Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

窓の汚れ

2009-09-15 12:22:39 | つぶやき
 ふだんは気にも留めない窓の曇りが気になってしかたない。特別に意識しているのは何なのだろうと思う以前に、そこにはただぼんやりした自分がいるものだ。ぼんやりしているからどこか曇りが気になる。意識的に物を注視していても気がつかないことが、意識的でないときに見えたりする。

 もう長い間窓を拭いていない。年末の慌しさの中で大そうじも似合わなくなり、正月は飛んでいってしまった。仕事が終われたと思うと、やれお歳暮だの新年だのと時は過ぎていく。そんな慌しい暮れを、ますます慌しくしたくないと窓拭きをするのを辞めた。「温かいときにすればよいだろう」と家族で納得したのに、以来窓は拭かれることもなく汚れを増して行く。

 テレビの雑学講座では掃除の頻度が紹介される。わが家はどの家よりも汚そうだ。「よくも掃除をそんなにできるもの」と思う間もなく、自らは闇夜に消えていく。夜の吹けることの早いこと。まるでわが家だけ時間の狭間にいるようだ。しかし気になるのは一瞬、少し時が回ると、もう忘れている。そのまま何日も何ヶ月も過ぎていく。

 時は人によって異なるもの。たった一分でも多くのことができる人もあれば、刻々と迫るタイムオーバーに押しつぶされる人もある。そんな仮想空間を体感することがある。テレビドラマに登場する時限設定である。刻々と迫る時の中で見る者の気を引きつけ、そのスリルを十二分に味あわせるのは、ドラマならではのことと解っているが、そこから自分にはない時間に身を置く人々が見えてくる。こんなことはできないと思う自分があり、つまるところ無力を知る。もちろんドラマであってそんなことは誰もができないのが当たりまえだと思っても。もしもという事故あるいは事件に遭遇したらどうだろう、などと仮想の世界を作る。きっと何もできないと思うとともに、こんなことができる人は信じがたい力を持っているのだろうと悟る。いかんせん窓の汚れがどこにも消えることがないのに、いつまでもぼんやりと映っている自分の視線の向こうには、もう誰もいないようだ。とてつもなく大きな山を前にして「果てしないなー」と思い諦めてしまう自分は、果たして後ろ向きなのだろうかと問う。そんなことはないと思いたいが、なかなかそれを解くことはできない。

 いよいよ寒さを覚える季節に、いつしか夏の声は消えていた。なぜ窓の汚れが気になるのだろう、などと自宅の窓の汚れを見、そして会社の窓の汚れを見る。終いには闇の中を走る電車の窓の外に雨粒が作ったであろう模様が浮かぶ。模様の向こうに見える外界との距離は、たったの数センチだというのに、そこには自分の顔がぼんやりと映る。いつしか時は過ぎ、電車はゆっくりとホームに着く。
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政治的プロパガンダ

2009-09-14 12:34:05 | 歴史から学ぶ
 八ツ場ダムの話は多くの国民がご存知だろう。「無駄な公共事業の象徴」というタイトルさえ踊る。無駄とはどういうものなのかを問いかけているようで、実は無駄の内容までは多くの人は知らない。最近は公共事業と言うと「悪」とまで捉えられるようになって、この雰囲気は誰がもたらしたかと言えば、マスコミとそのマスコミを利用した政治家ということになるだろうか。したがって無駄だろうが無駄でないだろうがそなことは関係がなく、「無駄」という言葉を充てて象徴させることができれば、とくに大型の目立つものへ掲げれば、ますます無関係な人たちへのインパクトは大きくなる。規模の小さなものなど眼中にない。

 関連工事も含めれば7割ほど進んでいると言われるこのダム工事。その7割についても水増ししていて実際はもっと少ないという指摘もある。細かい議論に入ると応酬の落ち着くところを知らない。そもそもこの地に住んできた人たちにとってみれば、人様に賛否を問われるほど腹立たしいことはないだろう。そもそも自らが住み着いてきた地域がダムの底になると言われて喜ぶ人はいない。反対があって当然のことで、例えば核廃棄物の処理を請け負うからといって手を上げて国の支えを受けようというほどの意識がある人はほとんどいない。いや現代においては手をあげてもそれを実行するだけの周囲の賛同も得られないし、政治家たちの恰好な舞台となってしまう。そういう意味では、かつて歴史上とすでに言ってもよいのだろうが、よくもというほどに地方の人たちを中心に国民は、国のためにと言われて虐げられた人たちがいたものだと関心する。そうした歴史の末端にきているとも言える現代に動いている大型事業。長野原町の大きな歴史を刻んできたこの事業は、反対のの時期を過ぎてみなが新たな方向を見出そうとしている。すでに歴史に刻まれているといってもよいのに、その歴史を止めようとしている。「元に戻せばよい」という意見もあれば「無駄の象徴として途中までできたまま残せ」という意見もあると民主党の公共事業関連議員が言う。まさに「翻弄」という言葉が似合う物語と化している。

 政治的なプロパガンダであるという指摘もある。もっといえば自民党の強い地域への制裁ともいえる行動。住民があえいでも、国民の支持は違うということになる。これを適正な政治だと思って政権交代を望んだとしたら大きな間違いを選択したということにならないだろうか。もちろん政権交代がこの一点を目的にしたものではないわけであって、冷静に捉えれば国を改める一歩になることは確かだろうが、だからといって票をくれない地域は制裁するという考えは改善にはならない。

 先ごろも触れたが、会計検査院が「国民に説明できるか」と問う際に垣間見た彼らの内心にある「国民」とは誰だろうと考える。それはごく少数の地方の生活にあえいでいる人たちではなく、大都市で生活している人たちが流す風ではないだろうか。そのかぜに地方も騙されてはいけないが、すでにそこには地方たるこころを持つ人も少なくなっていると言わざるをえない。
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草を取る

2009-09-13 20:00:14 | 農村環境
 先週は50m2程度の我が家の入口の草取りに4時間を要した。土が乾ききっていたということもあるが、車で常に踏みつけられていて、砂利と砂がしっかりかみ合っている地面はなかなかの固さで草だけつまんで引っこ抜こうとしても「プツリ」という具合に根が抜けずに切れてしまう。したがって草かきの先を使って土をほぐしてからでないと草の根まで抜き取れないのである。炎天下で草取りをしていると、このごろは日曜日に自宅待機している妻が口にする言葉が「除草剤を撒こう」というものである。もちろん除草剤は好まないのであるが、さすがに手がかかりすぎるとこのいたちごっこを何とかしたいという気持ちになるのはしかたのないこと。妻も最近はいろいろ疲れてきたという証拠なのだろう。数年前は米作りにおいて除草剤を嫌がって「撒け」といわれたのに撒かずに草を手で取り続けていた。ところが最近はなかなかその大変さが身にしみて、そしてほかの作業にも影響することもあってそういうわけにいかなくなったのだろう、よそよりは少なめであるが除草剤を撒くようになった。加えてそれでも発生する田の草を手で取るのも少しあきらめている。田の草を這いずり回って取る作業のつらさは、やってみたことの無い人には解らないだろう。諦めているから今年はわたしに「田の草を取って」という要求もなかった。収量が少なくなっても仕方ないと割り切っている。そんな妻の意識低下のせいか、自宅の庭の草に対しても「除草剤」が登場するのである。とはいえ妻は自然派志向だから安全な除草剤というものをしっかりと用意している。しかし、我が家に新しくやってきた犬は体重にして2キロ程度ということもあって、わたしとしては犬が庭を飛びまわっているから除草剤は撒かない方が良いというのが答えである。そんなやり取りもあって草取りが延々と続く。

