Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業政策の行方④

2009-09-08 12:37:52 | 農村環境
 前回、農家の定義に「30a以上または年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家」というものがあった。妻は毎日実家の農業をしに通う。そこには農業という生業だけではなく父や母の面倒を見るという役目もある。したがって妻にとって生業は農業だけであるが、必ずしもそれは生業としては認められないかもしれない。なぜならば収入がほとんどないからだ。冒頭の定義に当てはめれば、妻の実家は販売額から捉えれば明らかに後者にあたる。しかし総農地所有面積は30アールを越えているから自給的農家ではないのかもしれない。妻の実家ではいわゆる減反はほとんどしていないに等しい。耕作可能の水田であって転作している水田面積は1アール余であって、転作として義務付けられている面積には到達していない。ところが登記上の水田という見方をすれば、荒廃地あるいは山になりつつあるような土地を加算すると3割から4割近い水田を転作していることになる。いや、作っていないから転作は該当しないかもしれない。以前にも触れてきたが、歩く道しか無いような場所の土地を耕作するのは至難の業である。

 妻の実家ではわたしと結婚したころは販売額が数百万ほどあった。米はもちろんピーマンやキュウリ、花卉、干し柿、梅、うさぎなど多種の収入源を利用して細かく積み重ねていた。とくに大きなものは野菜や干し柿だっただろうか。父が農作業中に怪我をして片足を失うことになり、これ以後販売を縮小していって、今では販売しているものは干し柿くらいであるが、その干し柿も品質向上が叫ばれて零細農家では設備投資という面で対応不可能になっている。間もなく干し柿の販売額もなくなるかもしれない。米もそこそこ作っているのに今では販売しない。妻がいわゆる有機農業や無農薬にこだわってきたこともあって、とても販売できるだけの収穫がなくなってきたことも理由のひとつ。日々農業に精を出しているというのに、販売額が無いとは「できた物をどうしているの」ということになる。まさに今回のことを契機にあらためて妻に問うと、ほとんど消費しているのと人にあげていると言う。年間にすればわたしの働いている時間もそこそこになる。それでも無収入に等しい。これを無駄だといわれれば確かにそうなのかもしれないが、わが家での自給率はかなり高い。ようは食費にかけない生活がそこにはある。販売額はないが金に換算した食費という面では明らかに収入に値するだろう。もちろん労働の対価という面で調べれば元をとっていないのだろうが、日本の農業はこうして続けられてきた。かつて販売額がそこそこあった時代とさほど耕作している面積に差はない。ようは些少な面積でも土地利用率を上げればそこそこの販売額を上げることは可能だ。しかし、その少しばかりの農業への意義も、今は消されようとしている。この項を書くに当たってChikirinの日記という記事を引用したのだが、そこにある意識は明らかに国民に広がっている。

 知人である団体の事務所に非正規として働いている人は、ほぼ年間を通してそこに席をおいているが、主たる生業は農業である。彼は自然農法に精力的であるが、曰くそうした稲作を行なうにはせいぜい数町歩が限度という。何十ヘクタールという規模はできないということだ。食の安全が叫ばれるなか、有機やら無農薬が付加価値としてあるが、なかなか生産量との両立は厳しいのである。

 さて、妻の実家のまわりを見渡してもいわゆる販売額で販売農家と言える農家はほとんどない。隣組で唯一100万を目標で地元の直売所に出している家では、食べるものはすべて購入して、作ったものはすべて直売所に出荷するという変わった人だ。安い食材を購入して作ったものは出荷する。いわゆる販売農家に戸別補償をするというのなら、この家の方法は正しいのかもしれない。販売農家を対象に戸別補償をするといえば、皆が米を作るだろうが、民主党の方針ではここに転作を義務付けるという。転作を実行すれば補償するがそうでなければ補償しないという条件をつける。補償してくれる品目を変えることで自給率低下を招いている農産物をコントロールすることになるのだろう。

 平地農村のようなところではこんなことで悩むことはないのだろう。しかし、中山間地域における農業は販売額が少なく、「趣味」と言われても致し方ないものかもしれない。しかしそこで繰り広げられている農業はそう例えられるようなものでないことだけは事実である。

 続く。
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