Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「住まう」とは③

2008-10-02 12:27:17 | 民俗学
 「住まうとは」②より

 前回さまざまな制約の中で家は造られてきたのではないかといった。現代において家を造るといっても制約はさまざまだ。どこにでも造ってよい人にとってみれば自由な発想で自らの暮らしの空間を描くが、すべてにおいてフリーな状態で家を造る人は限られているだろう。まず現在住んでいる地域に狭められる。それは仕事の都合が優先されるからであって、地域限定しなくても良いという人は退職後の人か、仕事を持っていない人である。それでも現代の仕事は、必ずしも仕事場が限定されなくても実行可能な職柄の人もいる。情報がどこにいても受け渡しできるという時代においては、例えば東京にいなくても仕事はできる。加えて交通事情が良くなり、かなり遠くにいても毎日通勤しなくてはならない仕事でなければ、それなりに仕事はできる。著名人が地方に住んでいてもテレビに頻繁に出られるようになったのもそうした事情によるところが大きい。いずれにしてもそうした職に就いている人は限られている。一般人は毎日通勤しなくてはならないし、また地域に密着して暮らしてきた人たちにとって、いきなりまったく別の地域に住むということは不可能だ。したがって基本的に地域内であってもそれほど現在住んでいる場所を変えて住むというわけにはなかなかいかないのだ。

 地方ではアパートに住んでいて、マイホームを購入しようとすると、意外にアパートの近くに購入する人も少なくない。身近で嫁さんを探すのと似たようなもので、ふだんの暮らしの空間への執着というものは少なからずあるわけで、さらには子どもたちが異動したくないといえば、自ずとそういう選択に狭められるわけである。これもまた制約のひとつである。そうした家を継がなくても良い立場の人たちにとっては、家を継いで行く人たちに比べれば自由なものである。しかし、そんな自由があってもどこにでも自宅を構えるというわけにはいかない。地方にあってはまったくの農地のど真ん中に家を新築することは不可能である。いわゆる農地法の制限があって、農地の転用というものは簡単にはできない。もちろん農地でない土地(既成の宅地、荒地、山林など)であれば可能であるが、いずれにしても景色がよいからといって田んぼのど真ん中に新たに家を建てるのは難しい話なのである。広大な空間にあっても軒を連ねたように隣の建物を意識して建てなくてはならない地方の住宅団地を見ると、都会人にしてみればわざわ地方を選択して「こんな狭苦しいところ」に家を建てようという気にはなかなかなれないだろう。もし一区画が1000m2以上、いや2000m2程度あって売り出される住宅地が自由に手に入れば、地方の農地は今以上になくなっていただろう。このようにどこに住むかといっても自由に場所を選択できないという制約が、家を構える条件に大きく立ちはだかっていたわけである。もちろん法律が整備されるに従い危険な土地に宅地を造成することもできなくなったし、土地神話と言われるように地価の上昇も「家を持つ」という意識をかなりの面で制約していたことはご存知の通りである。

 現代における家造りが伝統を受けついでいるかどうかなどというものではなく、制約という根本なものをキーワードにして考えてみた。生業のおおかたがサラリーマンとなれば、家は自ずと生業にとって機能的である必要はなくなる。家に人が集まるということがなくなれば、家は小さくて良いし、部屋も必要な個人の部屋を設ければよい。共有空間はそれほど必要でないこの時代において、家の構成が変化することはいうまでもないのだ。したがって現代においては農家住宅にサラリーマンが住む環境はなかなかないわけで、さらには不具合のある家にわざわざ住もうということにもならないわけである。人口減少時代において、既成の家が売れるはずもなく、また既成の宅地が売れないというのも成り行きなのである。壊して造る、それが経済的でないとすれば廃屋が増え続ける。家造りと家を持つという意識、そしてそれをとりまく社会における「家」の存在というものまで含めて、わたしたちは考えていかなくてはならないことだと思う。

 続く
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