Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

男と女の民俗誌②

2008-10-26 10:13:10 | 民俗学
 男と女の民俗誌①より

 前段では記述されていることについてではなく、わたしの常日頃の鬱積のようなものを書いてしまった。以後は本誌(『日本の民俗7男と女の民俗誌』)から教えられるものについて触れたい。

 このごろの家庭においては、専業主婦として一日を暮らすのは難しいと思う。それはこれほど家が、人が個々を重視している以上、外交的でない女性にとっては家の中に引きこもることほどつらいものはないだろう。どれほど仕事という重圧から避けられるとしても、一人で日々を暮らすことの方が精神的にはつらいものがあるはずだ。それを思うと、簡単に男たちが妻の日常を批判することもできまい。どれほど専業であっても、男たちは「疲れているから」といって妻の言葉から逃れることも、また妻の仕事場に足を踏み入れないのもけして得策とは言えないのである。八木透氏は、「民俗社会では、都市には存在しないさまざまな女性たちだけの講集団が機能しており、子育てやその他のあらゆる情報を共有できるシステムが存在したことによって、女性たちが家の中で孤立してゆくという、都市の家庭に見られがちな状況は回避できていたと考えられる」(「男と女の諸相」)と述べている。専業主婦はあっても専業主夫の例は少ないだろう。どうしても家に閉じこもる立場は女性が多い。そういう面ではもし主夫の例が多ければ、男性の自殺はもっと多くなるのだろう。

 かつてなら講集団のようなものがあったのだろうが、しだいにそうした講も廃れたりした。その後婦人会とか若妻会といった地域の女性だけの集団と言うものが盛んになったのだろう。ところがこうした集団も高度成長以降「忙しい」という流れから個々の生活重視になり、集団に参加する人たちも減少したり、集団そのものもなくなっていった。かろうじて女性たちにとって健在な集団はPTAなのだろうが、これらも少子化のなかで必ずしも継続性のある集団ではないし、子どもを介しての集団は、競争意識など違った問題を生む。こんな状況下で専業主婦が存在したとしたら、女性にとって外部との交わりは無くなる。いつか触れたいと思っていることに「農業者の課題」というものがある。現代の農業者にとって何が苦痛かといえば、やはり孤独な世界だということではないだろうか。どれほど忙しいサラリーマンであっても、そこそこ他人との交わりがあり、仕事以外の世界も垣間見ることができる。ところが農業者にとってはどうだろう、ということなのである。いずれにしてもこのことはいつか触れたいと思っている。孤立化する人々の先進的な空間を、主婦たちに見るとことができると思っている。

 本書の中でも何度となく触れられているが、民俗社会は家を継ぐ者を中心において語られてきた。それは必ずしも長子と限られるわけではないが、社会空間は家が構成しており、それらの一戸一戸が生活の基盤であった。したがってその家の中心には主がいて、その主から見た社会だった。もちろん子どもやおんなたち、そして隠居の姿も見え隠れするものの、やはり家は固定されたものであって、さらには社会空間もそれほど変化しない構造を前提にされていた。その原点は「かつては」という聞き取りに始まる際の「かつて」がそうした構造を前提にしていたからだ。ところがその前提とは異なる地域ではそれなりに異なった視点で聞き取られたのだろうが、やはり前提には家があって主がいたのである。「夫婦が揃ってることが村人として正常な状態である」という視点は、常識的に存在していたわけで、このところ口にはされなくなったが、結婚しない人への捉え方も夫婦(家庭)になることが前提としてあったからである。もちろんそれはくすぶりながらも現在も語られるものなのだろうが、今や夫婦でなくてはならないという制約を掲げていては地域社会が成り立たない状態でもある。

 八木透氏が事例としてもあげている京都市左京区花背別所(はなせべっしょ)町のミヤザシキと呼ばれる男性中心の宮座組織の話は、わたしなどのように家を継ぐ者でないものには羨ましくも見える。滋賀県などで行われている「おこない」と言われる行事も、地域社会や家が織り成す世界である。そしてそこには主ではない者、いわゆる家を継ぐ者ではないものは関われない。ミヤザシキは厳格な組織といわれ、後継ぎである長男でしか参加することはできないという。神饌であるシロモチを作るのはシロモチハタギと呼ばれる若嫁であり、それは本人・夫双方の両親が健在で年齢は若ければ若いほどよいとされたという。限られた存在であることは言うまでもないが、いずれにしても男は生を受けたときからこの役に立てる立てないが決定していたわけである。世襲と言われるものも一家相伝と言われるものもそうであるが、いずれにしても生まれたときには既にその任がある程度限られているわけである。同じ家にいてもそれを前提とせずに育つ側の視点は、民俗社会でも重要ではなかったというこである。

 さて、そんな従来の視点を問題にしながら、本書は「人生における多様性への理解」が必要と説いている。

 続く
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