Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

トリミングされた世界

2008-10-16 12:34:15 | 農村環境
 「分離を助長するお役所」において観光パンフレットの作り方にしても摩訶不思議な枠にとらわれているということについて触れた。同じく最近作られたパンフレットを検証してみる。「長野県上伊那地域総合ガイドブック」というもので明確に発行元が表示されているわけではないが、「お問い合わせ」欄のトップに「上伊那観光連盟(上伊那広域連合)」とあるから、そこが発行元なのだろうか。それに続いて辰野町役場産業振興課など市町村の観光行政担当部署の名前が並ぶ。ようは連帯責任みたいに感じるが、果たして発行元はいかに・・・。

 さてその最新版パンフレットの表紙は南駒ケ岳をバックに茅葺屋根の家と稲が植えられたばかりの田んぼで植え直しをしているおばさんが写っている。写真コンテストや写真集にも掲載されることがある風景だから、知っている人は知っているという撮影ポイントである。しかし、その写真の場所は、パンフレットのどこにも表示されてはいない。収められている「伊那谷観光ガイドマップ」にも当然のようにその場所は明示されていない。A4版の見開きの内側にポケットが付けられていて、そこに前述の観光マップとガイドブックが挟まれている。見開きのいわゆる表紙には前述の風景と、高遠城址公園の桜の写真、そしてポケット部に中央アルプスをバックに菜の花の咲く風景写真が掲載されている。裏表紙には伊那谷周辺アクセスマップと交通案内が掲載されている。ようは主な写真は3枚掲載されているが、表紙と高遠城址公園の写真には説明がなく、唯一ポケット部の写真に「駒ヶ根市東伊那から望む中央アルプス」と説明があるだけである。高遠城址公園の桜はあまりにも有名だから、おおかたの人はどこのものかすぐに解る。しかし、表紙写真はそうはいっても知らない人の方が多い。もちろん知られる必要もないことだが、こういう写真が地域の観光パンフレットの一面を飾るというのはどうなんだろう。昨日も触れたように、トリミングされた絶景は、あくまでも不要なものを取り除いたまさに写真コンテスト的な表現である。しかし、それを説明もなく掲載するというあたりは、ようは騙しの世界のようなものである。

 以前にも少し触れたことがあるが、駅のホームなどに観光ポスターが貼られている。そんなポスターにも今回のような説明のない写真がイメージ的に使われるものが多い。巨大なポスターだから目を引くものも多いが、いったいそのトリミングされた世界がどこにいけば見られるかはまったく解らない。もしかしたら観光協会に問い合わせても「教えてくれない」みたいな写真が掲載されていることもある。ようはどこどこと限定できないほどのクローズアップ写真であったり、引いた写真でもたとえば吊るし柿風景であったりしてなかなかどこで撮られたか明確には言えないというものもあったりする。そしてトリミングされた世界だから、実際の場所に行ったとしても同じ風景は見られなかったりする。まさにイメージの世界で、架空ではないものの採用した側はかなりそれに近い真意があったりする。美化して人を誘おうという基本的な発想が気に入らない。以前「消えた村をもう一度」を特集したことがあったが、昔のパンフレットの方がそうしたイメージ的な騙しは少なかったように思う。イメージだからこそ、表紙写真の脇にこんな言葉が添えられてしまう。「私達が求める“心の風景”-それは失いかけている“ふるさと”『信州伊那谷』できっと見つかります」というものだ。もしかして「心の風景」とはイメージされた仮想風景なのだろうか。

 高遠城址公園と異なり、観光用に整備されたものでもなく、そこに観光バスや観光客の車が押し寄せるという場所でもない。しかし、そうしたあまり明確にしたくないようなトリミングされた世界を象徴的に掲げる怪しく、また本意を理解していないパンフレットで集まってくる客にはさらに怪しさが積もる。まがい物に違いないのだ。
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トータルな暮らしを実感しよう

2008-10-15 12:36:45 | ひとから学ぶ
 『中川村誌下巻』(上伊那郡中川村)にこんな記述がある。

 「日常の暮らしで意識的に山を見ることがある。それは天気を予測したり、季節を捉えたりする場合である。しかし、それとは別にイメージとして山を捉えたりすることもあり、そうしたなかからふるさとの風景を無意識のうちに作り上げていたりする。とくに山の風景はこのムラにとっては抜きにしては語られないものである。片桐の昭和一二年生まれの女性は、電車で通うときに見た南駒ケ岳百間ナギの上の稜線に見える上弦の月と山の美しさは、ここに嫁いできて強く印象に残る風景だという。また、冬の早朝、七久保駅から見る日の出の風景も美しい風景として心に残るという。毎日繰り返される暮らしのなかに、そうした山の風景を印象として強く持っていたりする。
 いっぽう、飯沼で大正一五年に生まれた男性は、家から西山は見えなかったといい、普段見える山は裏山であったり、段丘崖の山であったりした。一口にヤマといっても前者のような高い嶺を持つ山ばかりでなく、平地に鬱蒼としている林をヤマということもあった。しかし、印象として山を語る場合の山は、遠方にある高い山や、目印としての小高い山を指す場合が多い。」

 というものである。山間に住む者にとっては、山がどこかに見えていないと不安なものである。とくに方向感覚は山の位置を認識した上に成り立っている。ところが例えば伊那谷に住んでいれば誰でも常に中央アルプスや南アルプスを視界に捉えているわけではない。中川村でも段丘崖の下にあるような集落では、遠い山は見えていない。例えば小和田とか南田島といった集落は、道に連なった家々は西を向いたり東を向いたりと道に沿っているが、空間の広がりは天竜川の方向にあるから、おおかたの人は朝陽のあがる方向を意識する。「伊那谷は山の風景が美しい」といっても、そこに住む人たちが皆満遍なく捉えているわけではない。

 こんなこともあるのだろう。山村に住みたいと思った都会の人が、山が美しく見える場所に住みたいと思う。ところがなかなか思うような場所はない。当たり前のことで、どこにでも家が構えられるというものではない。まず水田地帯のど真ん中に家を建てるのは容易ではないし、山の中といっても水道や下水道といったインフラは整備されていない。別荘的なものならともかく、常に住むにはそれなりに場所は限定される。もちろんそれを無視して住み着く人たちもいるが、そうした不便を納得の上に住む人たちであって、ある意味自給自足的暮らしを望んでいたりする人たちである。「田舎暮らし」を誘う言葉が溢れているが、雑誌やパンフレットにトリミングされた風景を求めて住もうなどという人たちは、けして地域にとって得な人たちとは言えないのだ。どこでも美しい風景が見られると思っていたら、「何にも見えないのねー」なんていう致命的な言葉を浴びせられて、そこに住み続けてきた人たちがショックを受けるなんていうことだってありえない話ではない。住んでいる人たちは、日常暮らす総体の空間の中で、景色を眺めていたりするもので、我が家から見えないといってその地を簡単に出て行くような都会的発想はできないのである。そう考えてみるとわたしの生家の近くで「こんなところは…」と言って同じ町の違う場所に家を建てた息子は、まさに都会人が田舎に家を建てる発想なのかもしれない。そしてそれは現代においてはごく当たり前のような意識となり、事実わたしも家を建てる場所を選択する中で、そんな捉え方を少なからず持っていた。しかし、では今住んでいる場所がそんな景色の良い場所かと問えばそうではない。ようはそう簡単に誘惑されるような言葉の土地はないのである。

 ふだんの暮らしがその土地の中ではなく、よそへ出かけているような現代においては、なかなか地域全体を捉えて「景色の良い場所」とは思えない人が多い。村誌に書かれている片桐の昭和12年生まれの女性も、家の裏に段丘があって、そこから南駒ケ岳は見えない。ところが段丘を登ればパッと世界が広がって、南駒ケ岳を望むには絶好の空間が広がる。七久保駅までそこから1キロ近くあるだろうか。その1キロを歩いて通えば、その印象は一層記憶に残るものとなる。ふだんの移動の手法も含めて、あらゆる面でかつての暮らしはけして貧しいものではなかったということがよく解るはすだ。