 一週間後の今日は、一時にくらべるとだいぶ草の伸びが低下してきたものの、これまでおろそかになっていた比較的裏の方の見えない場所の草取りをする。昨日が雨だったということもあって、草取りには好条件。先週のようなことはないが、それでも予定量を終えることはできなかった。これで残った場所を次にやると、また伸びてきた場所の草取りとあいなる。結局今年になって一度も取れずにいる場所はそのままに置かれることになる。入口の庭は今年既に5回ほど草取りをしている。いっぽう1回もできないでいる場所は日陰だから目立ちはしないものの、いつも気になっている場所。果たして秋までに1回できるかどうかが課題である。

 かつては遠くでスピードスプレヤーの音が聞こえ始めただけで洗濯物を干しているサンルームのドアを閉めていた妻も、最近はけっこう近くで音がしても閉めなくなった。妻の環境への意識が低下しているのも解るような気もする。一年中必至に実家の農業を担っていながら、なかなかその小さな農業ですらこなせないほど雑務があって、加えて父も母も年老いてきてその面倒をみることに手がかかるようになったということもある。さらには弟が病に侵されたのも農業の担い手という部分で影響している。半年ほど前にも触れたことがあるが、南箕輪村の水田地帯にある農家に隣接してあるビニールハウスが、何棟も続いているものの耕作がされずに朽ち果てている姿を見た。きっと主が病に倒れたため朽ち果てる道を歩んだのだろう。農業を営むとはさまざまな環境が影響する。それは自然ばかりではなく、家族といったプライベートな部分ものしかかる。サラリーマンとはまったく違うのである。
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飯田線の高速化という主張について

2009-09-12 22:28:35 | つぶやき
 新宿と伊那谷を結ぶ高速バスは、飯田線が17便、伊那線が16便ある。いっぽう名古屋行きは23便。これを往復分計算してみよう。平均40人など乗ることはないだろうが、多めに計算したとして合計56便の往復、そして40人を掛けて365日分を出してみると年間163万5千人となる。電車を利用して新宿なり名古屋方面を想定した場合、後者はかなり少ないだろう。前者であっても一便に5人としても1日17便往復として年間6万2千人。かなり底上げした人数だろうが、バスと電車を合わせて年間利用者数は169万7千人となる。約170万人を逆に1日当りとして上下で4658人である。現状のJR飯田線の便数で割れば1便当り137人。1両に座席50人分として現在の3両で乗り切れる。もちろん上下が同数として割った場合であって必ずしもそううまくいくわけではないが。以上は仮に高速バス利用者が電車へ移った場合の計算である。

 実は現在の新幹線は1便あたり1300人ほど乗れる席がある。方向が異なるとともに往路復路があるから、1日あたりの利用者は上下1回停まれば乗り降りできる程度の利用者である、この高速バスの利用総数は。

 JR飯田線は高速バスに長距離客を奪われるとともに、地域交通となった飯田線。その理由は駅が多くカーブが多いための低速運行にある。さて、リニアについては何度も触れてきたわけだが、ここで仮の計算をしてみた。近ごろ信南交通が路線バスのいくつかを廃止した。それに代わる地域交通が行政によって継続されることになったが、マイクロバスで運行される目的は、「地域住民の足として」という。これでは地域外の人に視点は当たっていない。ようは稀にある観光客などの利用者はまず相手にされていないということになる。そもそも地域住民のためといってもその利用者は少ない。この「地域住民のため」という言葉に誘われて、なぜかリニアにトレースしてみようと思っての試算である。

 試算から解ることは、多めに見ても現状の長距離利用者は大変少ないということと、その利用者にしても目的地が都心であったり名古屋中心であると限られたわけではないから、すべての客がリニアに移るというわけではない。前からも述べているように飯田線が高速化したとしても、これらの客がすべてリニアの駅までやってきてリニアに乗車するというわけではない。飯田に駅があったとすれば、伊那以北の人たちの利用度はかなり落ちる。もし利用度が上がるとしたら逆に中央線が不要になってしまう。ここに「地域住民のため」という視点をあてれば、簡単な答えは出せないことになる。

 仮に飯田だけに駅ができたとしよう。1日あたりのこれまでの利用者は微々たるもの。高速化をねらう都会の人々の立場に立てば、この駅に停まる回数は限りなくゼロに近くてよくなる。飯田線を高速化して利便性を高めれば利用者が格段と上がる、などという地域ではないことがすぐに解る。よほど駅周辺に通勤客がたくさん住むようになれば別であるが。いや、駅の周辺だから飯田線の高速化は必要なくなる。そして高速化したとしても利用者が増えないことは明白で、この主張が適正でないことは誰でも解るだろう。
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記録を続ける

2009-09-11 12:49:28 | つぶやき
 この日記を始めたのは2005年の7月7日である。今日が特別な記念日でも何でもないが、ふと振り返る気持ちをもったのは、だいぶ疲れが溜まってきたためだろうか。当時は毎日記述するという思いはとてもなかったが、約1ヶ月半を経た8月18日に記録を休んだのを最後にちょうど4年、一応毎日記述してきた。以前にも書いたように目標は2キロバイト以上800字くらいを最低に1000字から2000字くらいの範囲で記載している。今は電車の中でおおかたのものを書いているから特別に時間をとっているわけでもない。したがって記憶にある部分で書くからあまり多様なことも書けないし情報量は極めて少ない。曖昧な部分は家に帰ってから確認すことはあるが、そこに時間をかけてしまうと長続きしない。したがってけっこう間違ったことも書いているのだろうと思うのだが、指摘もされないから気にも止めずに書き続ける。以前にも書いたがあくまでも日記だからそれでよしとしている。

