さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべて御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(ヨハネによる福音書 13章1~11節)
-以上、聖書の引用-
ペトロは、イエスさんが足を洗おうとされるのを見て、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。それを聞いたイエスさんは、ペトロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」と言われました。すると、ペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言い出しました。何とも滑稽な情景ではありませんか。つまり、ペトロは、なぜイエスさんが弟子の足を洗おうとされているのかについて、全く理解していなかったということが伝えられているのです。
この物語は、後でイエスさんが解説されているように、師であろうとする者は、奴隷のように他者、とりわけ弱い者に仕えなければならないことを、自らがお手本を示しつつ12弟子に伝えたものです。にも関わらず、師と呼ばれる人の中には、奴隷ではなく親分になることを希求している人も多く、イエスさんがお手本まで示されたにも関わらず、仕えるどころか指図ばかりする人もいます。自分が師になった途端、何か偉い者になったように錯覚しないためにも、イエスさんが弟子の足を洗われた「洗足」を忘れないようでありたいと思います。