 ちなみに段丘崖の上にも家々が建っているが、必ずしもそこの方が住む条件が良好というわけではない。女性の家はそれほど高低差のない段丘崖の下にあって、風の強さは段丘上に比較するとずいぶんと和らぐはずだ。景色だけでは選択できない、その地域らしい家の建て方というものがあるのだ。

 そういえば、わたしも駅と生家の間を高校時代に毎日歩いた。駅から帰る折、段丘崖を下るときに眼下に自宅が見えてくる風景は、駅と家を結ぶとても印象深い景色であった。遥か下にわが家が見え、また時にはその下界が霧で充満していて川の両側にある段丘崖だけが浮いている時もあった。その道は思い入れのある道だと今でも思っている。暮らしの舞台とは、そんなトータルなものではないだろうか。ポンとお金を出してトリミングをして、自分だけが住んでいる空間を作るような人は、地方に住んで欲しくないのだ。
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環境の変化

2008-10-14 12:31:59 | 自然から学ぶ


 先週、伊那市富県の小学校の近くを流れている幹線用水路沿いの石垣に見事に咲くツメレンゲの花を見た(写真右)。ツメレンゲについては花の季節以外にも何度か触れてきているが、ちょうど今は花の季節ということで、記憶にあるツメレンゲの咲く場所をいくつか訪れてみた。この富県のものは石垣の所有者が大鹿村から採ってきて植えたものと言うから完全なる自生ではない。そして本人にしてみればツメレンゲを目当てに採ったわけではなく、庭に並べられたイワヒバを見れば解るとおり、そこにたまたま付いていたということのようで、あまりにあちこちに広がったため、雑草をむしるように取り除いたという。だからツメレンゲという花と意識していたかどうかも定かではない。そのお宅の庭のあちこちにツメレンゲの株が飛び散っている姿を見ると、かなりのイワヒバマニアのようだ。その飛び散ったツメレンゲが、自宅の外側に積まれた石積みにも広がり、見事な花を見せるのだから花の強さは予想以上なのかもしれない。写真の株はそんな石垣に咲くツメレンゲの中でも最も見事なもので、なかなかの肥満気味姿である。これほど勢いのある株はなかなか見たことがない。勢いのある花が成長するだけ環境が恵まれているということなのだろう。石垣だけに止まらず、その下を流れているコンクリート水路の肩にも株が見え始めているし、以前にも触れたように、石垣から少し離れたところの水路肩にも見事な株が成長していた。コンクリートの面に、少しでも土がこびりついていれば、そこに根を付けるほどで、なかなかのつわものである。

 さて、毎年訪れているツメレンゲの群生している場所にも足を運んでみた。中川村渡場の県道沿いの石垣であるが、ここを初めて知った時と、現在ではだいぶ様子が変わってきた。初めて知ったのはもう5年ほど前のことである。当時はツメレンゲの咲く石垣は白く玉石の姿を瓦のように見せていたが、今は土がだいぶ覆い被さって玉石の姿がよく見えない。土が覆い被さると当然のごとく草が生えだし、まるで土手のように雑草が繁茂し始めた。一瞬「ツメレンゲはどこにいった」と危惧するほどで、少し北側の草の少ない方に行くと、たくさんのツメレンゲが咲いている(写真左)。しかしである。このままあと何年かすると、きっと生育環境は低下していくことだろう。土が覆い被さることで雑草に駆逐される。土のために乾燥した石積の面が湿ってきてツメレンゲの好きな環境ではなくなる。といった具合に明らかに環境が変わってきており、いずれは姿を消してしまうかもしれない。もともと河川護岸に生え出したもので、人工的に造られた生育環境である。さらにわたしの推測では、たまたまこの場所県道がカーブしていて、例えばダンプ街道といわれるだけにそうしたダンプから土がこぼれ落ちて、その中にまぎれていたツメレンゲが自生を始めたのではないかと思っている。だからこそ数年で土が覆い被さってくるというのもうなづけるわけだ。もちろん昔と違って現在のダンプはシート掛けがしっかりされていて(実は自動で掛けられるこの装置、「完全」とは言い難いのかもしれない)、簡単にこぼれるということはないのだが、それでも覆い被さるほど土がどこからかやってくるのだから、そうした要因しか考えられない。そしてこれも予想できることであるが、道路のカーブ区間というものはゴミもよく投げ捨てられる。ここもその通りゴミがたくさん散乱している。「希少植物が自生していますから、ゴミを捨てないように」などという看板を立てるわけにもゆかない。捨てる人たちもそんな花が咲いているなどということは誰も知らないだろう。年々環境が変わりつつある姿を見ていると、毎年観察にきている自分が、少し手入れをしてあげるというものなのだろうか、などと思うが、いまだ手をかけられないでいる。
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こんな店が地元にあるということ、感謝

2008-10-13 18:38:51 | つぶやき
 「やってしまった」と思うのは意外に小さいことだったりする。そんな小さいことをそう言えるだけ、わたしは平和だということなのかもしれない。プリンターのインクがしばらく前になくなってしまって、印刷ができなかった。「そのうち」と思っていたが、必要に駆られないとなかなか買わないものなのだ。ということでインクを買いに出かけたわけであるが、基本的に目的はインクのみ。さし当たって必要なものはそのくらい。PC関連の消耗品となれば、普通はそうした専門大型店が浮かぶ。このあたりならヤマダ電気やエイデンといった店になるが、それ以外にも汎用品ならホームセンターなどでも売っている。今や地元のマチにある電気屋さんにそんなものは並んでいない。そうしたところもマチの電気屋さんが消滅していく理由かもしれない。ようは大型店でなければ「無い」という具合に意識している。

 ということで、とりあえず近在のホームセンターへ向かう。隣町にあるホームセンターまで久しぶりに車を走らせる。たかがインクを買うだけに久しぶりに車を動かすなんていうのも、なんともいえない行動でありしっくりこない。約7.5kmだから往復すればわたしの車だと280円ほどかかる。いちいちこんな計算をしてみると、それほど遠いわけではないが、けっこう車代がかかっていることに気がつく。これがヤマダ電機とかエイデンといった大型店になると、近い店で片道15.2km、往復車代は550円くらいになる。もちろん遠いから時間も要す。一応店ではインクだけ買ってもバカらしいと思い、少し店内を歩いて気になる棚を物色するが、真新しいわたしの気を引くような品物はない。もともとインクだけのつもりで出向いたものだから、あまり無理やり物を買おうなどとは思わず店を後にした。ここで使ったお金1050円である。

 これだけで家まで帰ったら本当に「もったいない」と思って、久しぶりに地元のマチの小規模のホームセンターに寄る。以前にも触れたことがあるが、「すまいる」というこの店、なかなか面白いものを置いている。かつて大型のチェーン店が席巻するまでは、けっこう小さな町に小さなホームセンターのような何でも屋があったものだ。このあたりなら飯島町の「マルタ」もそうだが、今はその店はなく、後継店として「トマト」という店があるが、ここで紹介する「すまいる」ほど楽しくはない。久しぶりに寄ってみてまたまた「へー、こんなものも売っているんだ」と気がつく。なにより冒頭の「やってしまった」と思ったのは、ここでもインクを売っている。今まで意識したことがなかったので目に入っていなかったのだろう。さらに購入した店より安いのだ。これは見事なショックである。約4.9kmだから往復車代は180円、商品は確か1020円代だから130円くらい安い。マジに用途を考えて何ならどこで売っているくらいは記憶(記録)しておいた方が良い、とつくづく思ったものだ。もちろんそこではインクを買わなかったが、あらためて「お見事」と言わざるをえないことがいくつかあった。

