Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

いただき物

2008-10-27 12:53:33 | ひとから学ぶ
 実り秋といえばもらい物である。わが家じたいでは何も生産していないから、非農家である。ただし妻の生業を農業といってもよいほどだから、おおかたの農産物は自家製ということになる。そうした中でもっとも縁のない農産物が果樹である。果実だけはブドウを除いては妻も作っていない。わが家の周辺は果樹園地帯ということで、そんな果樹のおすそ分けがいただける。消毒がどうのといものの梨やリンゴは消毒なしではまともなものができないと知っているからか、梨やリンゴに関してはいただくと大変ありがたい。それでもかつてのようにどこでも果樹をたくさんやっているという状況ではなくなり、おすそ分けの量も減っている。楽をして口にしている果物も、いつまでそうして口にできるかは微妙なところである。

 いただき物はそうした果樹が主であるが、やはり妻の実家でも作っているわずかながらのブドウは一応いただいても別のルートに回ることが多い。ようはいただき物をよそへ回すというケースである。「いただいたものは遠慮することなく、ありがたくいただくもの」と妻は言う。この言葉は妻の父の口癖である。「いりません」などと口にはしないこと、そしてもし家で作っていても拒否はしないものという。そしていただいたらしばらくして必ず「美味しかった」とお礼を言うのである。食べていなくとも…。いただいた相手への思いやりということになるのだろう。

 駒ヶ根にIターンして自家消費の農業をする方はブログでこんなことを書いている。「近所の果樹農家の方は臆面もなく、「今は使っちゃいかんといわれているが○○(農薬の品名)が効くんだよ」と、禁止農薬をいまだに使い続けている。そこのお宅からの果物のおすそ分けは丁重にお断りしています。安心して口に入れられる食べ物は、自分で作るのが無理な場合でも生産者の人となりを確かめないと顔が見えても安全とはいえない場合があります」というものだ。わが家でもあそこの家からのおすそ分けは遠慮したい、などという会話がでることもあるが、それでもいただき物を断るというのは地域の中で暮らしていくのに得策ではない。だからといって命を短くするような問題がそこに横たわっているとしたら、こうした判断もあるのだろうが、果たしてその方の住む地域空間とはどういう関係なのか、わたしならどう判断するのか、などと考えたりする。いずれにしてもこういう物言いをする方や、わたしもそうであるが、意識の中にはっきりしたものがあると、どこかで「いらない」という顔が出ているのかもしれない。しかし、このケースはともかくとして、いただき物に対してどういう背景があろうと、「ありがたく頂戴いたします」という顔は持ち合わせていたいものである。それとは別にちっよと気になるのは、「近所の篤農家といわれる人でも「つべこべ言わずに除草剤振りゃ楽だろ」と、アドバイスしてくれます」というところで、篤農家とわざわざ前置きをしている点である。この方の「篤農家」に対する視点は明らかに農業を必ずしも理解していないものだとわたしは思う。篤農家とは手間を惜しまずに働く人たちだとわたしは認識していた。
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