿が見えないだけだ。もはや『卒啄(そったく)の機』を窺うばかりとなっている。
間違いない!! 志士よ出でよ! 時は近づいた。
信念の人、仙波敏郎 副市長が語る阿久根 THE MOVIE (1)
http://www.youtube.com/watch?v=St4OzOQDF-s
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志士もどきである」とおっしゃることは、
わたしが最近考えていたことに示唆を与えてくれました。
過日植草さんが「民公連携」をブログに書かれたとき
少し大げさに言えば
わたしは瞬間悲鳴をあげるほどの苦痛を味わいました。
ところが、郵政民営化のことでもそうでしたが
いまではその苦痛が激減しているのです。
民主主義は数であるとは小沢さんがよく言われることです。
信念もなくリーダーもいない組織が
いくら連立を組んでもそれは烏合の集団でしかありません。
しかし、江藤淳さんが
「雲のごとき」と評された小沢さんの構想力と実行力を
もってすれば、小異などは捨てるまでもなく
雲散霧消するのではないでしょうか。
小異などはすべて小沢さんのリーダーシップのもとに
収斂されていくのではないでしょうか。
そう思うに至ったところでした。
ネットはわたしの頭とこころを柔軟にしてくれます。
人は、それは思想も信念もないからだと言うかもしれませんが
自分で言うのもおこがましいですが、
これは進化であり深化ではないかと!?
ところで
竹原市長と仙波さんを知ったとき
わたしはこの日本に男がいたことに感動しました。
同様に
村木厚子さんを見たときも
日本女性がいたことに感動しました。
わたしは村木さんをお手本に真似ようと思いましたが
結局は付け焼刃の悲哀を味わうだけだと断念しました。
村木さんが嵌められて日本中の人が知ることになったのは
日本の神々の所為ではなかったかとさえ思えます。
<返事>
谷間の百合 様
コメント有り難うございました。
何時も熱心にご愛読頂きまして、感謝に堪えません。
常に、人はその違いを探しますが、共通項を探すとそんなに違いがないことに驚きます。違いは当然ありますが、それは個性で見方に依れば、可愛いものでもあります。
違いを強調しますと、偏執的になりますが、共通項を観れば、安心します。どちらも考え方そのものです。そして、その違いは、ある刹那的なもので、長続きしないものでもあります。人は常に変転万化しているのではないでしょうか。心はころころ変わるものです。だから、こころとも言うのではないかと思います。
自己保全の本能がそうさせるのだと思います。
優位に立とうとか、自己に利益をついつい考えてしまうものですから、沢山の小異が出ます。公益に立てば、あるいは利他を優先すれば、小異は霧消します。難しいことかも知れませんが、これは一種の原理だと思えるのです。失礼しました。
飄平