 先日飯田市内の文房具屋を久しぶりに訪れてシャーボを一本買った。まだ新商品と言っていたが、MITSUBISHIのジェットストリームというボールペンのマルチタイプのもので、スリムボディーのシルキーなペンである。わたしはこうした筆記具を衝動買いすることが多い。定価は一本700円+消費税である。これは定価でまけてはくれない。そういう店なのだ。それでもよそには無いものを売っているので時折訪れる。おそらく棚に並べている店は伊那谷には他には無いと思っているからだ。ところがである。「すまいる」にそのペンが並んでいるのである。価格は600円を割っている。確実に言えることは、こんなペンを並べている店は、伊那谷では前述の飯田市内にある「キング堂」と駒ヶ根市の「森文具店」、そしてこの店だけだと思う。店にいると子ども達が目立つように、きっと昔の文房具屋さんのような雰囲気がこの店にはある。こんな懐かしい店は、おそらく伊那谷中探しても他に無い。とくに子ども達のお楽しみ番組みたいな店はなおさらである。

 なかなかの発見であったが、この店では「ボールペン型のり」というTOMBOWの製品を一本144円で購入した。これもまた今までにはなかったもので、地元にこういう店があるということは誇らしいのと、もっと利用してほしいと思うばかりだ。
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針と糸

2008-10-12 18:22:31 | つぶやき
 「気に入らなきゃ自分でやれ」、そんな言葉が耳に焼き付いている。それを思うからこそ、また自分でやることにもなる。母とのやり取りはそんなことの毎日だった。女の子なら母親の助けになるだろうが、男の子というものはそうはいかないのが常なのだ。そんな現実を毎日目の当たりにしているのだから、母はこんなこともよく口にした。「女の子がいれば良いのに」と。それもわたしにはよく解った。自分の母親に対する抵抗感を持ちながら、また逆に母親に対する思い入れもあった。「大きくなったら母親のそばで」と思うものの、自分は長子ではないからそれは適わないわけだ。母親と息子という関係は、多感な時期になればなるほど険悪なものとなる。そんな時期もあると解っているのは意外にも男親なのだろうが、現代において男親の存在は家庭の中でいかなるものなのか、というところを問わなくてはならなくになる。そんなことを考えさせられるこのごろの「家庭」である。

 さて、冒頭の口癖はわたしが母親にズボンのすそ上げを頼んだ時によく発せられる。昔も購入した店ですそ上げということはしてくれたのだろうが、①またその店に行かなくてはならない、②すそ上げするにもお金がかかる、③すぐに使えない、というような理由ですそ上げを頼むなどと言うことはまずなかった。ほかの人もそんな意識を持っていたかは知らないが、我が家ではズボンを買ってくると、母親が必ずすそ上げをしてくれるのである。ところが一度すそ上げをするものの、どうも長さが気に入らなかったりすると、「長さが気に入らない」と言って直してもらうことになる。あまりにうるさく言うので冒頭の言葉が発せられるのである。そんなことを繰り返していると、「自分でやるわ」ということになる。だから子どものころからけっこう針と糸を持つことは多かった。昔の母親たちは、みなこうして器用に裁縫なりこまごまとした作業をしたものである。

 先ごろ生家の祭りを訪れた際に、悪い経験を記憶からなくしていたため、花火のしたで割合新しいシャツに火傷の穴を作ってしまった。このままではちょっと外出には着られないため、「なんとかならないか」と妻に言うと、「母に縫ってもらう」ということになった。妻が針と糸を持った姿を見たことがない。解っているから必要な時は自ら持つ。昨日、その火傷を負ったシャツの穴が塞がれて戻ってきた。器用なもので濃い色のシャツだから大きな穴ではあるがそれほど目立たなくなっている。すでに外出しても誰かに見れているような歳でもないことで、そんなつぎはぎのものを着ても気にすることはない。ましてや、上着を着るこれからの時期なら十分使える。まさにわが家ではかつての農家の暮らしを今も継続している。

 シャツといえば、まず襟元がすれて切れてくる。それでも使い続け、完全に破れてしまっても家用として着続ける。だからそんなシャツばかりが衣料ケースにたまって膨れ上がっている。「そろそろ捨てれば」と言ってもなぜかそのままになる。このごろはそんな服で買い物に行っても気にもならなくなってきた。いよいよ年寄りの世界かとも思うが、近ごろの年寄りなどそんなものを着てはいない。繕われたシャツを見ていて、「自分でもできるかな」と思ったりする。そういえば昔からいかに糸を見せずにすそ上げをするか、などということを工夫していたものだ。いや、母親にすそ上げしてもらにったものの、そんな糸の見え具合が気に入らないと言ってクレームをつけたこともあった。そんなことで冒頭の言葉が出たこともあった。
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分離を助長するお役所

2008-10-11 16:23:10 | ひとから学ぶ
 中央リニアが直線ルートで現実化の道を歩む中、長野県知事を始め長野県内の基本スタイルが諏訪ルートを推進しようとすることへの批判もある。わたしも確かにそういうことをこの日記の中で書いてきているが、今のまま飯田というところに協力して「直線ルート、そして飯田駅実現へ」というわけにはいかないと思う。そこに近い地域に住んでいる者にしてもそんな流れがすんなりいっては、飯田の思うがままで許せるものではないと思う。それは今までにも触れてきたようにこの地域の中での飯田、そして伊那という関係、さらには飯田がそれを断ち切るように他地域への思いやりをしてこなかったまなざしに対して「それで良いのか」と思うわけで、わたし以上にそう思っている人がいても不思議ではない。

 11/8長野日報に「上伊那・木曽 名所紹介」という記事の見出しが見えた。権兵衛トンネル開通以降、伊那市を中心とした地域の木曽との連携が目立つ。なぜいまさら木曽へ、と思うことについても今まで触れてきた。確かに飯田より木曽福島の方が伊那には近くなったかもしれない。しかし、だからといって飯田下伊那ではなく木曽谷という広域圏に擦り寄る。こうした動きを助長するようなたとえば県とか、またあまりこの地域のことには無知な外部の人たちがいて、そうすることが活性化につながると思っているのかもしれない。けして木曽と連携するなというのではない。なぜ飯田下伊那地域と壁を作ってきた地域が広域行政の舵をとる県などの無知な人たちに乗せられてしまうのか、とそんなことを思うのだ(実際のところ飯田地域と壁を作ってきた地域が、だからといって木曽へという意識を持つとは思えないし、事実木曽へアプローチしようとする人は少ないだろう)。記事で紹介されているのは両地域の秋の景勝地を紹介した観光パンフレットである。十万部作成して両地域の住民には全戸配布していくという。発行したのは両地域の広域連合だという。A2サイズをA4の大きさに折りたたんだパンフレットで県の元気づくり支援金から事業費として157万円ほどの助成を受けたという。来春には春のバージョンも作成するという。なんというか近年の観光を主導しているのは県でありながら、なぜかこうした郡単位の縦割りをしたがる。ようは地域性などを認識した上での配慮などはなく、無知になった住民もそれでよしと思っている。何よりパンフレットを見てみよう。伊那谷と木曽谷は並走するように南北に展開している。実は楢川村が塩尻市に入ってしまって、木曽郡ではない。このあたりもだからこそ広域行政の役割があると思うのだが、現実的には行政が異なるからそうした枠外に追いやられたものは積極的には紹介されていない。木曽の南端にある南木曽町は、ほぼ飯田市と同じあたりに並ぶ。ということは木曽谷を網羅するとなれば、上伊那だけではなく下伊那、とくに飯田までは同じ地図上のエリアに入ってくる。それをわざわざ上伊那と木曽というエリアだけに絞るから、地図としては描かれても景勝地の空白地帯が登場する。事実掲載された地図では、南は飯田市の天竜峡あたりまで描かれていて、下伊那郡の全域をA2版に展開しようとすればすべて網羅可能だ。ところがわざわざ飯田市より南をカットして、そこには大きな字で景勝地の地図上の番号と景勝地名が一覧で書かれている。下伊那全域を掲載したとしても、右上と左下には上下伊那と木曽以外の地域があってそこに文字を集約することは十分可能なはずだ。なぜわざわざ上伊那と木曽なのか、だれが提案したものかしらないが、きっとこうした構図に異論を発す人がいないのだろう。こんなことをするからますます飯田地域が伊那地域へのまなざしを持たなくなる。それを県が主導しておいて、リニアがなんたらかんたら知事に言わせるようなら、ほとんどばらばら状態といわざるをえない。