 実は毎日書いてはいるが、実際は調整したことが何度かある。気がついたら既に午前零時になってしまい翌日になってしまうということもある。ところがこれだけ開けずに書いていると空白の日ができてしまうのはどうも気になる。だからこのブログは日時を投稿後修正できるからそんな調整をときおりするのだ。午前零時を過ぎれば翌日なのか前日なのかというところは曖昧なもの。基本的には眠っていないうちは前日になるのだろうが、機械はそうは思ってくれない。確実に午前零時を過ぎれば翌日に日は変わる。そんなこともあって翌日が忙しくてきっと書き込むことができないだろうと思ったりすると、逆に午前零時を待って翌日分を書き込むこともある。そこまでして何の意味があるのかといえば何も意味はないが、長く続けてくるとそうしたくなる。休日の日は電車に乗らないから書き込むのが午前零時ぎりぎりになる。そんな時はけっこうくだらない内容で分量が少なかったりする。あらためて確認したわけではないが、土日の投稿時間が午後11時代後半のものはそういう日記が多いはず。ようは休みが長く続くとつらいのである。人さまの日記を拝見しても毎日書き込んでいるものはけっこう多い。それどころか毎日たくさん書いている人もいて、どういう1日を過ごしている人なんだろうなどと思ったりする。世の中にはすごい人がいるものだと思って、そんな時は日記を書くのを辞めたくなったりする。

 今日はどうでも良いことを長々と書いた。先日知人から久しぶりのメールが届いた。土日を挟んだ研修でつくばに来ているということ、そしてせっかくだからといってその方面にいる民俗学の仲間と休日を使って飲んだという。そんな中でわたしの話題が出たという。この日記で書評とまではとてもゆかないまでも、思うがまま好き勝手なことを書いていた。そこで批判めいたことを書いたのかもしれないが、そのことを書いた本人が気になっているというのだ。素人が趣味で興味をもってやっている程度のこと、専門家の方たちとはレベルが異なる。それでもそんな具合に話題にしてくれるのはありがたいこと、感謝である。

 わたしの日記はちまたの多くのブログ同様、実名で公表していない。しかし例えばブックマークのリンクを追っていけば、わたしの実名など容易に見つけることができるし住処もだいたい解る。しかしこの日記だけを読んでいてもなるべく素性は解らないように記述している。きっと実名で書いていたら「ここはこういう風には書かないよな」と思いながらの記録である。だから現実とは意図的に異なって書いている部分もある。言葉もそうであるが、書くときにもまったく本性丸出しで書くなんていうことは、非公開の日記でも躊躇すること。いや、従来の筆記タイプの日記だって、自分以外の人が読む可能性が無いわけではないから、必ず戸惑うことはあるものだ。書き記すことは言葉による伝承に比較すれば正確なのだろうが、むしろ残されるという事実から、嘘を書くことだってあるのだ。
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京都にみる町家の暮らしから

2009-09-10 12:27:44 | 民俗学
 『日本の民俗10 都市の生活』(吉川弘文館2009/8/10)は、これまで発刊された同シリーズの中では意図をあまり見せない読み物となっている。読み物であるからそこに展開されたコマから印象に残ったものをピックアップしてみよう。「伝統的な都市の民俗」と題して村上忠喜氏は京都の町家について触れている。『洛中洛外図屏風』に描かれた風俗画を注意深くみていくと興味深い点が多いといい、「米沢市本」の左隻第3・4扇には正月風景が描かれていて「町家の表に飾られる注連縄と同じものが、裏の出入り口にも飾られている」といい、「往時の人々は表と裏の出入り口に著しい格差をけなかった」のではないかと言う。けして京都の町家が全国の商人の原点になっているというわけではないだろうが、町家の「表と裏」という話を聞くと、商人の表裏の顔が浮かんでくる。そもそも田舎の農家に育ったわたしのような人間には、商人には騙され易いという傾向がある。田舎なら「人を信用する」というところに行き着くかもしれないが、商人は経済至上主義の現代に即した商売の顔を持つ。けして商売をしていた人でなくとも、町場に生まれ育った人たちとはどうも上手くいかない、上手く付き合えないのは、かつての農村育ちの人間の宿命である。もちろん時代は変わり、今ではそういう落差は無くなってきているだろうが、いまだに「田舎者」という言葉が吐かれるし、そこに地方出身者の思いが置き去りにされている。置き去りにされたからといって忘れられることはなく、永劫にその意識は消えることはないだろう。裏口が農家にあってもそこから別の世界と関わりを持つということはない。そういう意味では、京都の町家にはかつて裏の空閑地を介した住民同士のつきあいがあったと聞くとなるほどと思うとともに、それを商人へ飛躍的にトレースしてしまう自分がいのである。町は通りを介して一つの町を形成するのはどこも似通っている。地方の町でも通りごとに町名が充てられていて、そこを一区切りとしての生活がある。しかし考えてみれば背中合わせになっている町は別の町ではあるが、裏口を開ければそこは別の町への表となる。表裏を意識せざるをえない環境がそこにはあるのかもしれない。とても農村で生まれ育ったものには想像できない環境といえる。ましてやかつての京都の方形街区中央の空閑地のようなものがあれば、そこにはマチの表とは異なった三つの町の暮らしに接するわけで、連携された暮らしがそこに展開されたのかもしれない。

 ところで京都では「年に数回、いわゆるハレの日に、表の間の格子を外したり、玄関を開け放って、ミセノマを中心とした座敷部分を飾り付けてみせるという民俗がある」という。その代表的な例として祇園祭の最中に山鉾を出す町内およびその周辺部でおこなわれる「屏風祭り」を紹介している。近年ますます屏風祭りが知られるようになったというが、同じことは全国各地でも行なわれていた。以前松本において調査を行なった際、この「屏風祭り」の話を聞いたことがあった。「戦前までは商店は仕事を休み、店の物を奥にしまい、畳にじゅうたんを敷いてびょうぶを立てた。びょうぶを立てることで店の物を隠したわけである。どこの家でも自慢のびょうぶを立てたのでびょうぶを見物に訪れる人が多くなり「びょうぶ祭り」といわれるようになった」と報告している。京都の風習が伝わって始まったものかどうか定かではないものの、全国に同じようなマチの祭りの共通性があるとすれば、祇園の流れがそこにはあるのかもしれない。そんな共通点を探ると、同じように松本と京都に似通った風習があることを察知する。

 村上氏は京都では大正時代前後になくなってしまったヨイサッサという子どもたちの行事にも触れている。ヨイサッサとは8月の初旬、子どもたちが列を作って、笛、太鼓、拍子木で囃しながら合唱して付近の町を歩き回ったものという。「八月が近づくと、親たちは、ヨイサッサで子どもたちが使う紋付入り提灯や浴衣、囃子の道具などを揃えるのがおきまりのことであった」という。また男児と女児に分かれて列を作っていたという伝承もある」と書いている。具体的な行事のイメージは解らないが、松本で現在も伝承されている女児の行なう「ぼんぼん」という行列をなす行事に似ていたのではないだろうか。松本では同じ季節に男児の行なう「青山様」という行事もある。どちらも列を作って町内をめぐるという部分は似ているし、行事にあわせて浴衣を新調するということもあったといい、詳細な部分はともかくとして情景的には京都というマチと地方のマチで重なるものがあるということである。
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農業政策の行方⑤

