Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

本郷神社煙火奉納

2009-09-27 21:11:45 | 歴史から学ぶ

 何度訪れても実家のある地区の祭りは思い入れがある。なにより庭花火が演じられる空間に、観客も傍観者ではなく競いをしている者と同じような意識で立ち会うことになる。こういう花火の祭典はなかなかよそにはない。

  飯島町本郷の煙火奉納は明治29年からと場内放送がされていた。まだ100年程度の歴史であるが、以前も触れたように600年の歴史があろうと100の歴史であろうが、地元の男たちにとっての思い入れは同じである。実は明治29年とは本郷神社が誕生した年である。この年八幡社と若森社、そして御射山社の三つの社が合祀されて本郷神社となったのである。しかし実際のところ明治29年からなのかどうかは明確ではないよう。飯島町では田切において天保12年に煙火打ち上げをしたことが古文書に残されているという。『本郷区誌』によれば秋祭りに煙火奉納の記録が出てくるのが青年会記録による明治29年だという。ということはおそらくそれ以前にも奉納されていもたのが、合祀によって神社が統合されたことで明確に記録として残るようになったということではないだろうか。当時の記録を見る限り「合社祭典ニ付キ盛大ニナスコト、会員一同ノ望ミニ付キ、其ノ方法ヲ煙火奉納ト獅子舞ノ二種トシ」とあるように、青年会の中で祭りの芸能を選択していたことが解る。ということはこのころは毎年行う芸能に一定したものはなくその都度決めていたということがうかがえる。

  本郷神社には立派な廻り舞台がある。慶応元年に完成したといわれる舞台は、三間の径を計る。平成6年に大改修をした際には、廻り舞台を使って演舞をしたというが、この舞台が使われた姿をわたしは見た覚えはない。何を目的にこれほど舞台を造ったかといえば、ここから飯田下伊那にかけて盛んだった歌舞伎あるいは浄瑠璃であったのだろう。結局それらは後世に受け継がれることはなく、煙火と獅子舞が継承されているということになる。ちなみに明治29年に揚げられた煙火は、打ち揚げ17本、流星2本、三国1本だったと言う。

 さて、最近は2本揚げられる三国をそれぞれの櫓に据え付けて庭花火が始まる。理由は一つ終わった後に二つ目の三国を櫓に上げるのに時間がかかることから、その待ち時間が長すぎるということもあったからだろう。しかし実際はすぐに次の三国に続くわけではなく、仕掛け花火などを仕掛ける時間を要す。かつてのように三国を櫓の下から上げるほどの時間はかからないもの、あの三国を上げる際の木遣り歌が良かったように思う。ただし酔っている人たちが上げることから櫓から転落する事故もあった。あらかじめ上げておけば危険も防げるという意味もあるのだろう。三国の櫓は前述の廻り舞台に向かって相対する。したがって廻り舞台の前で観ていれば、最後の火の粉は必ずここにやってくる。そんな場所で花火を今年も見学した。昨年のことがあるから綿の作業着を着て、その下は肌シャツという出で立ちで出向いた。そのかいあってか「熱い」という経験もなく今年は終えることができた。

 撮影 2009.9.26(かつては9月30日が祭典であったが、今は9月最終土曜日)

 参考に

  2008「それぞれの思い入れ」

   2007「ムラの祭り①」

   2006「大三国」

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