Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ふるさとへの労働寄付

2009-09-21 20:41:27 | 農村環境
 敬老の日、梅雨明けのころに刈った大きな土手を、今年3回目になるのだろうか、草刈をした。何度も言うとおり、妻の実家の農業は自家の者だけでは進まない。妻の毎日の作業と、わたしの休日の作業が加わって成している。この場合、妻がいわゆる世間では専業主婦をしているから可能だが、ちまたで言われるような夫婦共働きを推奨する時代にはなかなか難しいこと。専業主婦には冷たい時代が訪れようとしているが、だからといって妻がサラリーマンとして働きに出ることはもう二度とないはず。夫の稼ぎだけではこころもとないが、農業を捨てることもできないから、せめて自分の食料を調達する。

 「草寄せ」で紹介した写真のころは、梅雨明けのころだったからとても暑い季節だった。そのことを思うと敬老の日はここ何日かの中では暑い方であったが、梅雨明けのころの「さあこれから暑くなるぞ」というころとは比べ物にならないほど身体が動く。たかが草寄せに苦労していたあのころが嘘のように、今日は身体が動いた。一昨日と今日と、2日がかりで正味まる1日というところだろうか、この土手との格闘は。身体が動いたのにもかかわらず、手間がずいぶんとかかった。これでもって生産性が無いという仕事なのだからたまらない。草刈後に草を寄せながら思ったのは、この草をただ腐らせるのも無駄な時間の消費だけ。前にも述べたように、たまたま下の小さな田んぼが休耕しているため、そこの端に草を置かしてもらっているが、よその家の田んぼだから本来はこの草を運ばなくてはならない。運ぶことを思えばなんとかこの草が利用できないものかと思う。やはり草を食べてくれる家畜がいれば少しでも生産につながる。ここに住んでいないから家畜を飼うというわけにはいかないが、周りを見渡しても家畜を飼っている家など今はない。義父にそんな話をすると、犬や鶏を飼うのにも精一杯と言うように、高齢者農業では不可能。かつてなら土手の草が家畜の飼料になったり肥料にもなったのだろうが、今や単なる無駄なものに成り下がっている。

 この大きな土手を片付けた後、今度は梅畑と柿畑の草を刈り始めたが、両者の間にある土手もけっこう大きい。すべて刈り終えることはできず敬老の日は終わった。妻もよく口にするが、近所でも土手の広さは最も広い。どう考えてもこの無駄な草を利用する方法を考えなくてはならない。

 そういえばふるさと納税制度というものが平成20年5月から始まった。自分が生まれ育ったふるさとを応援したいという思いを地方自治体へ寄付していただくことで実現できる制度だという。寄付金の額に応じて、所得税と居住地の個人住民税が軽減されるというが、そもそもこれは現金による寄付制度。労働による寄付ではない。我が家では妻の実家に日々赴いて、土地を守るべく農業をしている。形式上報酬はゼロ。現住所と妻の実家の自治体は異なる。簡単にいえばこれもふるさとを守りたいという寄付行為のようなもの。そもそも子どもたちが実家を訪れて労働なり地域環境整備をすることによってその地域が保全されている。自治体にしてみれば居住してくれた方が税金が入るからありがたいわけであるが、現状の地方とはそんなうまい具合にはいかない。高齢者世帯が残って税収もないが、環境も荒んでいく。地方問題の原点である。だから労働では寄付にならないかもしれないが、逆を言えば寄付金によって納税するくらいなら地域に住んでくれることの方が第1。そう考えると必ずしもふるさと納税は芳しくない制度と言えないだろうか。それがOKなら、労働による寄付も税制上の優遇はともかくとして、その実態として把握されて当然のことではないだろうか。でもないと今後のそんな地域の将来が描けない。
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