2009-09-09 12:22:45 | 農村環境
 非正規雇用が批判されて正規雇用へという政権の交代とともに流れが起きるのだろう。しかしである、ここまで触れてきたように農家がサラリーマンへと変化を遂げるに際して、その理由には正規雇用という確約された働き口が農業から足を遠ざけたという事実がある。わたしは既に若くはない。今からでも農業で食い扶持が保てるのなら、あえて農業に踏み込んで行っても良いと思っている。しかし、その踏ん切りがつけられるような選択までは至っていない。定年退職後の余生という言い方は悪いかもしれないが、多くの零細農家は少なからず退職後の働き口として農業に踏み込んでいく。しかし、今後もそうした流れが続くというものではない。もはや退職前に農業をやろうとしっかりその技を教授しようという農家の子どもたちは少ない。とりあえずやってみればできるだろうという程度に始める人もいるだろう。生家でも父がいまだに現役で農業を担い、畑にも多様な野菜を育てている。しかし、米はともかくとして野菜に至ってはほとんど兄は手を出していない。現在では退職したからといってすぐに家に入り自家の農業をやろうという人も少ない。ようは親が継続してきたものを受け入れる間もなく、親が他界してしまうということも珍しいことではない。これはまだ農業をやってみようという場合であって、そもそもその気のない子どもたちも多い。

 定年まで確実に働けるか定かではないわが社において、いかに農業を継続するために自分が今後を生きるか、と考えたとき、そこそこ体が言うことをきくうちに足を踏み入れるという環境があれば、いくらでもそうした決断ができるのに、今の農業にはそうした環境はない。ましてや大規模化されるなか、ますますかけだしの高年齢の農業参入者には関われない背景が作られようとしている。大規模化が現実的ではない地域にあって、どう農業を継続させていくかという視点に立てば、むしろ非正規の農業者が関われる仕事があって、その上で農業も専念できる環境があれば、まだ多くの農家の子どもたちが農業を継いでくれるのではないかとわたしは思う。そしてもはやその最期の段階にきていると思う。

 信濃毎日新聞9/9論壇において学習院大学の岩田規久男教授が民主党の戸別補償制度について、「日本の農業の持続性と自給率を引き上げるためにもっと必要なことは、小規模経営を可能にすることではなく、経営規模を拡大して生産性を引き上げることである」と小規模農家を含めて農業の継続を可能としようとする政策を批判している。農業工場とか企業化とかそして個人であっても大規模化とか、そうした農業に転換すればよいというコメントはこの項を始めたきっかけになったブログの筆者にしても、こうした学識者にしても持っている。かつてあれほど大規模化に向けて施策を打ち出したのに政府の思惑通り実現できなかったことを、いまだに口にする人は多い。もちろん企業参入という面は近年の視点ではあるが、いずれにしても日本の国土のすべてでそういう視点で農業政策を打ち出すのは不可能というより、不採算地域は明らかに見捨てることになる。ここに前回までにも触れたように、何を守るかという基本的なものが関わってくる。岩田氏の持続性と自給率という視点の結論には、自給率の低い農産物の背景改善には必要だろうが、それがすべてではないことは明らかである。いかに零細農家を減らさずに、持続して自らの食料を生産させてくれるかということも必要だと思う。それは強いては農業空間の総体的維持にもつながるわけである。最後にもう一度シュミレーションしてみよう。西天竜幹線水路にかかわる維持費を例えば企業が担って農業を引き継いだとしよう。その莫大な費用を削るためにまず施設は手放すことになるだろう。するとこの地域の景色は一変する。水稲は生産できないから陸稲、あるいは水をあまり必要としない作物に転換せざるを得なくなる。それが経営的に可能なのかどうなのか解らないが、すべての土地を有効利用することは不可能なことになる。無関係な生活者にとってみれば、水の潤いはなくなり、いっぽう降雨時の水の行き場はなくなる。もちろんそれを自治体が整備していくという方法が取られるのだろうが、農家が維持する用水路の視点と生活者が見る排水路の視点は異なる。ますます悪者となる広大な空間が管理しなくてはならない施設は、その維持の責任の所在が問われることになる。いかに零細農家が空間を維持するために小さな力を発揮していたかがよく解るはずである。

 終わり。

農業政策の行方①
農業政策の行方②
農業政策の行方③
農業政策の行方④
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農業政策の行方④

2009-09-08 12:37:52 | 農村環境
 前回、農家の定義に「30a以上または年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家」というものがあった。妻は毎日実家の農業をしに通う。そこには農業という生業だけではなく父や母の面倒を見るという役目もある。したがって妻にとって生業は農業だけであるが、必ずしもそれは生業としては認められないかもしれない。なぜならば収入がほとんどないからだ。冒頭の定義に当てはめれば、妻の実家は販売額から捉えれば明らかに後者にあたる。しかし総農地所有面積は30アールを越えているから自給的農家ではないのかもしれない。妻の実家ではいわゆる減反はほとんどしていないに等しい。耕作可能の水田であって転作している水田面積は1アール余であって、転作として義務付けられている面積には到達していない。ところが登記上の水田という見方をすれば、荒廃地あるいは山になりつつあるような土地を加算すると3割から4割近い水田を転作していることになる。いや、作っていないから転作は該当しないかもしれない。以前にも触れてきたが、歩く道しか無いような場所の土地を耕作するのは至難の業である。

 妻の実家ではわたしと結婚したころは販売額が数百万ほどあった。米はもちろんピーマンやキュウリ、花卉、干し柿、梅、うさぎなど多種の収入源を利用して細かく積み重ねていた。とくに大きなものは野菜や干し柿だっただろうか。父が農作業中に怪我をして片足を失うことになり、これ以後販売を縮小していって、今では販売しているものは干し柿くらいであるが、その干し柿も品質向上が叫ばれて零細農家では設備投資という面で対応不可能になっている。間もなく干し柿の販売額もなくなるかもしれない。米もそこそこ作っているのに今では販売しない。妻がいわゆる有機農業や無農薬にこだわってきたこともあって、とても販売できるだけの収穫がなくなってきたことも理由のひとつ。日々農業に精を出しているというのに、販売額が無いとは「できた物をどうしているの」ということになる。まさに今回のことを契機にあらためて妻に問うと、ほとんど消費しているのと人にあげていると言う。年間にすればわたしの働いている時間もそこそこになる。それでも無収入に等しい。これを無駄だといわれれば確かにそうなのかもしれないが、わが家での自給率はかなり高い。ようは食費にかけない生活がそこにはある。販売額はないが金に換算した食費という面では明らかに収入に値するだろう。もちろん労働の対価という面で調べれば元をとっていないのだろうが、日本の農業はこうして続けられてきた。かつて販売額がそこそこあった時代とさほど耕作している面積に差はない。ようは些少な面積でも土地利用率を上げればそこそこの販売額を上げることは可能だ。しかし、その少しばかりの農業への意義も、今は消されようとしている。この項を書くに当たってChikirinの日記という記事を引用したのだが、そこにある意識は明らかに国民に広がっている。