 以前にも触れたが、中央線がリニアの開通に伴って新宿-甲府間が廃止されると、困るのは諏訪・松本地域。だからこそリニア諏訪ルートにすがる。中南信地域にあっては、どう考えても諏訪周りルートが最善策であることに変わりはない。それは前述した中央線の今後のことと絡むからだ。絶対新宿-松本間の維持が約束されるのならともかく、それがないとすれば、人口密度的に考えて何はともあれそれしか主張できないのである。けっこう長野県知事の発言に対して批判をする人がいるが、多数決でいけば当たり前のことである。そしてここまで触れた地域性が絡む。この問題を発端にして、さらなる伊那谷の分離が顕在化するのが残念でならないが、それは伊那谷の南北が両者にまなざしを持たなかった結果である。

 かつてのパンフレットをみてみると、「伊那谷」という扱いのものがあった。ところが最近は必ず上下を分けて作成される。それらはほとんどお役所絡みのものである。そういう姿を見ていてつくづく思うのは、地方事務所(県の出先機関)が別に別にあるのがいけないということだ。
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人社会の迷走②

2008-10-10 12:24:31 | つぶやき
人社会の迷走①より

 わが家にも言えることなのだろうが、地方の不幸な循環はますます身を閉じこませてしまう。ご存知の通り、地方は地方であって、多様な将来は見込めない。マチの華やかさを求めるのなら、いや、今はマチどころではなく世界の華やかな舞台を望むというのなら、小さな小さな地方の狭い空間に限定された世界に追いやられるのを避け、まずは大都会へ向かう。それは現代のことではなくきっと昔から意識としてはあったのだろう。子どもの数が減り、一戸に1人とか2人とかそんな状況になってくると、子どもたち一人ひとりに対しての期待は大きくなる。優秀な子どもを育て上げ、将来を期待できる人間になれば、名声を獲得することも少しは可能となる。またメディアはそうした話題を日常に流す。しかし朽ち果てた廃村のごとくその路線を逸した者たちは、すでにこの世には未練をもち得ない間もなく黄泉の国に発ちそうな年寄りだったり、将来を捨ててしまった路上生活者だったりする。それを格差と言うかもしれないが、優秀な子どもを誰だって持ちたいと思えばこそのなれの果ての社会構造である。だからといってそれを望まないことが良いとも言えはしないが、子育てはこの社会の構造にあてはまるように認識され、実行されている。

 ノーベル賞を一度に4人も誕生させたことで「暗い話題ばかりなのに明るい」とか「日本人の優秀さに誇らしい」とか言うが、現実の問題を心にしまいこんでいる人たちも多い。だからわたしなどもそういうこともあるだろうが、世界の違う話、「日本人」という表現をするが「納得はできない」、などとどこかに感じたりする。つまるところ競争社会で勝つために方策を考え、またそれを誇らしげに生きるわたしたちは、生きるが上のエクスタシーのようなものを持ちたいと思う。ところが現実との狭間でもがき苦しむ姿が日常に蔓延する。

 地方の「悪循環」はそんな人々の心模様が展開される。何度も触れてきたように、今、地方では優秀な子どもたちは地域には残らない。それは長男が家を継ぐというかつての常識が崩れ去って以降、ますます進展し、「継がなくても良い、自分の可能性を伸ばせばよい」と解ったようなことをみな口々に言う。おそらく大人たちもその方が暮らしやすいと思っているし、家意識が消えた社会での常識となっている。地方に残るのは長男ではなく、いわゆる教育畑でいう優秀ではない人たちである。したがってそうした人たちが子どもをまた育てていくから親よりも当然良い学校へ進学し、またまた出来の悪かった親から優秀な子どもが育つと地方を捨てていく。この循環は最後にどうなっていくかというと、どんどんいろいろな面で質が低下していくことになる。例えば地域の進学校を卒業した者は地方にあまり残らない。すると進学校ではなかった人たちの子どもがまた進学校に進む。親よりもみな良い学校へ進む。しかし、だからといってその子どもたちが地方に残るでもなく、また外へと旅だっていく。良く言えば平均値が上がっていくということなのだろうが、悪く言えばますますダメだと言われる学校にはダメな奴ばかり集まる。この循環を冷静に捉えれば、生徒の減少が進むのなら力の低い学校を閉鎖していくというのがごく普通の流れとなる。それを証明するように、長野県内の高校の生徒数は、進学校はそのまま、郡境校や職業校の生徒を減らすという症状を見せる。地域にはよそで育った優秀なのか逃げてきた人たちかはしらないがやってきて、質の下がった土地の人たちを仕切っていく。きっとこの考えには異論を浴びせられるかもしれないが、流れは確実にある。伝承の中に「この土地にもともといたオヤカタ様は落ちぶれてしまって、よそからやってきた人がオヤカタ様に乗り変わってしまった」というものがある。現代にも同じようなことが起こっても不思議ではないのだ。そして現代においてはさらに深刻である。その地域のことを何も理解していない、あるいはその地域を知らずに育った者が名声を得た上で地方にやってきてリーダーとして実権を振るう。地域性が消されるのは当たり前のことなのだ。

 出来の悪い子どもに成り下がったらどうにもならないと思う前に、地域で暮らす人も必要だし、そこへ誘導できる地域社会が成り立たない以上、わが家も含めて不幸は連続する。それよりも優秀な道を歩んだからと言って、人として優秀とは限らないということをこの国の人たちはどれほど認識しているだろう。

 続く
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指定文化財解除申請

2008-10-09 12:31:05 | 民俗学
 「現在を捉える」において、倉石忠彦氏の「民俗の「創造」ということ」について触れた。「民俗学の、また長野県民俗の会の活性化に向けて、もう一度日々の生活を見直すことは、大いに意味のあることといわねばならない」と、会員に叱咤激励をしている。この指摘を掲載している「長野県民俗の会通信」207号のもう一つの報告は、多田井幸視氏の「過疎化と文化財保護のありたかた」というものである。旧上水内郡大岡村(現長野市)長岩地区に伝わる「塩竃神社の祭事」が、先ごろ長野市指定文化財解除申請が出され審議されたという。祭日に出していた甘酒を社殿まで担ぎ上げることが困難になり、従来の祭事を継続できないということで申請されたものらしい。旧大岡村は仕事で何度も訪れた村で、わたしにも印象深い村である。ちょうど合併した時期にお世話になっていたこともあり、前後の村を知っている。もちろん合併したからといって大きな変化が見えたわけではないが、市内から1時間ほどもかかるこの村は、いわゆる動脈と言える鉄道や高速道路といったものから離れた地にある。ということで主要な市のどこからも遠く、不自然な形で長野市に編入された。山間の傾斜地がほとんどで高齢化率も県内ではとくに高く、典型的な山間地ということになる。

