あとがきの最後に、苅谷先生が、「本書が、学ぶことの意味を、個人化の呪縛から説くきっかけになることを願っている」と書いている。
苅谷剛彦先生と哲学者の西研さんの対談。
ゆとりある教育の根本にある「内発的動機」、個人の関心だけに重点を置く考え方を鋭く批判する。それが日本的な同調圧力の賛辞にならないように、「自由な社会」で生きる個人の力量を身につけるための教育という位置づけである。他者との関わり、社会とかかわって生きるために必要なものを身につける、「ゲームに参加できる」技量を身につけるという考え方だ。感じていながら言語化できなかった人もいるだろうし、気づいていてもいえなかったという人もいるだろう。ズバッといってくれたと思う。無責任な個性重視教育論者は読んで、今の社会状況を考えて猛省して欲しい。
ただし、二人はかなり理想を見ているのも事実だし、エリート教育を論じてはいないが、かなり教員のレベルが高いことが想定されていないかという印象は否めない。
ちなみに、ここでの主張から、より教養的なものをそぎ落としたのが大前研一の教育論で、義務教育で最低限の社会生活のルールと自動車免許をやればいいということになる。
ここを出発点に皆が考えあうことが出発点であろう。僕もここにあるような内容が自分の言葉として語れるようになりたいと思った。
苅谷剛彦先生と哲学者の西研さんの対談。
ゆとりある教育の根本にある「内発的動機」、個人の関心だけに重点を置く考え方を鋭く批判する。それが日本的な同調圧力の賛辞にならないように、「自由な社会」で生きる個人の力量を身につけるための教育という位置づけである。他者との関わり、社会とかかわって生きるために必要なものを身につける、「ゲームに参加できる」技量を身につけるという考え方だ。感じていながら言語化できなかった人もいるだろうし、気づいていてもいえなかったという人もいるだろう。ズバッといってくれたと思う。無責任な個性重視教育論者は読んで、今の社会状況を考えて猛省して欲しい。
ただし、二人はかなり理想を見ているのも事実だし、エリート教育を論じてはいないが、かなり教員のレベルが高いことが想定されていないかという印象は否めない。
ちなみに、ここでの主張から、より教養的なものをそぎ落としたのが大前研一の教育論で、義務教育で最低限の社会生活のルールと自動車免許をやればいいということになる。
ここを出発点に皆が考えあうことが出発点であろう。僕もここにあるような内容が自分の言葉として語れるようになりたいと思った。