 知人である団体の事務所に非正規として働いている人は、ほぼ年間を通してそこに席をおいているが、主たる生業は農業である。彼は自然農法に精力的であるが、曰くそうした稲作を行なうにはせいぜい数町歩が限度という。何十ヘクタールという規模はできないということだ。食の安全が叫ばれるなか、有機やら無農薬が付加価値としてあるが、なかなか生産量との両立は厳しいのである。

 さて、妻の実家のまわりを見渡してもいわゆる販売額で販売農家と言える農家はほとんどない。隣組で唯一100万を目標で地元の直売所に出している家では、食べるものはすべて購入して、作ったものはすべて直売所に出荷するという変わった人だ。安い食材を購入して作ったものは出荷する。いわゆる販売農家に戸別補償をするというのなら、この家の方法は正しいのかもしれない。販売農家を対象に戸別補償をするといえば、皆が米を作るだろうが、民主党の方針ではここに転作を義務付けるという。転作を実行すれば補償するがそうでなければ補償しないという条件をつける。補償してくれる品目を変えることで自給率低下を招いている農産物をコントロールすることになるのだろう。

 平地農村のようなところではこんなことで悩むことはないのだろう。しかし、中山間地域における農業は販売額が少なく、「趣味」と言われても致し方ないものかもしれない。しかしそこで繰り広げられている農業はそう例えられるようなものでないことだけは事実である。

 続く。
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農業政策の行方③

2009-09-07 12:31:38 | 農村環境
 有賀功氏が「長野日報」9/4版の「農のあした」でJA全中の富士茂夫専務理事の次のような文を引用して「全く同感」と述べている。「さまざまなコースがあって、それを選択するのは農家だということなら合意できるが、最初に要件があってそれを満たさなければ(補助)の対象にならないというのはだめだ。…そんな国はどこにもない、…もっと兼業農家をポジティブに位置づけるべきだった…兼業農家はわが日本農業にとって必要なんだ、それが農村を支えていてこの国のかたちとして必要である」というものである。先のChikirinの日記では、「平均68才の人が、ごくごく小さな田んぼを持っていて、めっちゃ非効率にお米を作っています。米作りに関しては年間3万円くらい儲かるだけだが、昔田んぼだった一部の土地をパチンコ屋に貸してるんで、その賃料で生活できてます。この人達は本当に農家なのでしょうか?“農家”じゃなくて、“農業園芸が趣味”とおっしゃる高齢者家庭とか“米作りが趣味のおじいさん”と呼ぶべきなんじゃないの??」と言う。確かにそういう程度の意識で農業をやっている人がいないわけではないかもしれない。しかし、明らかにその捉え方は農業をそして農家を認識していないと言えるだろう。そう捉われても致し方なし、と思う農家も多いだろうが、全く解っていない人に言われると反論したくなるものだ。

 ここで日本での農家の定義を確認しておこう。農家とは①耕地面積が10a(1000m2)以上の個人世帯、②耕地面積が10a未満の時は、年間農産物販売金額が15万円以上の個人世帯とされている。このうち30a以上または年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家としている。話題になっている農外所得であるが、兼業農家は農外所得に依存することになる。そもそも「兼業農家」という言い回しは農村において暮らして農業を少なからず行う人々をくくる言葉として、わたしは適正とは思わない。複合型生業のひとつとしての農業があって、その農業は国にとって根幹的なものであるから、兼業であっても「農家」という称号が与えられてきた。農業を主にしていてはそのほかの産業を生業としている人たちと格差がついてしまうため、農家といわれる人々は複合的に他産業に従事した。しかし、農業の衰退とともに農業を主としても生きられないと悟ることになり、たまたま世帯の中で農外収入を得られる者は他の仕事に従事していったわけである。あくまでもその走りの時代は農「家」であったのである。ところが農外収入を得る者たち、ようは子どもたちがその部分を担ってきたわけであるが、彼らが一人立ちしてしまうと、農業は「家」で行うものではなく個人で行うものへと変わって行った。すると専業と兼業を同じ土俵で語るわけには行かなくなったのである。しかしだからといって専業農家へ、大規模化へ進めれば良いというわけにはいかないのである。

 ここで事例を出してみよう。わたしがよく話題に出す西天竜幹線水路。この水路の受益地はすべて水田である。約1000ヘクタールを潤すのであるが、これを大規模化した農家で耕作するとすれば、たとえば50ヘクタールを一人が耕作すれば20人(戸)の農家でまかなうことができる。大規模化が理想とすればそうすればよいだろうが、もしそうするとなると西天流幹線水路を維持管理するにはこの20人が担わなくてはならない。幹線水路と末端水路の維持管理をこの人たちだけで行うのは不可能と言わざるを得ない。26キロ近い幹線水路と、200キロを超える支線水路を管理することがいかに大変なことかは、農業を傍観している人たちには語ることはできない。もしこの水路を維持することに金がかかって費用対効果がないと言うのなら、施設を捨てれば良い。しかしそんなことが簡単にできるはずもない。零細農家が関わっているからこそこの施設は維持されてきた。いや、その零細農家ですら減少してきて、将来にわたって今までのような維持ができるかどうかは不安が多いようだ。日本の農業がいかに採算のとれない農業であるかは農家の誰もが知っていることなのだ。

 農家を守るというだけではなく、農業には複合的な環境が重くのしかかっている。政策が農業を守るのかそれとも農村を守るのか、あるいは国土を守るのか、など何を優先しているかによって変わってくる。食料は安く買い入れ、地方は必要ないと思えば、いらぬ外国との調整も不要となる。ところがそうはいかないと国が思っていても、国民が解ってくれるわけではない。なぜならば農業従事者は激減してきたのだから。もはやかつての農家の子どもたちですら、農業に何も期待していない人は多い。それは農業に関わる環境の悪い面をたくさん見てきたからだ。農外所得がたとえほとんどであっても、こうしたさまざまな負担に対して国民皆が負担していくという気持ちが無い以上、農業の先は見えてこないとわたしは思う。そういう意味では戸別に所得補償をするという行為は、ますます農家や農村を分別してしまうとともに、戸別に支払ったからという気持ちが無関係の人たちに生まれれば、補償された農家の責任は大きくなるのではないだろうか。日本には合わない政策だとわたしは思う。もちろん今までの政策が適正だったと言っているわけではない。