 佃見沢沿いにある長岩の集落がすぐに浮かんでこないあたりは、わたしの記憶には薄いものの、芦の尻から小別当、長地、佃見と下る道は何度も走っている。小別当にはすでに住んでいる家はほとんどなく、長岩も佃見も、国道19号へ下る道沿いに点在して家が数軒残る。ここから国道19号に出れば旧北安曇郡八坂村である。国道19号は長野市と松本市を結んでいるが、このあたりまでくると、すでに松本平の香りもする。長岩の由来とも言われる尾根にある巨岩の上に奥州の塩竃神社から安産の神を勧請したといい、村内はもとより筑北や安曇からも安産と子授かりを祈願する人が詣ったという。祭りの日には甘酒を仕込み桶で岩の上まで担ぎ上げてふるまったという。二斗桶に担ぎ棒を渡し前後で担ぎ、岩山上部の夫婦松脇まで溢れさせないように持ち上げるというのだ。戦後しだいに人口が減少し二斗が一斗、さらには三升となり、長岩だけでは継続できず、下方の佃見集落に助けをもらうようになったという。現在では三役だけがお札とその年の当番が作った少量の甘酒とお神酒などを持って参っている状態で、かつてのような賑わいはまったくないようだ。直らいは代表者が帰った後、集会所に戻ってから行われるという。まだ手作りの甘酒が作られているが、いずれは買ったものが使われるのではないかともいう。その理由は高齢化もある。平均70歳を過ぎた者ばかりで巨岩の上まで参るのは危険だと言う。さらには神社そのものの維持さえ困難になっているともいう。

 その祭りがもっと著名で、大掛かりなものともなれば、それを助けようと外部のものが手を出すというケースや、出て行った者が帰ってくるというケースもあるが、小規模の集落で続けられてきたものはそうはいかないのだ。そしてその祭りの意図が、安産や子授かりというのだから、年老いてしまった集落にはすでに祭りを続ける意味が無くなってしまってもいる。

 多田井氏は「地域の民俗文化を維持できなくなっている状況は、民俗文化財として指定されている、いないに関わらず全国津々浦々で起きている。こうした直ぐには解決できそうもない問題を如何に克服して、ムラ人が本当に願うものに近づけていけるか、今こそ「経世済民」を謳う民俗学徒に課せられた課題といえる」という。結論の言葉はかなり難しいことを唱えている。わたしは民俗学徒とはいえそうもないから良いが、果たして民俗学徒といわれる人たちは、農業とか、集落とか、そしてそこに済む人々の気持ちをどれだけ認識しているだろうか。一様ではないさまざまな環境を持つ集落において、おしなべてこうした問題は起きているものの、背景は多様であるりはずだ。さらにはこの時代、地元の人間だけではなく、そこから出て行った人間や、またまったく縁のない人間が関わってきたりする。その度合いによって状況は違ってくる。倉石氏が「創造」という部分に触れたいっぽうで、文化財とされている過去からの贈り物は、別個の世界の難題を問いかけている。
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現在を捉える

2008-10-08 12:22:05 | 民俗学
 「長野県民俗の会通信」最新号である207号に低迷する活動に示唆的な論文が二つ掲載されている。創造という捉え方を扱ったものと無形文化財解除申請という消える民俗を扱ったものという相反する二編である。この二編が同じ誌面に登場したというところに大きな意味があるようにも思う。

 まず倉石忠彦氏の「民俗の「創造」ということ」では、湯川洋司氏の「時代とともに常識は変わる-これも民俗か-」(『本郷』76吉川弘文館 2008/7)を引用して「現代を捉える民俗学といいながら、現代に払う関心の低い現状を改めて認識するとともに、筆者なども大いに共感する点である」と述べている。

 文字ではなく伝承というスタイルで受け継がれてきたものを、聞き取りというかたちで記録に留める作業を民俗学は行ってきた。柳田以降膨大なそうした記録が残されてはきたが、それらは日々の暮らしの中で変化を続ける。もちろんそうした従来のものが変化することを捉えながら記録もされるが、いっぽうで従来は形もなかったものが、新たに創造されてそれが以後継続されて伝承されていくものもある。倉石氏が湯川氏の言う「民俗を伝承されてきたものとだけ考えるのではなく、暮らしの中で常に創造されていく」という部分について触れ、その場合の民俗は「民間伝承」ではないかと捉えるように、とくに民間伝承という分野は日々創造されるものかもしれない。しかし、いずれにしてもどの時代を捉えて民俗と言っているわけでもなく、歴史として形成されていく今を過去からの流れの中に意味づけ、そしてさらにこれからを見据えて現在を捉えるということになるのだろうか。

 これまで聞き取りを行って蓄積を重ねた。多くのデータを解析することでより正確なものとなりうるかもしれないが、民俗は個人で伝承するものもあれば地域社会が伝承する部分もある。かつてのようにほぼ同じ暮らしをしていた時代ならほぼ共通性があっただろうが、現代に問題を展開すれば、必ずしも一様ではない暮らしが見えてくる。かつての暮らしが現代にどうつながっているのか、そして現代においてどう認識されているのかという部分を捉えていけば、まさに現代の事象を記録することも必要となる。あくまでも聞き取りという中で聞き手側がどうそれを処理するかがそうした民俗学にたずさわる個人の捉え方のありようとなるわけで、ますます捉える側の問題意識は重要となるのだろう。もしかしたらこの世界、すでにその領域を超えて違う世界に足を踏み入れているのかもしれない。しかし、学問は立割りの世界だから、必ずしもそれを新たなモノとはなかなか捉えないだろう。従来の枠の中で模索する、それが現状のようだ。わたしがやっていることでよく言われることに「それは民俗?」というものがある。懐古的な古臭いモノを掘り起こすかと思えば、ずいぶん違うことをしているからそう言われる。わたしのように専門的には何も学んできたわけではない人間には、「何だかよくわからない」としか言えないのかもしれないが、いずれにしてもそれらしきものであることは確かなようだ。

 ところが歴史系でありながら個人の聞き取りで問題を展開するとなればその信憑性は怪しい。当たり前のことで聞き取りだからそれが必ずしも正確だというわけではない。とくに最近のように個人情報を抑えた形でA氏などと名前を伏せたりすると、まったくもって作り事も可能となる。ノンフィクションもフィクションも物語となるとさしてどちらも意図するものは変わりなく見えたりする。だから物語として捉えた方が楽しく読めるのかもしれない。この怪しい世界において、現代はいかに正確に捉えられているかと問えば、確かに倉石氏の言うように「われわれは、民俗調査において、地域の生活の現状を把握しながらも、あまりも当たり前すぎるということと、歴史的再構成や、問題解決をあまり急ぐあまり、現状の記録をなおざりにする傾向があった。それは率直に反省しなければならない」という現状であった。一つの指標として「戦前」という捉え方があって、民俗誌の多くはそうした前時代を捉えることに注目してきた。そのためあまりにも多くの地域を捉えてきたのに、その後の民俗は記録されていないケースが多い。かつてこの会が「民俗の変容」をテーマにかつて調査の行われた地域に再度入って二度目の民俗調査を試みたこともあったが、明確な比較はできていない。それは「変容」に重視しすぎたため、倉石氏が指摘するように、まさに問題解決を急いでしまった結果かもしれない。日々変化をする暮らしの中を意識的なテーマではなく、現在を捉えながら比較してみて、初めて「変容」を具体化できたのであろうがそれがなし得なかったのである。倉石氏は「井之口章次は、重出立証法を、文化事象の比較ではなく、その変化の過程を比較することによって、歴史を再構成する方法であるとした。だがその変化を作り出し、変化に立ち会った当事者が、既にその変化の過程とその理由を明確にしにくくなっている。現状記録を怠った付けが回ってきているのである」と言う。わたしに言わせれば、戦争が言い伝えられていないことはまさにそうした現状の記録を怠った故のものと思っている。戦後それほど時が経っていない時代に生まれたにもかかわらず、まったく戦争のことは解らない。そしていまやつい先ごろのことでさえなぜそういうことになったかが見えないほどに展開は進んでしまう。そしてさらに言わせてもらえば、気がつかないうちに大きく農村の姿は変貌を遂げ、意識も同じく変わってしまっているということである。果たして民俗は今を語るほどに今を認識しているだろうか。
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ブランドトマト

