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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業政策の行方③

2009-09-07 12:31:38 | 農村環境
 有賀功氏が「長野日報」9/4版の「農のあした」でJA全中の富士茂夫専務理事の次のような文を引用して「全く同感」と述べている。「さまざまなコースがあって、それを選択するのは農家だということなら合意できるが、最初に要件があってそれを満たさなければ(補助)の対象にならないというのはだめだ。…そんな国はどこにもない、…もっと兼業農家をポジティブに位置づけるべきだった…兼業農家はわが日本農業にとって必要なんだ、それが農村を支えていてこの国のかたちとして必要である」というものである。先のChikirinの日記では、「平均68才の人が、ごくごく小さな田んぼを持っていて、めっちゃ非効率にお米を作っています。米作りに関しては年間3万円くらい儲かるだけだが、昔田んぼだった一部の土地をパチンコ屋に貸してるんで、その賃料で生活できてます。この人達は本当に農家なのでしょうか?“農家”じゃなくて、“農業園芸が趣味”とおっしゃる高齢者家庭とか“米作りが趣味のおじいさん”と呼ぶべきなんじゃないの??」と言う。確かにそういう程度の意識で農業をやっている人がいないわけではないかもしれない。しかし、明らかにその捉え方は農業をそして農家を認識していないと言えるだろう。そう捉われても致し方なし、と思う農家も多いだろうが、全く解っていない人に言われると反論したくなるものだ。

 ここで日本での農家の定義を確認しておこう。農家とは①耕地面積が10a(1000m2)以上の個人世帯、②耕地面積が10a未満の時は、年間農産物販売金額が15万円以上の個人世帯とされている。このうち30a以上または年間の農産物販売金額が50万円以上の農家を販売農家、それ以外の農家を自給的農家としている。話題になっている農外所得であるが、兼業農家は農外所得に依存することになる。そもそも「兼業農家」という言い回しは農村において暮らして農業を少なからず行う人々をくくる言葉として、わたしは適正とは思わない。複合型生業のひとつとしての農業があって、その農業は国にとって根幹的なものであるから、兼業であっても「農家」という称号が与えられてきた。農業を主にしていてはそのほかの産業を生業としている人たちと格差がついてしまうため、農家といわれる人々は複合的に他産業に従事した。しかし、農業の衰退とともに農業を主としても生きられないと悟ることになり、たまたま世帯の中で農外収入を得られる者は他の仕事に従事していったわけである。あくまでもその走りの時代は農「家」であったのである。ところが農外収入を得る者たち、ようは子どもたちがその部分を担ってきたわけであるが、彼らが一人立ちしてしまうと、農業は「家」で行うものではなく個人で行うものへと変わって行った。すると専業と兼業を同じ土俵で語るわけには行かなくなったのである。しかしだからといって専業農家へ、大規模化へ進めれば良いというわけにはいかないのである。

 ここで事例を出してみよう。わたしがよく話題に出す西天竜幹線水路。この水路の受益地はすべて水田である。約1000ヘクタールを潤すのであるが、これを大規模化した農家で耕作するとすれば、たとえば50ヘクタールを一人が耕作すれば20人(戸)の農家でまかなうことができる。大規模化が理想とすればそうすればよいだろうが、もしそうするとなると西天流幹線水路を維持管理するにはこの20人が担わなくてはならない。幹線水路と末端水路の維持管理をこの人たちだけで行うのは不可能と言わざるを得ない。26キロ近い幹線水路と、200キロを超える支線水路を管理することがいかに大変なことかは、農業を傍観している人たちには語ることはできない。もしこの水路を維持することに金がかかって費用対効果がないと言うのなら、施設を捨てれば良い。しかしそんなことが簡単にできるはずもない。零細農家が関わっているからこそこの施設は維持されてきた。いや、その零細農家ですら減少してきて、将来にわたって今までのような維持ができるかどうかは不安が多いようだ。日本の農業がいかに採算のとれない農業であるかは農家の誰もが知っていることなのだ。

 農家を守るというだけではなく、農業には複合的な環境が重くのしかかっている。政策が農業を守るのかそれとも農村を守るのか、あるいは国土を守るのか、など何を優先しているかによって変わってくる。食料は安く買い入れ、地方は必要ないと思えば、いらぬ外国との調整も不要となる。ところがそうはいかないと国が思っていても、国民が解ってくれるわけではない。なぜならば農業従事者は激減してきたのだから。もはやかつての農家の子どもたちですら、農業に何も期待していない人は多い。それは農業に関わる環境の悪い面をたくさん見てきたからだ。農外所得がたとえほとんどであっても、こうしたさまざまな負担に対して国民皆が負担していくという気持ちが無い以上、農業の先は見えてこないとわたしは思う。そういう意味では戸別に所得補償をするという行為は、ますます農家や農村を分別してしまうとともに、戸別に支払ったからという気持ちが無関係の人たちに生まれれば、補償された農家の責任は大きくなるのではないだろうか。日本には合わない政策だとわたしは思う。もちろん今までの政策が適正だったと言っているわけではない。

 続く。

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2 コメント

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現実の世界は途方もなく宇宙まで続く (BLstone)
2009-09-08 01:00:47
いやいや、私も複合型生業として農業もしていますので、trx_45さんのおっしゃること良く分かります。私の住む都市部周辺の農地とそちらでは環境が全く違いますし、その対応なども別物のように思います。農地を持っていない人たちから見れば農家は特別に優遇されているように見られるしchikirinさんのような見方をする方々もむしろ大多数なのかもしれません。一体何がどうあればいいのでしょうか?
私には外しようもない知恵の輪のようにしか思えませんねぇ。。。
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知恵の輪がはずれない (trx_45)
2009-09-08 12:46:54
 何度もご足労いただき感謝です。
 ある国のソフトの補助事業において、集約化するにあたり農業施設の管理がままならなくなるという意図から、いかに住民を巻き込んだ管理を進めていくかというものがあります。ようはそういう計画を立てて実践することで補助金を出して、さらには農村の継続性を高めていくというものなのでしょうが。ところが現実的に地域住民を巻き込んでいくには、地域外から移住した人たちが多かったり、あるいはサラリーマン世帯ばかりだったりすると、そううまくはいきません。何より「合意」に達することが難しいとともに、それに力を注いだ方が疲れてしまう。ましてそれを農家に担わせるのはもっと大変。会計検査院の農業の補助金を調べにきた人が、「国民に説明できるかどうか」と投げかけますが、それは国でやってもらうことであって、制度に沿って補助金を受けた側に問いかけて苛めるような世界です。まさにこの検査官は事例で言うところの農業に係らない一般人、そしてこちらは責められるばかりで右往左往。今の農業の現場ってそんなことばかりではないでしょうか。「話せば解る」と言っても解ってもらえない北朝鮮と対峙しているような感じです。
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