 続く。
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40‰

2009-09-06 19:38:23 | 歴史から学ぶ

 飯田線の沢渡―赤木間にある藤沢川の鉄橋の北側すぐにある標柱は、これより40‰の下りというものが下り方面に向かって立つ。そこから約230メートル北に下るとこれより40‰の上りという標柱が上り方面に向かって立つ。たった200メートルほどであるが、ここがJR鉄道全線の中でも最急勾配区間だという。藤沢川が段丘を削りだして押し出した天井川を造っていて、この天井川を越えるために沢渡からほぼ平らに南進すると一気に鉄橋まで上りつめるのである。いったん鉄橋上で緩勾配になり、鉄橋を超えると再び33.3‰という勾配で赤木駅に向かって約800メートルほどの長い坂を上っていく。とはいってもわたしはつい最近までここがJRの最急勾配区間だということは知らなかった。毎日この区間を通勤で乗車しているが、坂であるという印象はどこかにあるものの、それほど急であるという印象は無い。沢渡駅を発車するとスピードを上げていき、この坂を難なく上っていく。スピードが落ちるという印象もほとんどない。最急勾配区間が200メートル程度という短さがそう思わせるのだろうか。むしろΩカーブで減速して走る飯島―伊那本郷間(与田切川鉄橋から伊那本郷駅までの間)の坂の方が減速するだけに急なのではないかと思っていた。あるいは伊那大島―山吹間とか元善光寺―伊那上郷間もけっこう勾配がある。

  実はこのことを知ったのは最近刊行されているシリーズもの週間「歴史でめぐる鉄道全路線」(週間朝日百科)創刊3号からである。あまり一般には知られていない理由は、1997年に廃止されたJR横川―軽井沢間の碓氷峠越えの66.7‰が有名なこともある。現在は廃止されてしまっているわけであるが、廃止後もJR以外にはこの沢渡―赤木間より急な箇所があって、はるかに緩勾配であるこの区間の勾配が見劣りするということも理由だろうか。それにしても沢渡―赤木間に最急勾配区間があると知って「あそこだろうか」と思ったのは藤沢川から表木へ上っていく長い坂である。ところがそこではなかった。平行して走る道路からその場所を探してみると、確かに藤沢川へ上る坂が急であるということは察知したが、乗っているとまったくそんなことは感じない。ようは電車にとってみれば40‰など「へのかっぱ」程度なのである。

  さて、たまたま鉄道シリーズが朝日新聞出版社と集英社で発行されていて、前者は7/26発行号、後者は8/6発行号と接近していた。どちらも長い飯田線を扱っているから全線を網羅するには紙面が限られている。したがってどうしても「飯田線」と思って開いてみても、身近なことが「載っていない」と思う人も多いだろう。とくに後者は飯田線を南の方から紹介していって、けっきょく駒ヶ根あたりで打ち止めになっている。ようは伊那市あたりのことは書かれていないから、伊那市あたりの書店に並んでも売れないだろう。証明するように市内のいつも寄っている書店でも表紙を見なかった。いっぽう前者はまだ少しばかり伊那市近辺のことが紹介されていて、その一つがこの急勾配区間のことだった。それでも長ーいこともあってほんの少ししか身近に感じないからあまり売れる感じがしない。いまだにその書店には残部が棚に並んでいる。売り切れない前に買おうなんていう心配はまったくなかった。

  撮影 2009.9.4  写真は上り方面(飯田方面)に向かって撮ったもの。確かにここから急になっているのが解る。

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農業政策の行方②

2009-09-05 21:23:16 | 農村環境
 さて前回に引き続きChikirinの日記より「農政に見る民主主義の罠」から引用してみよう。「美田を残したい」という意識は確かにある。高齢化して基本的に生業が農業だった農家にとっては土地を荒らさないという姿勢がある。だから自分の目が黒いうちは「荒らすわけにはいかない」という気持ちが多くの農家にあることは事実。しかしそれもだいぶ揺らいできた。なぜならばこれほど荒廃地が増えてくると自分だけ、それも大きな空間の小さな部分だけを維持していても尽きない悩みを抱えることになる。彼の言うような公式は既に成り立たなくなってきている。だからこそわたしは農業農村の終焉を感じている。もはや彼の言うような農村の姿はしばらく前のこと。

 「彼らが70才近くになっても全く儲からない重労働の米作りを止めないのは、「農地」という形にしておかないと、相続税も固定資産税も全く優遇されなくなってしまうからです。そのための“米作り”なのです。息子に相続税なしで美田を引き継ぐため、自分が生きている間の維持費を格安に保つために、米作りはやめてはならないのです」と言うがこれも正しくはない。実は米作りは思うほど重労働ではない。ただしそこには農業機械という設備投資が必要で、これがまた収支に影響している。たった1ヘクタール程度の水田でもひと揃えの農機具を用意する。永久にそれが使えるわけてもなく、好調に動いてくれるわけでもない。にもかかわらずこれが無ければとても今の稲作はやっていけない。それをカバーするべく協業とか今なら集落営農という形に移行してきた。ようは作業の部分委託や総委託である。農家という定義も今では正しいかどうか判断しがたいほど農家の現状は複雑化してきた。相続税や固定資産税のことを考えて耕作しているなんていうのは農業をまったく知らない人の言葉である。そもそも美田であっても荒れていても税金には関係がない。ひどい話ではかつて道路として土地を寄付したのに登記されていなくて、ずっと道路敷の税金を払っていたなんていう話もけっこう多い(だいぶ解消はされてきただろうが)。なぜ零細であっても農業を続けるかという点にこだわれば、その農業を営んでいる世代は彼も指摘しているように高齢者だからである。高齢者はサラリーマンならすでに定年退職の歳である。にもかかわらず働いている。それが農業を継続してきた意識の現われであって、食べるものは自分で作れるうちは作る、という意識があったからだ。ここにはあくまでも継続の中にあって「それで生きていけるから」という余生的な発想があり、その子や孫の世代がそれを踏襲するとは限らないのである。これがあと何年かすると農地の荒廃がさらに進むであろうという予測の原点にある。税金のことを考えれば雑種地に転用してしまった方が安くなるはず。よく長野県は高齢者就労率が高いといわれる。零細農業であるから多種多様な生業を組み合わせて食い扶持を維持してきたといえる。だからこそ零細農家であっても働くことによって生活の足しにするという意識が強いはず。後にも触れようと思うが、これは兼業と言われるものではなく、複合農業の一種と言える。有賀功氏は「長野日報」9/4版の「農のあした」の中で集落営農について触れている。必ずしも集落営農が今後の方向かどうかはともかくとして、耕作もできなくなった高齢者の所有している農地を、組合のほかの人たちが担っていくというかたちはけして悪いものではないという。難しい問題もはらんでいるが、できる限り農業を継続させるという最低ラインを意識してみると、確かに確実な方法のひとつである。失政だったと言われる農業ではあるが、後出しでなんとかカバーしようという試みはされてきた。ただころころと転換していく施策に、終焉を延ばしているだけという印象を農家の誰もが感じている。票取りのために施策があるならとうに農業は終いになっていただろう。