2008-10-07 12:25:38 | 農村環境
 先ごろ祭りで生家を訪れた際、ご馳走として並んだものは、兄が飯田からの帰りに途中の大型店などで購入してきたものだという。かつては身近にもあったそうした商品を扱う店も、今はだいぶ姿を消してしまった。40年ほど前なら地域にあった農協支所や食料品店。30年前から20年前なら町にあった地元の共同大型店舗。10年前あたりから怪しくなって、地元にはなかなか思うような商品を扱う店はなくなった。もちろんわたしも生家から出て暮らしているからここ数年の傾向というものは解らない。同じ町でしかも近いとろこにはなかなかないため、隣の村のスーパーを利用するようになったという話は聞いていた。そこも当初の経営とは形を変えて運営しているようだが、駒ヶ根駅前で営業している店と同じ系列でやっているというから、村のスーパーといってもそこそこの店である。我が家からもそう遠くないということもあって、妻が実家通いをしない時なら利用する第一候補かもしれない。

 そんな第一候補の店へコーヒー飲みがてら妻は買い物に出かけた。ふだんは実家の農業勤務の傍らでそうした買い物は済ませているから、それほど買い物というほどのものではないが、久しぶりに我が家から実家通いとは違う目的で出かけていった。これを観光と我が家ではいう。ようはそのくらいしか妻にとってのいわゆる外出はないからだ。その店にはマイカップを持参で行くと、150円でコーヒーが飲める店がある。久しぶりに行く妻は「もう無くなっているかも」と心配していたが、まだ営業をしていたらしく、帰りにはコーヒーを購入してきた。さっそくわたしは封を開けて香り豊かなコーヒーを飲むことになった。

 妻は帰り道に片桐西原の赤そば祭りにも寄ってきた。前々から赤そばが評判になっているものの、家の近くだと言うのに見たことがないという。すぐそこだから帰りに見てくれば、と言ったところ寄ってきたというのだ。そこで完璧に観光客の一人となって赤そば畑を観察してきたようだ。加えて祭りで売られていたトマトジュースが安売りしていたといって手に入れてきた。以前にも触れたことがあるGOKOアグリファクトリーで生産されたトマトのジュースだという。わたしもその後結局飲んだこともなかったのでとても興味深かった。妻も実家に持っていって飲んだらみんなが「美味しい」と言って飲んだらしく、高級ジュースに感激していた。ということでわたしも飲んでみたのだが、第一印象は「軽い」という感じである。いわゆる従来のトマトジュースのようなどろどろとした重さはない。わたしに言わせると「土っぽくない」というものである。確かに高級感があって人気を得そうだが、750mlで1260円という値段ではなかなか手が出ない。そんな高級ジュースに添付されていたパンフレットを見ていて「唖然」としたのである。そこには、

“「子供たちに安心して食べさせられるものを」をモットーに農産物の加工業界を切り拓いてきた○○○○氏の工房とのコラボレーション。着色料や添加物は一切不使用。‘樹なり完熟とまと’のうまさや力強さが見事に活きています。”

とある。○の部分は個人名が記されているがあえて表示しなかった。営業妨害になってはいけないというわたしの計らいである。妻の家と○○氏は関係がある。妻は○○の名前が明記されている加工ジュースは絶対に買うことはない。それを我が家でパンフレットを見ていてようやく気がついたのである。わたしはてっきりGOKOアグリファクトリーで加工まで手がけているのだと思ったら、なんとこれほど高級なジュースなのに加工は妻の実家の近くの農産加工場。これは本当にわたしもびっくり。「美味しい」と言っていた妻も少し幻滅したようだが、それでもこの美味しさは「トマトのせい」と言い聞かせていた。しかし、前述したような売りの「子供たちに安心して食べさせられるものを」というフレーズはしぼんでしまった。

 ○○氏について「農産物加工のカリスマ」などと紹介されているという。だいたいがどこかに地域おこしのカリスマという人もいたが、つき合ってみるとずいぶん怪しい人が多い。


 以前にも触れたようにこのトマト工場は、「土を使わず、工場内をできるかぎり無菌状態へ近づけることにより薬品の使用を極度に減少させています。廃液循環利用などのクローズドシステムを採用した環境保全型工場です」という。工場からは土の匂いはしないが、商品になるまでにきっと土の香りをふんだんに交えているのかもしれない。以前にも自らこんなことを書いた。「衛生的といえばそのとおりなのだが、そこからは土の香りはまったくしない。超衛生的なトマトと、土臭いトマト、何年もすると、前者のトマトでないと若者が食べなくなるかもしれない」。まさにそんな雰囲気が十分にあると感じたトマトジュースである。
 ちなみに、妻に言わせると本当のトマトジュースはこんな具合に「軽い」という。
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「住まう」とは④

2008-10-06 12:30:24 | 民俗学
 「住まう」とは③より

 かつて「一家団欒」という言葉があった。多田井幸視氏は「囲炉裏周りでは、食事やお茶、夜なべ仕事、子どもの宿題、客の接待など、常に家族の顔がみえ、息づかいが伝わり、会話があった。笑顔で家族が寄り添って並ぶ、コマーシャルに出てくるような三世代家族ではなかった。一つの屋根の下での所作は、世間話をしながら縫い物や藁細工に精を出す祖父母や父母、宿題をしながら一日の楽しかった出来事に花を咲かせる兄弟など、家族の一体感があった」と一家団欒の光景を解く(『日本の民俗5 家の民俗文化誌』2008/8 吉川弘文館)。そしてその後一つ屋根の下にいながら個室化が進み、一体感は希薄化へと向かう。一つ屋根の下で暮らす意図がどこにあるのだろうということになる。強いては母は、そして妻はキッチンで餌を作り、多くは脱衣所などの空間になるのだろうがそうした場所で選択をする。それぞれは仕組まれた日常に割り当てられ、誰にも認識されないうちに餌が完成し、洗濯物が干されることになる。そのプロセスなど見えるはずもないのである。

 古家信平氏は橋浦泰雄の『五鹿録-民俗的自伝』(1982 創樹社)に触れ、「最期を迎える場所」である「奥」に注目している(前掲註と同)。橋浦が転居繰り返すなかで、間取りに触れているのは「奥の八畳」の二箇所だけだという。その「奥」は「人生の最後を迎える場として、無意識のうちにオクを指示している」というのである。オクという空間が「いのちの終焉の場」として捉えられているという。奥座敷という空間がただそれだけのためにあったわけではないが、いかに記憶に残るものとして「いのちの終焉」という空間イメージが強かったかということにもなる。これは前述した空間の個室化という部屋の位置づけではなく、日常のできごとをどこの部屋を使って処理しているかというものであって機能重視という捉え方ができるだろう。そしてそれは誰にも共通した機能を持つ空間として位置づけられるようになるわけで、あらためてかつての家は、日々の暮らしの中に溶け込んでいたかということが解るだろう。そうした意識が強かったがために、そうした暮らしを経験してきた人々は、座敷を二間続きにしなくてはならない、とか縁側を造らなくてはならないとかつては考えていたのである。縁側がなくては嫁入りもできないし、棺桶も出せなかったということになる。

