Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「住まう」とは④

2008-10-06 12:30:24 | 民俗学
 「住まう」とは③より

 かつて「一家団欒」という言葉があった。多田井幸視氏は「囲炉裏周りでは、食事やお茶、夜なべ仕事、子どもの宿題、客の接待など、常に家族の顔がみえ、息づかいが伝わり、会話があった。笑顔で家族が寄り添って並ぶ、コマーシャルに出てくるような三世代家族ではなかった。一つの屋根の下での所作は、世間話をしながら縫い物や藁細工に精を出す祖父母や父母、宿題をしながら一日の楽しかった出来事に花を咲かせる兄弟など、家族の一体感があった」と一家団欒の光景を解く(『日本の民俗5 家の民俗文化誌』2008/8 吉川弘文館)。そしてその後一つ屋根の下にいながら個室化が進み、一体感は希薄化へと向かう。一つ屋根の下で暮らす意図がどこにあるのだろうということになる。強いては母は、そして妻はキッチンで餌を作り、多くは脱衣所などの空間になるのだろうがそうした場所で選択をする。それぞれは仕組まれた日常に割り当てられ、誰にも認識されないうちに餌が完成し、洗濯物が干されることになる。そのプロセスなど見えるはずもないのである。

 古家信平氏は橋浦泰雄の『五鹿録-民俗的自伝』(1982 創樹社)に触れ、「最期を迎える場所」である「奥」に注目している(前掲註と同)。橋浦が転居繰り返すなかで、間取りに触れているのは「奥の八畳」の二箇所だけだという。その「奥」は「人生の最後を迎える場として、無意識のうちにオクを指示している」というのである。オクという空間が「いのちの終焉の場」として捉えられているという。奥座敷という空間がただそれだけのためにあったわけではないが、いかに記憶に残るものとして「いのちの終焉」という空間イメージが強かったかということにもなる。これは前述した空間の個室化という部屋の位置づけではなく、日常のできごとをどこの部屋を使って処理しているかというものであって機能重視という捉え方ができるだろう。そしてそれは誰にも共通した機能を持つ空間として位置づけられるようになるわけで、あらためてかつての家は、日々の暮らしの中に溶け込んでいたかということが解るだろう。そうした意識が強かったがために、そうした暮らしを経験してきた人々は、座敷を二間続きにしなくてはならない、とか縁側を造らなくてはならないとかつては考えていたのである。縁側がなくては嫁入りもできないし、棺桶も出せなかったということになる。

 さて、かつての家造りに感心させられることはあっても、それを現在の住宅建築に取り入れるということは例としてはなくなってきた。「育った家」にどれほど不合理があったとしても、そこで生きなくてはならないなどという強い制約など現在はなくなった。屋敷周りのセンザイ畑でまにあった食料、そして屋敷周りでの生業。身近な空間で家族だけではない、地域の人々も顔を合わせて暮らしたという世界は、今ではなかなか想像もできないものなのかもしれない。そう考えれば、地域の中でも庭の内が見えないように垣根なり塀をめぐらし個室化していくのも家の中の個室化をさらに家の外につなげた行為なのだろう。一つ屋根の下で暮らす意図もなければ一つ地域で暮らす意図もなくなったということなのだろう。もちろん暮らしている人たちにそういう意識はないかもしれないが、冷静に考えてみれば、すべては連綿とつながっているものなのである。

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