 続く。
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農業政策の行方①

2009-09-04 12:40:22 | 農村環境
 BLstoneさんに紹介されて「Chikirinの日記」というものを拝見した。そういう考え方もあるだろうと思う部分も多く参考になるが、世の中はいろいろということを人の日記を読んでいるとつくづく思う。しかし、気になるところも多い。最近の記事に農業政策を扱った「農政に見る民主主義の罠」というものがあった。彼が言うとおり、今回の総選挙のマニフェストをみても農業政策については代わり映えがしなかったかもしれない。それだけ農業政策は容易には見えないというか政治家にも読みきっている人がいないのだろう。彼は零細農家をお助けすることは必ずしも嬉しくないようだ。その証拠は票読みをして民主主義を滑稽に捉えているあたりに見える。まず問題なのはこの票読みである。零細農家のほとんどが自民党政権を支持していた、あるいは自民党票を支えていたなんていう視点は大きな間違いである。ほとんどそんな人たちしか住んでいない地域であっても十分自民党以外の票が今までにも入っていたわけで、彼の計算は明らかに揶揄である。まして主が自民党を支持しろといって同居人がみな同じ票を入れるなんていう会社ぐるみみたいな行動は明らかに零細農家の方が無いといってよい。ようは彼の計算は成立しない。計算が成立しない以上、「あなたが政党のマニュフェスト政策担当者であれば、まずは極小農家に最も有利な政策を提示し、次に都市部のワー(ママ)プアや子育て家庭への補助金を盛りこむことでしょう。農業を本当に支えている人達、農業で食べている人達、すなわち、“本当の意味での農家”など、眼中にも入れずに」という意見は成立しないし、これでは当選しない。ましてや今回の民主党の言う戸別補償制度は零細農家を助けようというものではない。

 彼は「自称農家の農地を、農業で食べている農家に売りましょう」と言う。売買はともかくとして同じような政策は今までにいくらでもされてきた。にも関わらず大規模化が進まなかったのは土地神話的なものがある。道を作ってもその道を欠いてでも自分の耕作地を増やそうとする農家の心の中には、都会の境がコンクリートで明確化されている空間に住んでいる人たちとは違う思いがある。そこに視点をあてて批判するのも良いだろうが、なかなかその意識までは理解されていない。公の土地なら誰でも手を出せる、ようはかつての入会地的発想が公という空間に錯綜する。もちろん公でなくとも隣家との境界域でもそうした駆け引きが繰り返されているが、そこには農地空間での掟のようなものも生まれている。それほど土地にこだわってきた以上切り売りしていくことなどなかなかできない。それを解消する方法としてほ場整備というものがあった。個人の土地を公共事業で整備したのは、ある意味大規模化への道だったのである。この整備がなかったらもっと零細農家が多かっただろうし、荒廃地が多くなっていたはずである。

 さて話が長くなるのでひとまずここで止める。いずれにしても農業に対してこういう見方をする人たちがたくさんいることに不安を感じるし、こういう意識で政権にもの申されてはひとたまりもない。

 続く。
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分水施設に見る地域性

2009-09-03 12:38:47 | 歴史から学ぶ

 西天流幹線水路の32号系の支線用水路には円筒分水工が3基ある。最も下流にあるものは伊那市駒美町の北にあるもので、3方向に分水している。およそ340メートルほど上流にある御射山社の脇にある円筒分水工によって3方向に分水された用水、三度円筒分水工で分水されるという技のある用水路である。ところで西天流にある円筒分水工は小型のものが多い。支配面積にして大きくても100ヘクタール程度ということからも自然と小型のものになるのだろう。末端にいって支配面積が小さくなると円筒ではなく角型の水槽になるものの、分水の仕組みは円筒分水工を踏襲している。

  まずこの32号系統の第3分水工についてみてみよう。手前の角型の水槽に流れ込んだ水は、ここからヒューム管で円筒分水工のど真ん中まで暗渠でつなぎ、そこから縦にすえられたヒューム管で真上に吹き上げられる。その外周に円形の壁が設けられる。円筒の水槽だと思えばよいわけでそこに12個の窓が設けられて窓の数によって水は配分されるのである。ここでは6:5:1で3方向に分水されていて、6は写真の向こう側である東へ分水、5は右側である南へ分水、1は左側である北側に分水されている。円筒の内径は2.3メートル、3番目というだけに1、2番目のものよりは小さくなっている。ちなみに第1は内径3.6メートルで2方向分水、第2は内径2.3メートルで3方向分水である。窓いわゆる堰の大きさは幅15センチ、高さ25センチですべて同一規格。側水路の幅は43センチである。写真でも解るように鉄板で窓を隠している部分がある。6個の窓を配している東側への分水の両脇二つずつの合計4個の窓が塞がれているのである。6個のうちの4個が塞がれているということで必要とされている窓は2個。この下流域は段丘をひとつ下ると住宅街に変貌している。かつては水田地帯であったところが転用されて水がそれほど必要なくなったということもあるのだろうし、住宅街ということで余分な水を流して溢れたりすれば苦情のもとになるということもその背景にあるのだろう。円筒の壁は12センチと薄いこともあって老朽化している施設では鉄筋が露出している。その天端の部分は幅を広く縁を設けてあっていわゆる飾りが施されているあたりは、機能だけではなく見た目も考えて造られたということが解る。

  さて、円筒分水ばかりに目がとまるが、前述したように、小型の分水工もこうした構造を応用している。単純な矩形水槽でありながら、分水の前に隔壁を設けて流れ込んできた水はいったん隔壁下の開いている口を通過して分水部分に上がる。ようは流速を抑えて、もちろん直進方向により水流は引かれるものの、直角方向に向いている分水にも少なからず配慮しているのである。このため水槽そのものが大きくなるわけで、隔壁が水没していると、この程度の分水になぜこんなに大きな水槽が必要なのか、と思うほどに見える。しかしそこがこの地域の思いなのだろう、均等に分水させることを第一に考えてのことなのである。事故が起きたということを聞かないのが救いであるが、大きいからこそここに落ちたら「溺れてしまう」という危惧はある。しかし混住化している地域でありながら水田地域と住居地域にけじめがあるような印象がある。もちろん犬の散歩はもちろんウォーキングをする人の姿もあるが、あくまでも農業を営む人と暮らしている人には境が設けられていて、それがこうしたけじめのようなものを醸し出しているのかもしれない。それがこの時代に良いかどうかはまた別の視点もあるのだろうが、このけじめがこの地域らしさなのだと思う。