 さて、かつての家造りに感心させられることはあっても、それを現在の住宅建築に取り入れるということは例としてはなくなってきた。「育った家」にどれほど不合理があったとしても、そこで生きなくてはならないなどという強い制約など現在はなくなった。屋敷周りのセンザイ畑でまにあった食料、そして屋敷周りでの生業。身近な空間で家族だけではない、地域の人々も顔を合わせて暮らしたという世界は、今ではなかなか想像もできないものなのかもしれない。そう考えれば、地域の中でも庭の内が見えないように垣根なり塀をめぐらし個室化していくのも家の中の個室化をさらに家の外につなげた行為なのだろう。一つ屋根の下で暮らす意図もなければ一つ地域で暮らす意図もなくなったということなのだろう。もちろん暮らしている人たちにそういう意識はないかもしれないが、冷静に考えてみれば、すべては連綿とつながっているものなのである。
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はざ架け

2008-10-05 19:46:35 | 農村環境
 「落穂拾い」について先日触れた。そのときに「わたしは稲刈りの際に落穂が落ちないように配慮している」と言った。わたしが稲刈り、とくにはざ架けに精を出すようになったのは高校生のころだろうか。ろくに勉強もしなかったが、家の仕事もろくにしなかった。ろくな息子ではなかったかもしれない。稲刈りもけして楽しい仕事ではなかったが、手伝わなくてはいけないという気持ちはあった。稲刈りといえば「はしかくなる」のが嫌だった。藁から発散するほこりが身体につくと気持ちのよいものではなかった。それでも仕事をしている中で、はざ架けは稲刈りでも最後の仕事。架け終われば「それでお終い」ということだからとくに早く終わらせることを考えたものだ。だからこそはざ架けは自ら進んでやったし、終わらせるためによく働いた。そんな行動が解っていてか、父はよく戒めたものだ。「いいかげんに架けると穂が落ちる」と。はじめのころは確かに架けるのは早くても、わたしが架けると落穂拾いが大変だった。積まれた稲の山から手にとった束片っ端から取って架けていた。もちろんその稲の山の積み方も大事で、穂がばらけた状態で積まれていると、どうしても挟まれた穂は積まれた束の重みで抜けてしまうものだ。手当たりしだい力任せに束を握って架けるから、どうしてもそんな具合に穂が抜け落ちる。それを戒めて父は言うのだった。なるべく上から束を取る、そして無理をしないというのが穂を落とさない方法なのである。それを今もしっかりと覚えている。今は稲の山へ運ぶのも自分だから、だきるかぎり穂がばらつかないように運んだ束を積む。それが強いては架けるときに落穂を増やさない方法なのである。

 生家のはざ架けをしたころには運搬車などというものはなかったが、今は小型の運搬車に乗せて運んでいる。運搬車に載せたまま架けると腰を屈めないから楽であるが、そんな運搬車に載った稲を親戚のおばさんに取ってもらって架ける時が今年も何度かあった。おばさんもわたしの架け方があまりに早いから、稲を取るのを嫌がる。当然だろう、取る方が腰を屈めなくてはならない。年をとってくると地面においてある稲束を拾い上げるのがきつくなる。催促されるように待っていられると、ただ拾い上げるだけの作業も大変である。だから運搬車に載っている稲ならおばさんも取ってくれる。そんな時は、ほぼ一秒に一把架けるくらいの早さである。もちろんはざを支えている杭棒の立っているところはそんな早さでは架けられないが、そうでなければ平均一秒一把である。わたしの場合地面に置かれている稲を自ら拾い上げて架けても一把二秒はかからない。妻もそんなはざ架けするわたしを見ては、「はざ架けの競技があったら絶対優勝するね」と揶揄する。わたしにしてみれば、刈り取りからかけ終わるまでが稲刈りの一連作業だからそういう競技でなくては意味がないと思っている。もちろん早さは当然であるが、いかに穂が落ちていないかも大事なことである。いまどきのはざ架け率など低いから、そんな競技を発想する人もいないだろうし、「だから何だ」程度のことである。そういえば、できあがった農産物の品評会はあるが、作業工程に関する評価などと言うものはない。農業は時を惜しまず手をかける生業なのである。
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わたしたちの暮らしの源

2008-10-04 21:08:51 | つぶやき
 自治体がかつて管理していたもので顕著なものといえば、道や川といったものだろうか。かつてのように舗装もされていなくて、ミチブシンといって地元の人たちが管理していればそれほど管理費はかからないものの、今はほとんど舗装もされていて、加えて道路整備はいつまでも繰り返されてきたから、管理するべき延長は延長してきた。それでも道は舗装がどんなに痛もうと「金がないから」といって何も整備をしなくてもそこそこ利用はできる。川はお国の管理するものだが、網羅して管理できないから日常のことは地元の人たちがする。これもまた何も整備しなくとも水は流れることに違いはない。いざとなったら問題の箇所だけ直していれば、そこそこなんとかなる。

 ところが高度経済成長以降新たな管理施設が増えていった。まず上水道、そして下水道。上水は家を造る場所をいとわず、それまでの常識的な家造りを変えた。家造りというよりは集落をも変えたといってよいだろう。それまでなら水がないところに集落はでき得なかった。それがどこでも水はやってくるのだ。誰もが口にした変化である。おそらく家の中の変化でこれほど大きなものはなかっだろう。もちろんその背景において、それらを維持していかなくてはならないという負担は負荷される。まだ上水だけならよかっただろう。そこへ下水というものが生活を潤した。潤したといってよいだろうか。実際は下水道が整備されたからといって、その施設へ参加している人たちはすべてではない。上水に比べればその加入率は大きく下回る。ようは下水に依存しなくとも、それまで利用していた汲み取り式の便所でもやっていけるし、台所の水を垂れ流したとしても法の裁きにあうわけではない。時代は金が命の時代となり、知らない間にそんなところに格差のようなものが見え隠れしてくる。強いては地域の自治というものをそんな施設が負担になって足を引っ張るようになる。果たしてそれが最善だったのか、などと今考え見ても仕方がない。しかし、それが最善だとして売り文句を言った人たちがたくさんいるのだろうし、それが常道だと判断した人たちもいた。誰のせいともいえないような絡み合いがある。

 『生活と自治』9月号(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)に「〝し尿〟はどこへ」という記事がある。東京都内には汚水処理施設が21ヶ所あるという。その全体で除去される汚泥の量は、年間で東京ドーム60個分を超えるらしい。これらは脱水後に焼却される。毎年の予算は3000億円。誰も意識していないかもしれないが、壮大なお金のかかるシステムが動いているのである。記事に書かれているように、戦後のこれらの事業は公共事業として多くの雇用を生んだ。誰もがさまざまな形でその恩恵にあずかってきたわけである。だから一概にそれを否定するものでもないし、有効に利用されていくへきものなのだろう。しかし、そうした流れは、今になってさまざまな障壁となって地方の病の源となっている。その維持費の負担は財政難の元凶にもなっている。かなりの山間地域に行っても、同じような下水道が整備されていて、見事なものである。そうした維持管理にも多くの人たちが雇用という面で恩恵にあずかってはいるが、そうでない人たちもいる。果たしていずれ整備された施設をの更新時期に、いったいそれを更新するだけの財政負担ができるのだろうか、というところも大きい課題である。道、川、上下水、そしてそれ以外にもさまざまな施設が整備されて、一日殿暮らしを潤わした。そのすべてに費用がかかることを忘れてはいけないし、またそれを背景として自らの雇用を展開させてきた。記事ではバイオトイレというものに注目しているが、いずれにしてもこれまで整備されてきたものを新たな道に転換することは容易なことではない。

