Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現在を捉える

2008-10-08 12:22:05 | 民俗学
 「長野県民俗の会通信」最新号である207号に低迷する活動に示唆的な論文が二つ掲載されている。創造という捉え方を扱ったものと無形文化財解除申請という消える民俗を扱ったものという相反する二編である。この二編が同じ誌面に登場したというところに大きな意味があるようにも思う。

 まず倉石忠彦氏の「民俗の「創造」ということ」では、湯川洋司氏の「時代とともに常識は変わる-これも民俗か-」(『本郷』76吉川弘文館 2008/7)を引用して「現代を捉える民俗学といいながら、現代に払う関心の低い現状を改めて認識するとともに、筆者なども大いに共感する点である」と述べている。

 文字ではなく伝承というスタイルで受け継がれてきたものを、聞き取りというかたちで記録に留める作業を民俗学は行ってきた。柳田以降膨大なそうした記録が残されてはきたが、それらは日々の暮らしの中で変化を続ける。もちろんそうした従来のものが変化することを捉えながら記録もされるが、いっぽうで従来は形もなかったものが、新たに創造されてそれが以後継続されて伝承されていくものもある。倉石氏が湯川氏の言う「民俗を伝承されてきたものとだけ考えるのではなく、暮らしの中で常に創造されていく」という部分について触れ、その場合の民俗は「民間伝承」ではないかと捉えるように、とくに民間伝承という分野は日々創造されるものかもしれない。しかし、いずれにしてもどの時代を捉えて民俗と言っているわけでもなく、歴史として形成されていく今を過去からの流れの中に意味づけ、そしてさらにこれからを見据えて現在を捉えるということになるのだろうか。

 これまで聞き取りを行って蓄積を重ねた。多くのデータを解析することでより正確なものとなりうるかもしれないが、民俗は個人で伝承するものもあれば地域社会が伝承する部分もある。かつてのようにほぼ同じ暮らしをしていた時代ならほぼ共通性があっただろうが、現代に問題を展開すれば、必ずしも一様ではない暮らしが見えてくる。かつての暮らしが現代にどうつながっているのか、そして現代においてどう認識されているのかという部分を捉えていけば、まさに現代の事象を記録することも必要となる。あくまでも聞き取りという中で聞き手側がどうそれを処理するかがそうした民俗学にたずさわる個人の捉え方のありようとなるわけで、ますます捉える側の問題意識は重要となるのだろう。もしかしたらこの世界、すでにその領域を超えて違う世界に足を踏み入れているのかもしれない。しかし、学問は立割りの世界だから、必ずしもそれを新たなモノとはなかなか捉えないだろう。従来の枠の中で模索する、それが現状のようだ。わたしがやっていることでよく言われることに「それは民俗?」というものがある。懐古的な古臭いモノを掘り起こすかと思えば、ずいぶん違うことをしているからそう言われる。わたしのように専門的には何も学んできたわけではない人間には、「何だかよくわからない」としか言えないのかもしれないが、いずれにしてもそれらしきものであることは確かなようだ。

 ところが歴史系でありながら個人の聞き取りで問題を展開するとなればその信憑性は怪しい。当たり前のことで聞き取りだからそれが必ずしも正確だというわけではない。とくに最近のように個人情報を抑えた形でA氏などと名前を伏せたりすると、まったくもって作り事も可能となる。ノンフィクションもフィクションも物語となるとさしてどちらも意図するものは変わりなく見えたりする。だから物語として捉えた方が楽しく読めるのかもしれない。この怪しい世界において、現代はいかに正確に捉えられているかと問えば、確かに倉石氏の言うように「われわれは、民俗調査において、地域の生活の現状を把握しながらも、あまりも当たり前すぎるということと、歴史的再構成や、問題解決をあまり急ぐあまり、現状の記録をなおざりにする傾向があった。それは率直に反省しなければならない」という現状であった。一つの指標として「戦前」という捉え方があって、民俗誌の多くはそうした前時代を捉えることに注目してきた。そのためあまりにも多くの地域を捉えてきたのに、その後の民俗は記録されていないケースが多い。かつてこの会が「民俗の変容」をテーマにかつて調査の行われた地域に再度入って二度目の民俗調査を試みたこともあったが、明確な比較はできていない。それは「変容」に重視しすぎたため、倉石氏が指摘するように、まさに問題解決を急いでしまった結果かもしれない。日々変化をする暮らしの中を意識的なテーマではなく、現在を捉えながら比較してみて、初めて「変容」を具体化できたのであろうがそれがなし得なかったのである。倉石氏は「井之口章次は、重出立証法を、文化事象の比較ではなく、その変化の過程を比較することによって、歴史を再構成する方法であるとした。だがその変化を作り出し、変化に立ち会った当事者が、既にその変化の過程とその理由を明確にしにくくなっている。現状記録を怠った付けが回ってきているのである」と言う。わたしに言わせれば、戦争が言い伝えられていないことはまさにそうした現状の記録を怠った故のものと思っている。戦後それほど時が経っていない時代に生まれたにもかかわらず、まったく戦争のことは解らない。そしていまやつい先ごろのことでさえなぜそういうことになったかが見えないほどに展開は進んでしまう。そしてさらに言わせてもらえば、気がつかないうちに大きく農村の姿は変貌を遂げ、意識も同じく変わってしまっているということである。果たして民俗は今を語るほどに今を認識しているだろうか。

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