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歴史的と言われる選挙を終えて②

2009-09-02 12:51:46 | つぶやき
歴史的と言われる選挙を終えて①より

 必ずしも全ての選挙区の傾向ではないのだろうが、例えば長野県内の選挙区をみても明らかなことは、選挙区では自民党議員に投票しても比例区では民主党へ投票した人がけっこう多い。考えて見ればたまたま選挙になって候補者に触れることはあったかもしれないが、看板は「民主党」であって個人の看板ではないという印象があった。とくに今回は初当選議員が多い民主党。当選した議員の2割ほどは1年生議員となる。さほど人柄を知っているわけでもなく実績もあるわけではない候補者が大物と言われる議員を食った例は数多い。それでもといって選挙区では身近なものを選んだが、比例区では「民主党」という看板を支持した人もいるだろう。ようは郵政選挙と同様の個人ではないキーワードとしての看板に多くの選挙民が動いたと言ってもよい。民主党なら誰でも良いみたいな雰囲気も少なからずあった。刺客と言われて無関係な候補者が選挙区に入っても勝てるという図式はまったく郵政選挙と同じである。勝利の旗を上げたのは正反対でも、選挙そのものの風はまったく同じだったともいえる。二度も続いてこうした選挙に遭遇したわけで、これからの衆議院選挙にはこうした風が絡むということなのだろうか。

 ちまたでは「自分の一票が政治を変えた」みたいなことを口にする人もいたり、ラジオでもテレビでも番組担当者が同じような言葉を吐く。その言葉の原点には政権交代が起きたということを一票の重みに例えているのだが、わたしなどからすればわたしの一票はまったく価値もなかったと思っている。前回も触れたようにせいぜい6:4くらいの比率であって4の方に投票した人にしてみれば一票は役に立たなかったということになる。そして4の方に投票した人たちも、けしてこれまでの政治が良いと思ってのことではなく、複雑な思いが絡むはず。4だからといって6という風に乗った人たちに「おバカ」などと言われる筋はまったくないわけである。公な放送でそんな言葉が流れる度に「それは違うのではないか」と思い、ではそれぞれの一票は本当に生きたのかと思ったりする。今回ばかりは例えば比例区で「二大」と言われる党以外に投票しても意味をなさない選挙はなかったし、小選挙区制を補う形で導入されている比例区にあってもつまるところは二大政党に席巻されるばかりでほとんど少数派は採用されない。結果が予測できたからいつも投票している政党名を書き入れる気にはなれなかった(最悪な捨て票など無投票に等しい)。

 長野県内でも全員が民主党議員となった。最も可能性があった5区ですら選挙前から民主党有利という流れだった。この区が落ちればすべてなしという砦だっただろう。ところが選挙に立った当人は、あるいは選挙に関わっている人たちにはほとんど今までと変わらない選挙しかできなかったのではないだろうか。あいも変わらず支持者まわりばかりで、下々の住民への訴えはほとんどなかったと言えるだろう。こんな選挙のやり方で、いわゆる無党派といわれる票をもらえるはずもない。たくさんの支持者がいたであろうが、その支持者たちも何も解っていなかったということ。呆れたものでわたしは自民党員であるものの、その手口の悪さにこれまでずっと自民党には投票しないアンチ自民党員だったと言える。「本当にそれで良いのか?」という問いかけをしてきたのに、いわゆる自民党はそんな平民の気持ちなど少しも理解しなかった。敗北して議員を剥奪された自民党前議員が「麻生のせいで負けた」などと吐く姿に、「二度と国政に戻ってくるな」と言いたい。何も分かっていない多くの自民党関係者に、負けるべくして負けたのだと言いたいわけだ。二者択一という選挙の中で風がどこに向かって吹いていたかなどということは百も承知していた。そうした中であえて自民党を支持した者の気持ちなど、敗者も、そして勝者もまったく解っていないのである。これこそが一票を美化している報道関係者やそれに乗せられている国民の無残な姿だとわたしは思う。
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歴史的と言われる選挙を終えて①

2009-09-01 12:23:22 | ひとから学ぶ
 歴史的な選挙の結果を聞いた翌日である。農業用用水路の改修のために小さな水路の脇で調べごとをしていると立て続けに農家の方に声を掛けられた。今までもその地域周辺には何度も足を運んでいるが、よほどでないと声を掛けられることもないのだが、立て続けに掛けられたというあたりが世の中の変化を表わしているのかもしれない。掛けてきたお二人ともども改修に関わっての要望のようなことを口にされる。とくに自分の水田側の側壁を高くして欲しいという方に「よそとの釣り合いがあるので」と要望に答えられるかどうか解らないと返答すると、「政権も変わるんだから」と要望を通して欲しいという雰囲気。そもそも依頼されて調べているわたしの一存では要望に答える権利もないし、ましてや政権が変わったこととはあまり関係の無いこと(農業分野では所得の戸別補償制度を取り入れるにあたって農林水産省分野の公共事業1兆円を削減するというから国の補助を受けていなくて単独で改修しようとしていても少なからず改修が先延ばしになるという影響はあるだろうが)。

 選挙日翌日のこと声を掛けてきたお二人とも「政権が変わったんだから」という言葉を織り交ぜていた。けして民主党政権になったとしても個々の要望が通用するようになるというわけではない。危惧されるのは努力した人が報われる世の中にしようと言う掛け声が、誰でも言うとおりになるという世の中になると捉えられるのではないかというものである。努力しても報われないのはごく当たり前のことで、さらに言うと努力とは個々によって捉え方、尺度が異なる。ようは曖昧な尺度であって何をもって努力したと言えるかなどということは判断不可能ということなのである。そうした矛盾を抱えながらも秩序ある社会を形成するには、不公平や不満はあっても仕方ないわけであって、そのあたりは個々の人、国民は理解していないと行政はもちろんのこと国政など成り立たないはずである。「自分だけが苦労しているのではないか」などという思いは誰しも持っているものであって、だからといってそれを尺度として自らの幸福度を測ってはならないのである。

 自民党の郵政選挙での選挙区の得票総数は32,518千票、当時の獲得議席数291議席、今回は27,302千票で64議席である。いっほう民主党は郵政選挙時には24,805千票だったものが33,475千票、獲得議席数は52議席が221議席である。実は大敗したといっても得票数だけでは自民:民主比45:55なのである。自ら作り上げた選挙制度で墓穴を掘ってまさに消滅の危機にさらされそうな自民党にとっては、この自民党票をけして見捨てることのないようにしなくてはならない。世の中民主一色のように捉えられがちで、ちまたのテレビなども自民党の大敗を笑いもののように取り上げているが、そうはいっても自民党票がたくさんあることを忘れてはならないし、民主党も多難であることを認識しなくてはならない。冒頭のやり取りの背景に、「変わったんだから言うことを聞け」みたいな雰囲気があるとしたら、今後の政治は大変なことになる。ゼロベースにして優先度をつける予算配分にするという選択をしたと、国民が捉えているのかどうか不安な面を残す。要求の噴出という状況は、しばらく続きそうである。
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