 「田舎暮らし在宅ワーカーの日々」というブログで断水した上水道について触れられている。上水というものもかつてはそれぞれの家、あるいは地域において井戸水を利用して共同で、あるいは個々で水道として引いていた。もちろんそれ以前は水を貯める桶に川や湧水池から水を汲んできて利用したのだが、それらに要す手間は並みのものではなかった。だからこそ水の便の良いところに嫁に行くことを喜んだのである。現代において格差というものは金銭的なことを捉えて言うが、もともと生活の隅々まで格差というものはあったのである。しかし、その格差を消化してみな生きてきた。それをみな忘れているから、みな現代を悲劇化するが、金銭的格差などどうということはないと消化してみれば、みなそんなに落ち込むことなどないのである。
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人社会の迷走①

2008-10-03 12:27:11 | つぶやき
 人としての常識というものは明文化されているものもあれば、そうでないものもある。明文化しているものとして法律で決められたものがあるが、それだって「解釈」という部分で変化する生き物ようだ。専門分野のことなど無関係な者には認識できるものでもないわけで、常識というものを人が網羅することは不可能である。大人の行動に対して、「子どもが見ているから」と言えるのは、小学生の間なのか、それとも中学生までなのか、さらには二十歳までの人を対象にしているのか、その境目だって明確ではない。わたしが通勤する際に通る道には、横断歩道が何箇所かにある。小学校の前にもあるのだが、道交法上の正規なものかどうかは知らない。そんな怪しいものもあるのだから法律にのっとればどうなのか、まで考え出すと結局くだらない議論になってしまう。

 そんな小学校前にある横断歩道のある道、通る車は数分に1台程度というあまり車の通らない道である。この道を左から右へ渡って駅へ向かう。本来なら横断歩道で渡るべきなのだろうが、ほとんど車が通らないのと、道幅も6メートル程度と広くないから、わたしは近道をするように斜めに横断していく。近道的な発想だとどうしても横断歩道の近くで渡るため、これを「子どもたちが真似をする」と指摘されれば確かにまずい行動である。子どもが近くにいるときは横断歩道まで行って、なるべく直角に渡るようにし、そうでないときはかなり斜めに渡るというのがわたしの考えである。どこで誰が見ているか解らないから、ということになれば、本来前者の行動を常にしなくてはならないのは当然のことである。「道路では横断歩道を渡るように」という法規があるとしても、では歩いている人に横断歩道の位置が認識されているかということも関わってくる。信号機のあるような交差点が見えれば当然のように横断歩道が併存するだろうが、信号機が見えないとなれば、どこでも渡らざるをえない。そのあたりが認識していたかしていなかったかという「殺すつもりがあったかなかったか」という分かれ目と同じになる。人間正直だとそれを逆手に取られてしまうわけで、そのあたりを知っていて聞く方も誘導するように聞く。正直な者がバカを見るケースがいっこうになくならないのも、そんな納得できない解釈と判断があるからだ。公の場においても、相手が何を意図して聞こうとしているか理解できないでいると、こちらでは意図していなかった方向に話がそれていってしまうことがある。それが意外と致命的になって、商談成立とならないわけだが、駆け引き区いうか騙しのような世界でもある。ある報告内容が、ある問題に対して解決する方法を探っているとする。ところがその報告を検査する側が、こちらはそれほど重要だと思っていなかったような箇所を突いて「この問題は本当は違う理由で発生しているのではないですか」と問う。こちらは解決する策に対してストーリーを立てているから、さまざまな視点を取り入れて検討までしていない。それはそうした視点に立つ人に遭遇することで気がつくことであって、必ずしも同じ視点で他の人が指摘するとは限らない。もちろんこれが業務となれば、100%完璧な成果はありえない。委託側が納得すれば10%でも50%でも請けた側は納めれば勝ちみたいなものなのだ。

 世の中にはそんなこちらが意図しないような盲点を突くことを楽しみにしている人たちもいる。恵まれていないといってしまうといけないが、人の幸福を妬むような人たちにもそうした人はいる。そんな世間での技を持ち合わせていないと、なかなかこのスリルのある世界を生き抜いていけないのである。

 続く
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「住まう」とは③

2008-10-02 12:27:17 | 民俗学
 「住まうとは」②より

 前回さまざまな制約の中で家は造られてきたのではないかといった。現代において家を造るといっても制約はさまざまだ。どこにでも造ってよい人にとってみれば自由な発想で自らの暮らしの空間を描くが、すべてにおいてフリーな状態で家を造る人は限られているだろう。まず現在住んでいる地域に狭められる。それは仕事の都合が優先されるからであって、地域限定しなくても良いという人は退職後の人か、仕事を持っていない人である。それでも現代の仕事は、必ずしも仕事場が限定されなくても実行可能な職柄の人もいる。情報がどこにいても受け渡しできるという時代においては、例えば東京にいなくても仕事はできる。加えて交通事情が良くなり、かなり遠くにいても毎日通勤しなくてはならない仕事でなければ、それなりに仕事はできる。著名人が地方に住んでいてもテレビに頻繁に出られるようになったのもそうした事情によるところが大きい。いずれにしてもそうした職に就いている人は限られている。一般人は毎日通勤しなくてはならないし、また地域に密着して暮らしてきた人たちにとって、いきなりまったく別の地域に住むということは不可能だ。したがって基本的に地域内であってもそれほど現在住んでいる場所を変えて住むというわけにはなかなかいかないのだ。

 地方ではアパートに住んでいて、マイホームを購入しようとすると、意外にアパートの近くに購入する人も少なくない。身近で嫁さんを探すのと似たようなもので、ふだんの暮らしの空間への執着というものは少なからずあるわけで、さらには子どもたちが異動したくないといえば、自ずとそういう選択に狭められるわけである。これもまた制約のひとつである。そうした家を継がなくても良い立場の人たちにとっては、家を継いで行く人たちに比べれば自由なものである。しかし、そんな自由があってもどこにでも自宅を構えるというわけにはいかない。地方にあってはまったくの農地のど真ん中に家を新築することは不可能である。いわゆる農地法の制限があって、農地の転用というものは簡単にはできない。もちろん農地でない土地(既成の宅地、荒地、山林など)であれば可能であるが、いずれにしても景色がよいからといって田んぼのど真ん中に新たに家を建てるのは難しい話なのである。広大な空間にあっても軒を連ねたように隣の建物を意識して建てなくてはならない地方の住宅団地を見ると、都会人にしてみればわざわ地方を選択して「こんな狭苦しいところ」に家を建てようという気にはなかなかなれないだろう。もし一区画が1000m2以上、いや2000m2程度あって売り出される住宅地が自由に手に入れば、地方の農地は今以上になくなっていただろう。このようにどこに住むかといっても自由に場所を選択できないという制約が、家を構える条件に大きく立ちはだかっていたわけである。もちろん法律が整備されるに従い危険な土地に宅地を造成することもできなくなったし、土地神話と言われるように地価の上昇も「家を持つ」という意識をかなりの面で制約していたことはご存知の通りである。

 現代における家造りが伝統を受けついでいるかどうかなどというものではなく、制約という根本なものをキーワードにして考えてみた。生業のおおかたがサラリーマンとなれば、家は自ずと生業にとって機能的である必要はなくなる。家に人が集まるということがなくなれば、家は小さくて良いし、部屋も必要な個人の部屋を設ければよい。共有空間はそれほど必要でないこの時代において、家の構成が変化することはいうまでもないのだ。したがって現代においては農家住宅にサラリーマンが住む環境はなかなかないわけで、さらには不具合のある家にわざわざ住もうということにもならないわけである。人口減少時代において、既成の家が売れるはずもなく、また既成の宅地が売れないというのも成り行きなのである。壊して造る、それが経済的でないとすれば廃屋が増え続ける。家造りと家を持つという意識、そしてそれをとりまく社会における「家」の存在というものまで含めて、わたしたちは考えていかなくてはならないことだと思う。

 続く
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****