Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人社会の迷走③

2008-10-23 12:24:45 | つぶやき
人社会の迷走②より

 前回地方社会の「悪循環」について触れた。先日書いた「中山間集落のこれから」の内容は、そんな悪循環の結果の出来事になるかもしれない。年寄りしかいなくなった社会で、子どもたちはその伝達を受けないまま親は亡くなっていく。子どもであることにかわりはないが、地域とはまったくの無縁である。そんな家が増えていけば、残った人たちも住みづらくなるとともに、手を施しようがなくなる。どれほど環境を唱えたとしても、1人では何もできないし、人の土地や所有物をどうにかしようなどということもできない。まさにそれぞれの生活は切り取られた個々の生活になってしまい、総合的な空間ではなくなる。妻が危惧する農村の将来の一つに、これらの問題が山積する。妻にとっては実家のある空間で農業をするのが生きがいである。家、山、田んぼ、ため池、そして周囲の景観、すべてにおいてさまざまな噂話はあってもその空間を生きがいにしてきた。どれほど過疎化が進もうと、その空間で自然と、人々と関わりあいながら連綿と暮らしが継続してきた。ところが人はしだいに顔を変えていく。亡くなれば次の顔へ、いなくなればその土地には顔はなくなるものの、そのまま土地は残る。変わらないようで長いスパンでは大きく変化を遂げる。その中で身を置いていると、それまでの地域社会が泡のように消えていくのを体感するのである。それは自分の描いた社会を自らが常識化しているだけで、変わるのは当たり前と思っていればまた違うのだろうが、なかなかそうは捉えられない。自らが描く世界が継続できればよいが、それが変化していくことは、年老いていくものたちにとってはやるせないものなのである。とくに自然はそのままとしても人は必ず変わっていく。その「人」は悪循環の結果、意思疎通がなくなり、その関係は都会の人間関係以上に顔の見えないものになる可能性は大きい。そうした環境に住む人は少ないから国民目線では既に理解されないだろう。もはや地域社会、いやここでいう社会は妻の視ている社会なのだろうが、最悪のシナリオに紛れ込んでいるのかもしれない。そしてそれはもっと山間の地域ではすでに諦めの中に彷徨っているに違いない。

 さらに危惧の根源には、妻の立場もある。娘は手伝う人であって、経営者ではない。なおさらそうした問題に口を出すこともできない。その葛藤の中で苦しんでいる。それは日常の暮らしにも影を落とす。悪循環はわが家の生活の中にも同じような問題を派生させる。これが地方社会のそれぞれの迷走ということになるだろうか。

 このごろの世論調査において、麻生内閣の支持率が下がったということを、あちこで言っている。もともと発足後は下がるのが常識であって珍しいことでもなんでもないのだが、麻生内閣が示した景気対策に触れ、解散が先か景気対策が先かという質問に対しては、景気対策が先という回答が過半数ではなかったが解散優先と言う回答よりも圧倒的に多かった。世の中の大方の人々は、やはり景気対策を期待している。発想の転換はかなり難しい話なのである。その原点には自らが生きる術がなくては、それを犠牲にしてまでも経済至上主義を転換というわけにはいかないのが実情なのである。政治に個々の生活を潤わしてほしいなどと言えば、結局は経済成長に行き着いてしまう。環境も福祉も成長の上に成り立つという計算式が解かれる。どれほど地方財政が厳しいといってもおおかたの人々は成長はともかくとして、便利だけを望む。もはやこの迷走は止まるところを知らない。働き口なければ収入はなし。それを政策として実行してきた地方のリーダーたちは、口では企業誘致だの定住促進などというが、空間は限られているとともに、土地はモノは金は、自治体のものではない。地方の意識が分離したそれぞれの切り取られ描かれた舞台だといったが、同じことは市町村ごとでも言える。自分の町が良ければといっても、隣は飢え死にしては広域行政は成り立たない。そして自治体だけではなくさらに大きな枠でも同じことである。これが繰り返される以上明かりは見えない。自治体の合併はそんな切り取られた世界を作ってきた。かつてのように小さな自治体が分散していれば、それぞれがもう少し違う視点を持った。ところが大きくなれば、かつては左手も見ていた人々が、みなこぞって右手を見る。自治体ばかりではない。地域を支えていた農協にしろ、もっといえば政治にしろ、大きくくくられるからこそ、小さな意見は飛んでしまうし、また隣との協調もせず、競争だけをする。ますます境界域で暮らすには暮らしにくい時代になったといえるのだろう。

 かつて昭和の大合併において、同じ村の中で北の方は北へ、南の方は南へ行きたいと言ってもめたものだが、今はそういうことはほとんどない。大きいが故に、そんな小さな意識は問題外なのである。さらにはそうした意識を生むほど小さな地域がまとまっていないという現実がみてとれる。まさに諦めなのである。

 終わり。
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