Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業政策の行方②

2009-09-05 21:23:16 | 農村環境
 さて前回に引き続きChikirinの日記より「農政に見る民主主義の罠」から引用してみよう。「美田を残したい」という意識は確かにある。高齢化して基本的に生業が農業だった農家にとっては土地を荒らさないという姿勢がある。だから自分の目が黒いうちは「荒らすわけにはいかない」という気持ちが多くの農家にあることは事実。しかしそれもだいぶ揺らいできた。なぜならばこれほど荒廃地が増えてくると自分だけ、それも大きな空間の小さな部分だけを維持していても尽きない悩みを抱えることになる。彼の言うような公式は既に成り立たなくなってきている。だからこそわたしは農業農村の終焉を感じている。もはや彼の言うような農村の姿はしばらく前のこと。

 「彼らが70才近くになっても全く儲からない重労働の米作りを止めないのは、「農地」という形にしておかないと、相続税も固定資産税も全く優遇されなくなってしまうからです。そのための“米作り”なのです。息子に相続税なしで美田を引き継ぐため、自分が生きている間の維持費を格安に保つために、米作りはやめてはならないのです」と言うがこれも正しくはない。実は米作りは思うほど重労働ではない。ただしそこには農業機械という設備投資が必要で、これがまた収支に影響している。たった1ヘクタール程度の水田でもひと揃えの農機具を用意する。永久にそれが使えるわけてもなく、好調に動いてくれるわけでもない。にもかかわらずこれが無ければとても今の稲作はやっていけない。それをカバーするべく協業とか今なら集落営農という形に移行してきた。ようは作業の部分委託や総委託である。農家という定義も今では正しいかどうか判断しがたいほど農家の現状は複雑化してきた。相続税や固定資産税のことを考えて耕作しているなんていうのは農業をまったく知らない人の言葉である。そもそも美田であっても荒れていても税金には関係がない。ひどい話ではかつて道路として土地を寄付したのに登記されていなくて、ずっと道路敷の税金を払っていたなんていう話もけっこう多い(だいぶ解消はされてきただろうが)。なぜ零細であっても農業を続けるかという点にこだわれば、その農業を営んでいる世代は彼も指摘しているように高齢者だからである。高齢者はサラリーマンならすでに定年退職の歳である。にもかかわらず働いている。それが農業を継続してきた意識の現われであって、食べるものは自分で作れるうちは作る、という意識があったからだ。ここにはあくまでも継続の中にあって「それで生きていけるから」という余生的な発想があり、その子や孫の世代がそれを踏襲するとは限らないのである。これがあと何年かすると農地の荒廃がさらに進むであろうという予測の原点にある。税金のことを考えれば雑種地に転用してしまった方が安くなるはず。よく長野県は高齢者就労率が高いといわれる。零細農業であるから多種多様な生業を組み合わせて食い扶持を維持してきたといえる。だからこそ零細農家であっても働くことによって生活の足しにするという意識が強いはず。後にも触れようと思うが、これは兼業と言われるものではなく、複合農業の一種と言える。有賀功氏は「長野日報」9/4版の「農のあした」の中で集落営農について触れている。必ずしも集落営農が今後の方向かどうかはともかくとして、耕作もできなくなった高齢者の所有している農地を、組合のほかの人たちが担っていくというかたちはけして悪いものではないという。難しい問題もはらんでいるが、できる限り農業を継続させるという最低ラインを意識してみると、確かに確実な方法のひとつである。失政だったと言われる農業ではあるが、後出しでなんとかカバーしようという試みはされてきた。ただころころと転換していく施策に、終焉を延ばしているだけという印象を農家の誰もが感じている。票取りのために施策があるならとうに農業は終いになっていただろう。

 続く。
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